人間の能力はすごいと思う。
「犬」を犬として区別するものはなんだろうか?と思う。
ひらがなで「いぬ」と書いても、カタカナで「イヌ」と書いても、
犬のイラストを見せても、写真を見せても、「いぬ」と音で発音しても、
実物の犬を見ても犬だと思える能力はすごい。
「そんなの当たり前じゃん」と思うかもしれないけど、
何を根拠にそうやってひとくくりにできるのか?
犬といっても、チワワもいれば、チャウチャウもいるし、
柴犬やドーベルマンやセントバーナードもいる。
毛が長いのもいれば、短いのもいるし、大きさもまちまち。
四つ足動物は犬以外にもたくさんいる。
その中から、これは犬、これは猫、これは狐、これはタヌキと
区別できているのはすごい能力だと思う。
字で書いた「犬」と、実物の犬が同じだと認識できる力は相当抽象度が高い。
鏡を見て、そこに自分が写っていると認識できる動物はそう多くないらしい。
そして、この能力は、10年前の私と、今日の私と、未来の私を
同じ人物と認識する能力を持っている。
60日?ぐらいで身体の細胞は全部入れ替わるらしいから、
肉体的にはすっかり変わっているわけだ。
でも同じ自分だと思っている。
過去の自分を目の前に出せと言われても、それは記憶の中にあるから出せない。
でもそれをしっかりと自分だと思っている。
小学校に通っていた自分と、子育てしている自分が同一人物だと意識することは
過去から未来へという時間軸の中で、一つの人物が継続して変化しているという、
自分という存在を認識しているから起こること。
過去の記憶がなくなれば、自分のアイデンティティがわからなくなるように、
私たちは過去の記憶によって自分を認識している。
でもその記憶が本当に自分が経験したものか、
いろんなものをつなげて、「自分」というフレームに入れて、
後付けで作られたものか、それはわからない。
犬を犬と認識するように、自分を自分と認識しているその基盤となっているルールが壊れれば、自分という存在の境界が曖昧になるか、新しい定義がなされるだろう。
猫か犬かわからない動物が出てくるかもしれない。
その一線を超えないように、意識が「これはこれ」「あれはあれ」としていることによって
個の認識があるのだろうが、今、そこが変わりつつある。
「自分は何者か?」と悩むより、「自分は何者になるのか?」と決めるほうがいい。
そうすることにより、新しいゲシュタルトが作られて、
自分という存在の組み換えが起きる。
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