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迷いの窓と悟りの窓。

迷いの窓は四角い窓。
悟りの窓はまるい窓。

あなたはそこから何を受け取るでしょうか?


迷いの窓と悟りの窓は、
京都鷹峰の源光庵と東山の雲龍院にあるようです。

台風21号の前日、源光庵に行ってきました。

お堂にある迷いの窓と悟りの窓。
そこのお堂は血天井です。
この3つが合わさると奥深いものが見えてきます。

現場で見ているといろんなことを感じます。
とてもよくできたアート作品と言えます。

私が今回ここで一番思ったのは、

決めているかいないか。
覚悟があるかどうか。

ということでした。

何よりもこのお寺の血天井が効いています。
この窓二つだと、頭の中でふんふんと分かったつもりになれます。
迷いとはこういうこと、悟りとはこういうことなのか、と。

しかし血天井があると、殺戮があったことを思います。
今もある殺人や戦争や、人間の血塗られた歴史なども。
人を殺し、殺されて...。
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自分一人が悟ったところで、
他の人の苦しみが減るわけではありません。

本当の悟りとは何か?

宮沢賢治のことば。

「世界がぜんたい幸福にならないうちは
 個人の幸福はあり得ない」

では、自分はどうするのか?
どう生きるのか?どうあるのか?

正しい答えなんてないです。
それは自分で決めること。

「迷い」「悟り」とあると、
「迷いは悪くって、悟りは良い」と思ってしまいがち。

しかし源光庵に表されていたものは
そんな単純なものではなく、

個人と全体の幸福の狭間で迷い続け、悩み続け、
悟り続けることが諭されているように思います。

なんてことを思いながら帰宅して、
血天井のことを知らなかったので、インターネットで調べて見ました。

一般的にはこう言われています。

伏見城で石田三成との戦に負けた鳥居元忠ら380名以上が自刃したが、
関ヶ原の戦いが終わるまでの2ヶ月間、そのまま放置され、
血痕跡が拭っても消えず、供養のためにお寺の天井に設置されたのが
血天井であると。

その後、「あれは血ではなく、油だ」という記事を見つけました。
その頃のPRとして京都市内のお寺の天井に使ったという話も。

現代なら、血糊のついた縁側板を天井にするか?
とかなり非難轟々になりそうです><

真面目に「個人の幸福とは?世界全体の幸福とは?」と考えていても、
その元ネタが嘘かもしれないという...笑。

ここにまた現実の面白さを感じてしまいました。
現実は曖昧です。すべて幻想だと言っていいです。
どこに重きをおくかも自分次第ですね。


源光庵の悟りの窓は、
個人の幸福=世界全体の幸福となって、
全てを背負う決断と覚悟を表しているように思いました。

迷いは現状維持で、それなりに楽。
悟りはすべてを背負う強さがあります。

決められないのが迷い。
すべての責任を背負るのが悟り。

悟りはゴールではなく、スタート。

そんな風に感じました。


その後、近くの光悦寺のお庭を見ました。
これがまた面白かったです。

手入れがされているようなされていないようなお庭なんですね。
半自然な感じがうまく調和してました。

徳川家康が、江戸時代の文化人、本阿弥光悦に与えた土地で、
その後工芸の職人などが来て芸術村のようになったそうです。

源光庵では、どう生きるか、どうあるかが問われ、
光悦寺ではそこを達観して、あるがままを生きる感じ。

「まあ、ええがな、お茶でも飲みはれ」と
お茶を勧めてくれそうな。

外では厳しい現実がありながらも、
自然を眺めながら静かにお茶を飲んで、心を鎮める。

主張してないけど、ちゃんと我が道を歩んでいる、みたいな。

ここにはまた源光庵で見たものとは
違うかたちの生き方が記されていました。

私としては最終形はこんな感じなのかなと思いますが、
源光庵の血天井的なものを経験してくるのと、
知らずしてくるのとでは
感じるものの深さが全然違うでしょうね。


次にその向かいにある圓成寺に行ってきました。
ここは「岩戸妙見宮(岩戸妙見)」「鷹ヶ峰の妙見さん」と呼ばれます。

ここは人間には抑えきれない自然の威力に溢れていました。
荒々しい自然のエネルギーです。

日本は自然が豊富ですが、自然災害も豊富です。

日本の神様が荒御魂、和御魂とあるのは、
どちらが良しとも悪しともせず、
どちらも受け入れていたことの表れなのでしょうか?

自然界は、生と死が混ざり合っていて容赦ないです。
そこに私たちがまだ理解できていない何かがあるように思います。


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