いのちおりblog - 本来の自分に還るために

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   悦月(えつき)のブログ(旧ブログタイトル:たまむすひ)
                                    

タグ:創造性

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ポケモンの神話学』(中沢新一著)を読んで腑に落ちたことがありました。

それは「対象a」。

私はこの言葉を初めて知りました。
「対象a」は精神分析学者のラカンが名付けたものです。
呼び方は ”たいしょうえー” ではなく、”たいしょうあー” だそうです。

「対象a」というのは、意識の「へり」の部分に、さまざまなかたちをとってあらわれてくる、なんとも名付けがたい対象のことを指している
と同著に書かれています。

「対象a」と名付けられ、概念化されたとはいえ、それはその言葉になる以前から存在しているものなので、感覚的には「あれのことか」と誰しも思い当たるでしょう。

私に以前来た言葉「うしろの世界」。

「うしろの世界」とは何を指すのか?
自分が言い出した言葉とは言え、その定義が今一歩でしたが、「対象a」について読んで、なるほど、これこそうしろの世界だなと思いました。
「うしろの世界」は、無意識領域とか宇宙意識と言うには、もう少し精霊や魑魅魍魎の意識も感じられる世界です。

「対象a」は、言葉の世界にとらわれません。
確固とした対象として存在もしないけれども、その存在を感じ取ることができます。

意識化できるものとできないものとの境界に発生してくるもの。

この本に書かれていたことをもとに自分の解釈で書くと、

私たちは、赤ちゃんの頃、母子一体の状態でまどろんでいたのが、分離され、言葉の世界に連れていかれます。心は母子未分化だったのが、社会という言葉で成り立つシステムの中に放り込まれ、自我が芽生えていきます。

ことばは、ものとものを分けます。
「これは〇〇」と名付けることで、全体からそのものを分離します。

そういう世界に入っていくことで、私たちは「自分には何かが欠けている」という欠乏感を得ます。

母子一体の状態から切り離され、”ひとり”になります。
ですから「あの頃に帰りたい」という思いは心に残ります。

その失われた”ひとつの世界”をいろんなものの陰に見ます。
押入れの暗闇、廃墟となった建物、鬱蒼とした森の中、石をひっくり返したらうじょうじょといる虫たち、田んぼの中のオタマジャクシやタニシ、ザリガニなど、自然界に残るその影を追います。

それが「対象a」として現れます。

現代っ子は昔に比べると、自然の中のそういうものに出会う機会は減りました。
この本は、ポケモンゲームがそういう世界観を見せてくれていると言いますが、それは私も実感します。

私が知ってるのはポケモンGOからですが、ポケモンGOをしながら外を歩くと、あちこちでポケモンが現れます。スマホを覗くとポケモンがいて、設定の仕方によっては外の実際の景色にポケモンが混ざり合って見えます。

昔なら、妖怪や鬼、神獣、小人を見たり、狐やタヌキなど動物が化けて出る話や異類婚姻譚、おばあさんが話してくれる昔話などから感じ取っていたでしょうが、今は機器を通して、そういう見えない存在に触れることができます。それがバーチャルだとしても。

目の前に実在するように現れるバーチャルな存在はこの先、当たり前になっていき、私たちの良きお供となるでしょう。

そんなバーチャル存在とともに育つ子供達は、実際に「対象a」的な存在をバーチャルでなくとも受け入れていくし、本当に見る子も増えていくでしょう。

それと現実とがごっちゃになって、統合失調症と言われる人が増える可能性もあるのが気がかりです。子供の頃にどのような環境にいるのか、周りの大人がどのように接してくれたかが、それに大きく影響するでしょう。


大人より子供の方が「対象a」的なものを純粋に感じ取ります。

失われた調和と全体性を取り戻そうと、実在のうしろの隠れている ”言葉にならない領域” を感じ取り、そこに架空とされる生き物や幽霊などを見ます。

その奥には、言葉にしきれないなにか、本当はよく知っているけど、説明のできない何かが潜んでいることを直感的に感じ取っていますが、うまく説明できません。

大人は理解してくれないし、聞こうとしません。
それについて話そうとすると、そんな話はやめなさいとか、頭がおかしくなったのではないか?と心配されます。


人間社会で生きていくことに違和感を感じ続けている人たちは、この”言葉にならない説明のできない世界” が自分の本当の世界、あるいは、もといた世界であるとなんとなく感じ取っています。

だから、言葉でできあがってる人間の社会に違和感を感じ続けます。
でも自分でもそれが何か、定義も概念化もできてないので、つかみとれません。
違和感しか感じず、「私がおかしいのかも?」と思ってしまっていたのが今まででした。


あちらの世界とこちらの世界の境界。
向こうの世界のものがやってきては現れる、揺らいでいる時空間。

結局のところ、これは人の意識の、意識できる領域とそうでない領域の間を感じる力です。

本では、インベーダーゲームが例に出されていました。
真っ黒なモニター画面の奥から、つぎつぎと光の固まりは出現し、あたかもプレイヤーである子どもの意識に触れた瞬間に消滅して、ふたたび真っ黒な闇の中に吸い込まれていくように感じられる。(中略)インベーダーは、リアルとヴァーチャルの中間状態にあって、きわめてあいまいで不確かな存在にとどまっている。だから、それは軽々と出現するし、いともたやすく破壊され消滅していってしまう。その出現と消滅の繰り返しが、薄い記号の膜を作って「死の欲動」のざわめきへと向けられている。つまり、このゲームは私に、エロスとタナトスがまだ自由に行き来をおこなっている、生命のかなり深い層で起こっていることに、手で触れたり影響をおよぼしたりすることを可能にしてくれているのだ。


また、ウルトラマンに出てくる怪獣についても似たものがあると。
意識の「へり」や「穴」からしみだすように現れてくる欲動が怪獣という形をとって現れ、ウルトラマンに退治される。

こうして「対象a」は姿形を変えて、子供の無意識に潜り込み、住み着いてしまいます。

例えば、ゴジラが天災や原発による危険を象徴的に表すように、自然に対する畏怖や恐怖、それはやはり、死や冥府に対する恐怖とつながっていくと思いますが、「対象a」にはそれプラス、生きていく力、創造性が潜んでいます。

「野生の思考」は、人間の言語に飼いならされることなく、私たちの意識の「へり」で現れては消えています。

魔術や芸術はそれを表現する方法のひとつです。
しかし現代では、頭脳ゲームとなってしまったり、洗練されすぎた芸術も少なくないです。


この本を読んで、最近のアニメや漫画で、異世界系や、鬼やゾンビになる話、人を食う話など多いなーと思ってましたが、その理由がわかった気がします。

「対象a」は言葉にできない、理性では掴みきれない、自然の非コントロールな部分であると同時に、私たちが永遠に失ってしまった母(宇宙、無意識)との一体感を感じさせるものでもあります。

だからそこを求めてやまないのですが、そこにあるのは理性を超えた世界。
つまり自我から見たら、死の世界と同義。

以前は自然の中にそういう存在を感じていましたが、今はそういう自然に接する機会を失っています。その代わりに、ゲームやアニメなどを通して、その世界に触れています。

なんであんなに、殺しや残酷なもの、人食の話が好まれるのか、と思いますが、それは自我の死への渇望(タナトス)と、生きたいという願望(エロス)と、自分の中にある残虐性や悪の力をどう扱っていいかわからない葛藤などが、それらを見ることで活性化されたり、消化されているのでは?と思います。

自我が死ねばたどり着ける世界。
でも死ぬのは怖い。消えたくない。

これはエゴの原動力となる部分です。


日本は比較的安全な国です。
突発的なことは起こり得ますが、普通に暮らしていると平穏無事です。

平和で暇だからこそ、刺激を求めます。
実際にそれを体験するのは怖い。けど擬似体験ならできる。
痛いのは嫌、怖いのも嫌。でも見たい。


昔は自然の中で、虫や植物、動物の食いつ食われつを見たり、身の回りにある「闇」や「対象a」とのちょっとした接触で消化され、セーブされていた欲求だったと思います。

もっと言えば、戦争時代や戦国時代、狩猟時代では、飢えと死はいつも生と隣り合わせでしたから、娯楽としてそれを楽しむ必要はあまりなかったでしょう。
生死の両方の感覚を味わえる性はいつの時代も盛んですが。

現代はそれを自然消化する機会が少ないです。
実社会では「きちんとしなさい」と理屈と合理化のことばの社会でもまれ、人間の本能的欲求がいびつに不自然に抑えつけられます。

本来そこは、クリエイティビティや愛が育まれる領域でもあります。
が、現代はそれを育てることがままならず、そのエネルギーが暴力性、残酷性に擬似的に接することで昇華しようとしているのではないでしょうか?
擬似体験なので、欲望はもっとエスカレートしていく傾向がありますが、どこかで反転するでしょう。今はまだその途上です。

これが直接的な行動になって事件になると問題ですが、問題ないレベルでなら、擬似体験よりは自分で直接体験する方がいいです。
いじめなどの陰湿なやり方ではなく、まっすぐに誰かととことん向き合ったり、一人で山登りしたり、被災地や戦地に赴いたりすると、素直に死と背中合わせの生を感じることができます。
実体験で発散&昇華されれば、自分で痛みを知り、他者の痛みを慮れる人になります。

一人山歩きはとくにオススメですね。
「対象a」も、死と生の感覚も身近になります。

「対象a」なるものとどう接していくかに、人間の持つ「悪」といわれる部分とどう向き合うか?の一つの答えがあるように思います。

この理性では把握しきれないこの領域が少しずつ力を持ち始めています。
そのエネルギーに呑み込まれるか、それを原動力に進んでいけるか?がポイントになりますね。


そんな折、アートクラスを始めました。
こういう流れを汲んでのことだろうなと改めて思いました。
クリエイティブ・アートクラス


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以前載せたルーミーの二種類の知性
上記記事ではコーチングに関連させて書いていました。

今月からアートクラスを始めるのですが、この文章を昨日見つけて、
「あ、アートクラスでしたいのはこれだな」と思いました。

そこへ至る道はいろいろありますが、結局、たどり着きたいところは同じなんですね。
自分へのリマインドを込めて、もう一度、その文章を載せておきます。

知性には二種類ある。
一つは後天的なものだ。
学校に通う子どもが、教科書や先生の話から事実や概念を覚え、昔ながらの科学からも新しい科学からも知識を学ぶたぐいのものである。

そうした知性を活かすと夢がかなう。知識を記憶する能力は、他人より上に立つか下に立つかの差を生むが、この知性を活かせば、知識の草原を出入りし、より多くのことを記憶の銘板に刻めるようになる。

知性にはもう一種類ある。
これは先天的に完成され、自分のうちにあるものだ。
せき止められることなくあふれ出す泉であり、心の奥にある斬新なものだ。
このもう一つの知性は、色褪せることもなければ、よどむこともない。
それは絶えず流れるもの。
しかし、学びの水路を通って外から内へ流れ込むことはない。

この第二の知性は、おのれのうちから外へあふれ出す源泉なのである。

引用元:『「スタンフォード・インプロバイザー」より』


近年の教育は"後天的な知性"を育むことが重要視されてきました。
"先天的な知性"はなおざりにされてきました。

そのため、皆が持っているのに、多くの人が宝の持ち腐れになってしまっています。
せき止められることなくあふれ出すはずが、せき止めなければいけないと学んでしまいました。

統制をとりたいなら、指示に従う人を増やしたいと思ったとしても当然でしょう。
おのれのうちから外へあふれ出す源泉で動く人は、言うことを聞かないので厄介です。
集団生活を営むうえで、統制をとり、ルールに従う人たちを育成するのは必要な過程です。

が、もう次の段階に行く時期にさしかかっています。

振り子が左右に振れるように、今度は、自分の内にある源泉から溢れ出るものを表現する方向に変わりつつあります。

あなたの源泉はどんなものでしょうか?
それをどのように表現していきますか?

食べていく、生活していくこと、言い換えれば、お金を得ること。
それが先にあって、「じゃあ、何の仕事をして稼ぐのか?」という考え方から、
自分の内なる源泉を感じ、そこから湧き出る泉をどう表現するか?

それを表現することが生きることだ。

とシフトできる人は、これからおもしろい人生を歩みそうですね。

掘れば掘るほど無限に出てくる深みある泉をあなたも持っています。
これはどんどんと育んでいけるものです。
底なしですから。

自分の世界を豊かにしていくことが、これからもっと大切になっていきます。

そのためには、感じる力を増すこと。
感性を磨くと同時に、しっかりとした精神性を持って、ブレない自分になることが大事です。

自分の世界の見方が変われば、世界は違う姿を見せてくれます。

クリエイティブ・アートクラス」ではそれを見つけ出し、育んでいきます。
一緒に探求したい方はどうぞご参加ください。

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