いのちおりblog - 本来の自分に還るために

人生をよりクリエイティブに生きたいあなたに贈る
   悦月(えつき)のブログ(旧ブログタイトル:たまむすひ)
                                    

カテゴリ: カムナガラビリンス

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話は遡ります。

この話(霊性の時代(4月のメッセージ 追記2))の続きがまだでした。

要約すると、

人間の意識が、自然界の霊的エネルギーとつながりやすくなって、
精霊的な存在とコミュニケーションが取りやすくなっていきそうだけど、
そういうことに関心のある人にだけ現れるだろう、、という話でした。

以下に載せる文章は、上記の「4月のメッセージ追記」を書いた後に書いたものなので、
しばらく前のものです。
日が経ったので、少々書き直した文章を載せます。

***********

今年3月の春分の日を機に、この感覚が広がったなーと感じています。
私には、草木が話すのが聞こえてるわけではないですが、そんな兆しを感じ始めています。

とその頃感じたのですが、今現在はそうでもないです。
これは勘違いや消えたとかではなく、慣れたんだろうなと思います。

「なぜそう思うか?」と聞かれても、「そう感じるから」としか言いようがありません。

妄信的に感覚を信じるのも問題ありですが、
理論的に説明できないことは信じないというのもどうかと思います。

私自身の経験から言うと、説明できなかったけど感じていたことが、
のちに学者さんが理論的に証明、実証したり、そういう証明がされていた
とあとから私が知ったり、ということがありました。

それで、「なんだ、やっぱりそうだったのか」と思いました。
間違ってるかも?と曖昧に過ごした数年がもったいなかったなー、と。

自分で証明できればいいのですが、それができないのが悲しいです。

けれどもそういうこと何度も経験すると、
もっと自分の感覚を信じた方がいいと思うようになりました。


自分なりの追求はしていきます。
自分なりにつじつま合わせをして物語を紡いでいきます。

一人一人がもっと積極的に、自分の世界の物語を紡いでいけば良いと思うようになりました。

一人一人が織りなす世界が縦横無尽に紡がれ、
巨大な一つの世界、この宇宙を作り出していっています。

一人一人が、自分の宇宙の創造に参加しています。


話を戻します。

今までの私は、自分以外の意識存在(幽霊、宇宙人、天使など)と
話をしたいとあまり思いませんでした。
チャネリングも興味なかったし。

神獣や自然の精霊的な存在とはそれなりの関わりはありましたが。

なぜ他存在とのチャネリングに興味なかったかというと、
一番の理由は、

「そうは言っても、それは自分の中の話では?」

という思いがあったからです。

しかし春分以降、もうそこは解禁していいかもなーと思いました。

人間以外のいろんな意識存在と共同創造していく。
その意識存在らが自分の意識内の話であったとしても。


私たちの体は無数の微生物で成り立っています。
一人だと思っている自分は、最初っから複合体、集合体です。

ひとりぼっちになったことはありません。
先祖や霊脈とのつながりもあります。

複数の、自分を構成するものたちや、
そこに関わるものたちとのコラボライフが私たちの人生です。

もちろん外の世界もです。
地球自体がそういう星です。


八百万の神々とは、微生物のことではないかと思ったりもしますが、

あらゆるものには魂が宿る。
言葉という言語だけでなく、エネルギーのやりとりでの対話が成り立つ世界。

昔話やおとぎ話、今なら異世界系のストーリー。
そういう感覚が普通になる世界が遠くない将来、やってくるんだろうなと感じています。

そういう流れで言えば、ポケモンGOはスマホを使って、
バーチャルをリアルの世界に持ってきて融合させたものと言えます。

妖怪などは、感覚の鋭い想像力に満ちた人が、
感じたエネルギーをあのように具現化してみせたのでしょうね。

その頃の時代や平安時代などは、異界と繋がりやすいエネルギー状態だったのでしょう。


令和時代の子供たちは、バーチャルとリアルの区別がつきにくい時代に育ちます。
その感覚はもっと研ぎ澄まされるでしょう。


AIはますます進化します。
場のエネルギーをその人の脳内のイメージとつなげて具現化したり、
脳内でイメージするだけで、その映像が外のスクリーンに映る、

なんてのはそう遠くない未来に実現しそうです。


今月、イーロン・マスク氏が、新しいプロジェクト、
脳直結インターフェイス「Neuralink(ニューラリンク)」を発表しました。

人間の脳に電極を埋め込み、コンピューターと接続し、考えただけで、
外部コンピューターとやりとりできる可能性を秘めたプロジェクトです。

脳内現象と物理現実とがますます融合されていく世界になります。


話がどんどんと飛んでいきますが、
人間の意識も地球の意識も拡大し始めているのでしょう。

何年か前のブログに、地球の目覚めの話を書いたのですが、その流れを感じます。
記事を探したけど、見つからなくて代わりにこれ(第一インパクトの波の補足)を見つけました。


2010年の記事ですけど、今も言えてますね。

「地球の目覚め」ってどういうこと?と思う人もいるでしょうが、
地球にも自我があって、今はまだそれが眠っている状態だったけど、
それが目覚めつつある、という話だったと思います。

人間の個々のエゴとしての自我が全体意識としての自我に成長することで、
地球のそれも融合して、トータルな意識体になっていくのでしょう。

人間の意識だけでなく、自然がもっと”目覚め”ていくことで、
自然との対話がしやすくなっていくと思います。

それは人間の意識が変わるのか、
自然界のエネルギーが変わるのか、

多分、両方でしょう。

人間の意識層と、自然界の意識層と、AIによる意識層と、宇宙の意識層。

人間の意識の進化により、こういうところを意識する人が増えていくと、
その世界観がよりリアルになっていきます。

昔、森羅万象が対話できた時代があったと思います。
それがまためぐりめぐってやってきているようです。



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たいへん間があいてしまいましたが、「霊性の時代(4月のメッセージ 追記1)」からの続きです。



その世界に移行するにあたって、自然界のエネルギーも変わっていきます。
眠っていた地球の自我意識が芽生えてくるにつれ、自然界のエネルギーと人間の意識とがミックスされていきます。

つまり人間の無意識領域の扉の一つが解放され、自然界の霊的エネルギーとつながりやすくなります。

ということは、どういうことかというと、精霊的な存在とコミュニケーションが取りやすくなるということです。

昔、そのようなエネルギー状態だった頃は、多くの人が妖精や妖怪、神獣などを見たり、動物や草木が話したり変身するのを体験しました。

現代はほとんどの人は、物は物として見て、意識体としては見ていませんでした。
が、地球のエネルギーが変わりつつある今、そして、人間の意識も変わりつつある今、封印されていた意識領域が開き出しています。

無意識界の一つですが、それは個々人の意識レベルにより、魑魅魍魎が見えたり、天使、神、小人、妖精、神獣が見えたり、といろいろです。

人間でない意識領域とコミュニケーションが取りやすくなります。
そういう世界も広がっていきます。

身の回りのものや自然のものと対話したり、異世界的な次元に遭遇したり、ということもぼちぼち増えていきます。

どういうものに触れるかはかなり個人差がありますし、そういうところと関わりたいと思うか、信じていたり、関心がある人にのみ、現れます。

信じている人や興味ある人は、その方面の回路がおいおい開きやすくなっていきます。

これももっと先の話ですが、感じている人は感じているでしょう。

「和音」2019.4.2


昨日載せた記事「エロスとタナトスの狭間にて」がこの記事の補足となります。

この話は次回に続きます。



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ポケモンの神話学』(中沢新一著)を読んで腑に落ちたことがありました。

それは「対象a」。

私はこの言葉を初めて知りました。
「対象a」は精神分析学者のラカンが名付けたものです。
呼び方は ”たいしょうえー” ではなく、”たいしょうあー” だそうです。

「対象a」というのは、意識の「へり」の部分に、さまざまなかたちをとってあらわれてくる、なんとも名付けがたい対象のことを指している
と同著に書かれています。

「対象a」と名付けられ、概念化されたとはいえ、それはその言葉になる以前から存在しているものなので、感覚的には「あれのことか」と誰しも思い当たるでしょう。

私に以前来た言葉「うしろの世界」。

「うしろの世界」とは何を指すのか?
自分が言い出した言葉とは言え、その定義が今一歩でしたが、「対象a」について読んで、なるほど、これこそうしろの世界だなと思いました。
「うしろの世界」は、無意識領域とか宇宙意識と言うには、もう少し精霊や魑魅魍魎の意識も感じられる世界です。

「対象a」は、言葉の世界にとらわれません。
確固とした対象として存在もしないけれども、その存在を感じ取ることができます。

意識化できるものとできないものとの境界に発生してくるもの。

この本に書かれていたことをもとに自分の解釈で書くと、

私たちは、赤ちゃんの頃、母子一体の状態でまどろんでいたのが、分離され、言葉の世界に連れていかれます。心は母子未分化だったのが、社会という言葉で成り立つシステムの中に放り込まれ、自我が芽生えていきます。

ことばは、ものとものを分けます。
「これは〇〇」と名付けることで、全体からそのものを分離します。

そういう世界に入っていくことで、私たちは「自分には何かが欠けている」という欠乏感を得ます。

母子一体の状態から切り離され、”ひとり”になります。
ですから「あの頃に帰りたい」という思いは心に残ります。

その失われた”ひとつの世界”をいろんなものの陰に見ます。
押入れの暗闇、廃墟となった建物、鬱蒼とした森の中、石をひっくり返したらうじょうじょといる虫たち、田んぼの中のオタマジャクシやタニシ、ザリガニなど、自然界に残るその影を追います。

それが「対象a」として現れます。

現代っ子は昔に比べると、自然の中のそういうものに出会う機会は減りました。
この本は、ポケモンゲームがそういう世界観を見せてくれていると言いますが、それは私も実感します。

私が知ってるのはポケモンGOからですが、ポケモンGOをしながら外を歩くと、あちこちでポケモンが現れます。スマホを覗くとポケモンがいて、設定の仕方によっては外の実際の景色にポケモンが混ざり合って見えます。

昔なら、妖怪や鬼、神獣、小人を見たり、狐やタヌキなど動物が化けて出る話や異類婚姻譚、おばあさんが話してくれる昔話などから感じ取っていたでしょうが、今は機器を通して、そういう見えない存在に触れることができます。それがバーチャルだとしても。

目の前に実在するように現れるバーチャルな存在はこの先、当たり前になっていき、私たちの良きお供となるでしょう。

そんなバーチャル存在とともに育つ子供達は、実際に「対象a」的な存在をバーチャルでなくとも受け入れていくし、本当に見る子も増えていくでしょう。

それと現実とがごっちゃになって、統合失調症と言われる人が増える可能性もあるのが気がかりです。子供の頃にどのような環境にいるのか、周りの大人がどのように接してくれたかが、それに大きく影響するでしょう。


大人より子供の方が「対象a」的なものを純粋に感じ取ります。

失われた調和と全体性を取り戻そうと、実在のうしろの隠れている ”言葉にならない領域” を感じ取り、そこに架空とされる生き物や幽霊などを見ます。

その奥には、言葉にしきれないなにか、本当はよく知っているけど、説明のできない何かが潜んでいることを直感的に感じ取っていますが、うまく説明できません。

大人は理解してくれないし、聞こうとしません。
それについて話そうとすると、そんな話はやめなさいとか、頭がおかしくなったのではないか?と心配されます。


人間社会で生きていくことに違和感を感じ続けている人たちは、この”言葉にならない説明のできない世界” が自分の本当の世界、あるいは、もといた世界であるとなんとなく感じ取っています。

だから、言葉でできあがってる人間の社会に違和感を感じ続けます。
でも自分でもそれが何か、定義も概念化もできてないので、つかみとれません。
違和感しか感じず、「私がおかしいのかも?」と思ってしまっていたのが今まででした。


あちらの世界とこちらの世界の境界。
向こうの世界のものがやってきては現れる、揺らいでいる時空間。

結局のところ、これは人の意識の、意識できる領域とそうでない領域の間を感じる力です。

本では、インベーダーゲームが例に出されていました。
真っ黒なモニター画面の奥から、つぎつぎと光の固まりは出現し、あたかもプレイヤーである子どもの意識に触れた瞬間に消滅して、ふたたび真っ黒な闇の中に吸い込まれていくように感じられる。(中略)インベーダーは、リアルとヴァーチャルの中間状態にあって、きわめてあいまいで不確かな存在にとどまっている。だから、それは軽々と出現するし、いともたやすく破壊され消滅していってしまう。その出現と消滅の繰り返しが、薄い記号の膜を作って「死の欲動」のざわめきへと向けられている。つまり、このゲームは私に、エロスとタナトスがまだ自由に行き来をおこなっている、生命のかなり深い層で起こっていることに、手で触れたり影響をおよぼしたりすることを可能にしてくれているのだ。


また、ウルトラマンに出てくる怪獣についても似たものがあると。
意識の「へり」や「穴」からしみだすように現れてくる欲動が怪獣という形をとって現れ、ウルトラマンに退治される。

こうして「対象a」は姿形を変えて、子供の無意識に潜り込み、住み着いてしまいます。

例えば、ゴジラが天災や原発による危険を象徴的に表すように、自然に対する畏怖や恐怖、それはやはり、死や冥府に対する恐怖とつながっていくと思いますが、「対象a」にはそれプラス、生きていく力、創造性が潜んでいます。

「野生の思考」は、人間の言語に飼いならされることなく、私たちの意識の「へり」で現れては消えています。

魔術や芸術はそれを表現する方法のひとつです。
しかし現代では、頭脳ゲームとなってしまったり、洗練されすぎた芸術も少なくないです。


この本を読んで、最近のアニメや漫画で、異世界系や、鬼やゾンビになる話、人を食う話など多いなーと思ってましたが、その理由がわかった気がします。

「対象a」は言葉にできない、理性では掴みきれない、自然の非コントロールな部分であると同時に、私たちが永遠に失ってしまった母(宇宙、無意識)との一体感を感じさせるものでもあります。

だからそこを求めてやまないのですが、そこにあるのは理性を超えた世界。
つまり自我から見たら、死の世界と同義。

以前は自然の中にそういう存在を感じていましたが、今はそういう自然に接する機会を失っています。その代わりに、ゲームやアニメなどを通して、その世界に触れています。

なんであんなに、殺しや残酷なもの、人食の話が好まれるのか、と思いますが、それは自我の死への渇望(タナトス)と、生きたいという願望(エロス)と、自分の中にある残虐性や悪の力をどう扱っていいかわからない葛藤などが、それらを見ることで活性化されたり、消化されているのでは?と思います。

自我が死ねばたどり着ける世界。
でも死ぬのは怖い。消えたくない。

これはエゴの原動力となる部分です。


日本は比較的安全な国です。
突発的なことは起こり得ますが、普通に暮らしていると平穏無事です。

平和で暇だからこそ、刺激を求めます。
実際にそれを体験するのは怖い。けど擬似体験ならできる。
痛いのは嫌、怖いのも嫌。でも見たい。


昔は自然の中で、虫や植物、動物の食いつ食われつを見たり、身の回りにある「闇」や「対象a」とのちょっとした接触で消化され、セーブされていた欲求だったと思います。

もっと言えば、戦争時代や戦国時代、狩猟時代では、飢えと死はいつも生と隣り合わせでしたから、娯楽としてそれを楽しむ必要はあまりなかったでしょう。
生死の両方の感覚を味わえる性はいつの時代も盛んですが。

現代はそれを自然消化する機会が少ないです。
実社会では「きちんとしなさい」と理屈と合理化のことばの社会でもまれ、人間の本能的欲求がいびつに不自然に抑えつけられます。

本来そこは、クリエイティビティや愛が育まれる領域でもあります。
が、現代はそれを育てることがままならず、そのエネルギーが暴力性、残酷性に擬似的に接することで昇華しようとしているのではないでしょうか?
擬似体験なので、欲望はもっとエスカレートしていく傾向がありますが、どこかで反転するでしょう。今はまだその途上です。

これが直接的な行動になって事件になると問題ですが、問題ないレベルでなら、擬似体験よりは自分で直接体験する方がいいです。
いじめなどの陰湿なやり方ではなく、まっすぐに誰かととことん向き合ったり、一人で山登りしたり、被災地や戦地に赴いたりすると、素直に死と背中合わせの生を感じることができます。
実体験で発散&昇華されれば、自分で痛みを知り、他者の痛みを慮れる人になります。

一人山歩きはとくにオススメですね。
「対象a」も、死と生の感覚も身近になります。

「対象a」なるものとどう接していくかに、人間の持つ「悪」といわれる部分とどう向き合うか?の一つの答えがあるように思います。

この理性では把握しきれないこの領域が少しずつ力を持ち始めています。
そのエネルギーに呑み込まれるか、それを原動力に進んでいけるか?がポイントになりますね。


そんな折、アートクラスを始めました。
こういう流れを汲んでのことだろうなと改めて思いました。
クリエイティブ・アートクラス


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以前載せたルーミーの二種類の知性
上記記事ではコーチングに関連させて書いていました。

今月からアートクラスを始めるのですが、この文章を昨日見つけて、
「あ、アートクラスでしたいのはこれだな」と思いました。

そこへ至る道はいろいろありますが、結局、たどり着きたいところは同じなんですね。
自分へのリマインドを込めて、もう一度、その文章を載せておきます。

知性には二種類ある。
一つは後天的なものだ。
学校に通う子どもが、教科書や先生の話から事実や概念を覚え、昔ながらの科学からも新しい科学からも知識を学ぶたぐいのものである。

そうした知性を活かすと夢がかなう。知識を記憶する能力は、他人より上に立つか下に立つかの差を生むが、この知性を活かせば、知識の草原を出入りし、より多くのことを記憶の銘板に刻めるようになる。

知性にはもう一種類ある。
これは先天的に完成され、自分のうちにあるものだ。
せき止められることなくあふれ出す泉であり、心の奥にある斬新なものだ。
このもう一つの知性は、色褪せることもなければ、よどむこともない。
それは絶えず流れるもの。
しかし、学びの水路を通って外から内へ流れ込むことはない。

この第二の知性は、おのれのうちから外へあふれ出す源泉なのである。

引用元:『「スタンフォード・インプロバイザー」より』


近年の教育は"後天的な知性"を育むことが重要視されてきました。
"先天的な知性"はなおざりにされてきました。

そのため、皆が持っているのに、多くの人が宝の持ち腐れになってしまっています。
せき止められることなくあふれ出すはずが、せき止めなければいけないと学んでしまいました。

統制をとりたいなら、指示に従う人を増やしたいと思ったとしても当然でしょう。
おのれのうちから外へあふれ出す源泉で動く人は、言うことを聞かないので厄介です。
集団生活を営むうえで、統制をとり、ルールに従う人たちを育成するのは必要な過程です。

が、もう次の段階に行く時期にさしかかっています。

振り子が左右に振れるように、今度は、自分の内にある源泉から溢れ出るものを表現する方向に変わりつつあります。

あなたの源泉はどんなものでしょうか?
それをどのように表現していきますか?

食べていく、生活していくこと、言い換えれば、お金を得ること。
それが先にあって、「じゃあ、何の仕事をして稼ぐのか?」という考え方から、
自分の内なる源泉を感じ、そこから湧き出る泉をどう表現するか?

それを表現することが生きることだ。

とシフトできる人は、これからおもしろい人生を歩みそうですね。

掘れば掘るほど無限に出てくる深みある泉をあなたも持っています。
これはどんどんと育んでいけるものです。
底なしですから。

自分の世界を豊かにしていくことが、これからもっと大切になっていきます。

そのためには、感じる力を増すこと。
感性を磨くと同時に、しっかりとした精神性を持って、ブレない自分になることが大事です。

自分の世界の見方が変われば、世界は違う姿を見せてくれます。

クリエイティブ・アートクラス」ではそれを見つけ出し、育んでいきます。
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話は春分の日にさかのぼります。

先日、三上山、石山寺と行った流れで、
春分の日にはどうしても佐久奈度神社に行きたくなり、行ってきました。

佐久奈度神社には3回ぐらい行っています。
ありがたいことに毎回、人に車で連れて行ってもらってました。
なので土地勘なく、辺鄙なところにあるとずっと思ってました。
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地図を見て、こんなところにあるのかと思いました。
ちょうど瀬田川が曲がっているあたりです。

勝手に交通の便が悪いと思ってて、ペーパードライバーの私はどうやって行こうか?と思いあぐねてましたが、なんと、1時間に4本ぐらいバスが走ってました
それも石山駅発、終点下車でわかりやすい。
ラクラク行けちゃいました ♪

バスは川沿いに進んでいきましたので、琵琶湖から佐久奈度神社までの川の様子が見てとれました。

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琵琶湖から唯一の水の出口である瀬田川は、始まりは大きな川のゆるやかな流れです。

それがだんだんと細くなっていきます。

そして、山の川というか、岩がゴロゴロあって、そこを勢い良く流れる川に変化しています。


ちょっと不思議な感覚でした。
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通常、山から湧き出た水が集まってきて谷川となります。
それがどんどん大きくなり、ゆるやかな流れの大きな川になって、海に注いでいきます。

なのに、瀬田川は逆でした。

琵琶湖という湖から始まり、ゆるやかな流れの大きな川が、だんだんと細く、流れの激しい山の川になっていくのです。

山から琵琶湖に注ぐ川と勘違いしそうです。

琵琶湖から流れ出て川になって、山沿いをぬって淀川に合流して、海に向かいます。

今回は佐久奈度神社までしか流れを見ていないので、そのうち淀川に合流するところまで行きたいです。
IMG_4407
そんなところに、祓戸四神が祀られている佐久奈度神社があるんですね。


三上山山頂からは、琵琶湖からの流れと山々による龍脈が見えました。
そして瀬田唐橋からは、琵琶湖が瀬田川に変容していく風景が見えました。

そこから石山寺という龍の気配のあるところがあり、川沿いに進んで、佐久奈度神社となります。

佐久奈度神社ではしばらく河原にいました。
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この小旅を通して感じたのは、川を生き物のように感じたこと。

川沿いに行かなければ、そう感じなかったでしょうが、琵琶湖が川になり、谷川になっていく様をずっと横で感じていたら、「この川は生きている」と感じるようになりました。

「川」という生き物。

その感覚は今も抜けなくて、今では琵琶湖も瀬田川も、生き物のように感じています。
川というより、水の集合体にそう感じているのかもしれませんが。

『蟲師』というアニメで、移動する「生き沼」の話がありました。
そんな風に、形を変えながら移動しながら、海に至るまでの旅をしているような。

人間に血液が流れているように、大地には水が流れている。
水や自然を生きていないもののように感じる人間の感覚がおかしいんでしょうね。

自然界の精霊は、こういうエネルギーがもっと凝縮したものか、
それを敏感に感じ取る人間がそう受け取るのか?

それはわかりませんが、川の流れのうしろで息づく”何か” を感じ続けた一日でした。
この感覚を得たのは大きな収穫でした。

佐久奈度神社のあとは、立木観音にお参りして、立木山〜袴越山をまわって温泉に寄って帰りました。
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立木山からの風景(写真上)では、左に石山寺のある石光山が見え、その向こうに琵琶湖が広がっています。
瀬田川は中央にチラリと見えますが、すでにだいぶん小さな川になっています。
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温泉は「南郷温泉 二葉屋」。
川沿いにあり、貸切状態で気持ちよかったです。

今度は岩間山に行くことになりそうです。








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新しいブログを始めました。

三上山奥宮から見た風景からいろいろと思うところあり、
気になった石山寺に行ってきました。

石山は何度となく電車の乗り換えで通り過ぎてました。
石山寺があることも知ってましたが、お寺にあまり興味のない私は素通りしてました。

が、今回行ってみて、ビンゴ!
すごく良かったです。ここはお勧めです。

石山寺というだけあって、まさに石の山にお寺があるって感じでした。
行ってみて、紫式部や松尾芭蕉が滞在して物書きをした理由がわかりました。

禅寺などとまた違った趣。
自然と人工物がうまくマッチした静かで心地よい空間です。

物書きをする人にはすごくいい場所に思えました。
しばらく滞在していると、インスピレーション湧きそうです。
宿泊所があれば、私もしばらく滞在してみたいですね。
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一番良かったのは八大龍王社。
この寺の他の場所とはまた違ったおごそかな空気感でした。

ここには龍がいるな...という感じ。
社の上の木の枝も龍っぽく。
昔、儀式が行われていた雰囲気ありました。

以前、同じく琵琶湖西岸の八大龍王が降臨したと言われる場所の探索に行きました。
その奥の山と雰囲気が似てました。
(参考:琵琶湖の龍を追って

この琵琶湖の南の地域は八大龍王との関わりが濃いようです。

三上山奥宮から見た時、生駒山あたりに流れが集結しているように見えました。
調べて見たら、生駒山に龍光寺という八大龍王総本山を見つけました。
やはりちゃんとあるんですね。そういうところには。

龍光寺は、御開祖 弘法大師 (空海)となっています。
空海は3ケ月間、石山寺に籠もって修行したと言われています。
近くにある立木観音にも弘法大師の逸話があります。
平安時代前期、山に光を放つ霊木を見つけられた弘法大師が瀬田川の急流で渡れずにいる所、白い雄鹿が現れて、大師を背中に乗せて川を跳び越えられ、霊木の前まで導き、雄鹿は観世音菩薩のお姿になられました。以来、この地は「鹿跳(ししとび)」と呼ばれています。
大師は自身が42才の大厄の年にあたっていたため、観音さまに導いていただいたのだと歓喜され、自身のみならず、未来永劫の人々の厄難・厄病を祓おうと発願し、霊木を立木のままに聖観世音菩薩を刻まれ、一宇の堂を建てて安置したと伝えられています。
大師はその後、高野山を開基されたので、立木観音は「元高野山」とも呼ばれています。
立木観音

昔、三上山頂上にも八大龍王の祠があったようです。
御上神社

三上山からのあの風景を見た私としては筋が通っているように思います。

石山寺のある石光山の隣に伽藍山があるので、そこにも登ってきました。
石山寺では龍のエネルギーが感じられましたが、
伽藍山はすぐ近くなのに、ごく普通の山って感じでした。

その後、俵藤太のムカデ退治の話に出てくる瀬田唐橋に行きました。
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ここから三上山は見えなかったように記憶してます。

なぜ瀬田唐橋と三上山なのか?

昔はこの橋は大事な拠点でした。
向こう岸に行こうと思えば、この橋を渡るか、琵琶湖か瀬田川沿いをぐるりと回るか、船で渡るかだったようです。

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琵琶湖の水はこの瀬田川だけが出口です。

琵琶湖は見慣れてましたが、いつも見ている大きな湖が
川になっていくところに出会うのは感慨深いものがありました。


石山寺と反対岸にある、唐橋近くの建部大社にもお参りしました。
近江國一之宮と言われ、古くからある神社です。

日本武尊が主祭神。
のちに大己貴命が権殿に祀られています。
ヤマトタケルの家臣や親族がたくさん祀られているのはなんか違和感を感じました。

八大龍王、日本武尊、大己貴命、ムカデ退治...

以前白山に登った時に、大蛇と大百足の出迎えに会うということがありました。
白山の蛇たち(後半部分)』

石山寺の八大龍王社で、3つの言葉(忘れてしまった)をいただき、
「岩の間」と閃いて、岩間寺にも行かねばな、と思いました。

調べてみたら、岩間寺は、加賀白山を開いた泰澄大師が
722年(養老6年)建立したことに始まるそうです。
だから岩間寺か、と思いました。

八柱神社からは熱いエネルギーが感じられました。
祭神:藤時平、融大臣、事代主命、市杵嶋姫命、素盞男命、豊玉彦命、櫛名多姫命

瀬田橋龍宮・秀郷社は、この時に気づかず、行きそびれてしまいました。
近くだったのに。

石山寺はまた行きたいので、その時、この社にも行こうと思います。

(自分の備忘録兼ねて書いてます)


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新しいブログを始めました。
これからは主にそちらに記事を載せていきます。

こちらのブログは個人的ブログとして、時々、
日々の気づきやマイワールドの話などを載せていく予定です。

滋賀県にある「近江富士」と呼ばれる三上山は432mで決して高くない山です。
いくつかルートがあります。
私は一番健脚向きと言われるルートを登りました。

京都の愛宕山は、924m。
琵琶湖対岸の日吉神社の奥宮がある八王子山は381m。
奈良の三輪山は467m。

三上山は、八王子山や三輪山と似た高さですが、
私が登ったルートの険しさはこれらの倍はあります。
勾配が急な山道で、岩場も多いです。
低い山とはいえ、体力に自信のない方は楽なルートをオススメします。
こんなところ ↓ けっこうありました。
IMG_4320

やっぱり現地に行ってみるが一番ですね。
行って初めてわかることがあります。

この時は山自体には特に何も感じませんでした。
奥宮や奥津磐座にも。

一番印象深かったのは、奥宮付近から見える景色。

左手奥にある山と右手奥にある山と琵琶湖。
これらが前に広がる景色の中心に向かってラインが流れています。
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写真ではわかりにくいですが、右側には琵琶湖が瀬田川に流れていくあたり。
光が降りてきているあたりに左右の流れがまとまっていきます。

昔の人はこういうのを龍に例えたのかと思いました。
右の山脈と左の山脈、琵琶湖の流れという3つの龍脈が一点に集約していく印象です。

光が差すあたりに、三上山のようにポツンとある小さな山が気になりました。
IMG_4330

あとで調べてみて、最初は、立木観音のある立木山かと思いました。
が、あとでそれは石山寺のあるところかなと。

が、それも撤回。今は牟礼山かなと思っています。
地図を見る限りは、この山には特に何もないように思います。

以前、磐座がアンテナ的な役割をしていると感じたことがあります。
三上山にしろ他の山にしろ、ポツンとある山は何かそういう役割があるのかもしれません。

私が三上山奥宮からの風景を見て感じたのは、三上山がパワースポットどうこうというより、
三上山から見える風景がまさにパワーあふれる龍の姿でした。

三上山は、山脈と琵琶湖からなる自然の大きな流れが見えるポイントとして
神聖な場とされたのではないかと思いました。

昔の人はどうやって大きな流れを感知したのかわかりませんが、
この風景を見ていると、普段とはスケールの違う流れがあるのがわかります。

そこから龍のエネルギーを感じ取ったのでしょうか?
ここでは水龍(水流)と地龍(地流)です。
スクリーンショット 2019-03-20 16.49.27
三上山から生駒山へのラインは淀川とは平行になりますが、

この流れで、ポツンとある山を地図上で追って見つけたのは、東に太郎坊宮(阿賀神社)のある赤神山、多賀大社横の山。
そして三上山、石山寺のある山、岩清水八幡宮のある山。
等間隔に近い状態で並んでいます。

そして、岩清水八幡宮付近からは京都から合流した川もすべて一つとなって淀川となり、大阪湾に流れ、その先には淡路島、四国。

日本の山や磐座、神社仏閣は、線を引けばどこかとつながったり、図形になるのかもしれませんが、昔の人はすごいですね。

今回、これらを調べるために地図をよく見たのですが、
「ここは!」と思うようなところにはほぼ必ず神社やお寺があります。

要所はすでに押さえれられているって感じです。

ナスカの地上絵のように上から見たのか?と思えるようなつながりが見えてきます。

昔の人は、日本列島という”生き物”を、
地上にいながら、空から見たかのようにつかんでいます。

ちなみに、地図を見ていたら、山の中でけもの道を見つけるように、
地脈の流れが見えてきます。中央構造線はわかりやすいです。

とはいえ、今ではあちこち山が削られたり、川や海、湖が埋め立てられたり、
昔の自然なままではないですから微妙ですけどね。

今回の三上山は、人間サイズでない大きな流れを垣間見せてくれました。

それにより龍が想像しやすくなります。
見えない大きな流れがあることが感じ取れます。
そして、自分がまだ行ったことのない地まで伸びているのを感じられます。

水の流れ、風の流れ、山脈の流れ、雲の流れ。

昔の人は想像で、というより、体感で、見えないところも感じ取って、
全体図を構成していたのでしょうね。

部分を見て全体を知るというか。

今回の三上山からの風景は、
見える流れが見えない流れを想起させるのを感じました。

日常をはるかに超えたダイナミックな流れ。
それを感じることができたのは良かったです。


三上山には、俵籘太がムカデ退治をしたという伝説や、
ピラミッドではないか?という話があります。

麓にある御上神社は良い雰囲気のところでした。
御神体が三上山なのに、なぜか社殿はそちらを向いていません。
琵琶湖の方を向いているそうです。
それが気になりました。

奥宮の前にある奥津磐座と、対岸の日吉大社の奥宮、八王子山の金大巌は
呼応しあっているという話もあるそうです。

この流れから、石山寺、立木観音、佐久奈度神社、石清水八幡宮にも行きたいと思いました。

石山寺,立木観音、佐久奈度神社はすでに行きましたので、その話はまた後日。
(自分の備忘録兼ねて書いてます)


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新しいブログを始めました。
これからは主にそちらに記事を載せていきます。

こちらのブログは個人的ブログとして、時々、
日々の気づきやマイワールドの話などを載せていく予定です。

しばらく前に、滋賀県にある近江富士と呼ばれる三上山に登りました。
三上山は近江富士と言われるだけあってきれいな形です。

対岸からは、北斎の東海道五十三次の絵のように、
いつも三上山が対岸に見えるので気になっていました。
IMG_4218

三上山から見たら対岸にある志賀八幡宮、そこを通り過ぎて
山中にある樹下神社を通るラインは下鴨神社に到達します。
三上山、志賀八幡宮、樹下神社、下鴨神社は意図的に並んでいるようです。
(地図の星印右からの順)
スクリーンショット 2019-03-18 2.26.51IMG_4352志賀八幡宮の鳥居のちょうど正面には三上山が見えます。(写真の赤い矢印のところ)

志賀八幡宮の裏から山に向かう道があります。

その道は近江と京都を結ぶ昔ながらの道で、「山中越え(志賀越え)と言われたそうです。
崇福寺(今は跡だけ)、志賀峠を通って、山中町に入ると、樹下神社があります。
そこから京都の北白川の道に出て、その道に沿って行くと下鴨神社にでます。

一度このルートを歩いてみるのもいいかなと思います。
樹下神社までは無謀にもチャリで行ったことがありますが。


余談ですが、樹下神社を地図で検索したら、なんと琵琶湖沿いに8社もありました。
が、他地区にはないようです?スクリーンショット 2019-03-18 2.55.03

下鴨神社〜三上山のラインを東に行くとどうなるんだろうなと思ったら、なんと熱田神宮を通って富士山に至りました。
こちらはもっとズレがあると思うので、すごく大まかなラインになります。

なんかまた、いろんなヒントをいただいたなと思います。


話変わって、今回「オートマティック・ライティング講座」を京都市内で開催しました。
それが瀧尾神社の近くでした。

私が参拝した時、神社のもっと北のほうに何かあると感じました。
帰ってから地図を見たら、下鴨神社〜鞍馬、貴船がありました。

これを伸ばすと、鵜瀬(福井)〜串本(和歌山)ラインとなります。
この縦ライン、以前私が関わったラインだったので、そうきたか!と思いました。
(昔の関連記事:「自然と共に生きる」

3回目の講座は下鴨神社の少し北にある会場でしたので、下鴨神社に参拝しました。

そういう流れがあり、3回目の講座前には三上山に行っときたいと思ったので、
やっとこさ重い腰をあげたのでした。


「オートマティック・ライティング講座」は、いわゆる自動書記をできるようになろうという講座です。
これは、完全なトランス状態になって書くのではなく、しっかりと意識は持ちならが書きます。

自分が意識できている領域と、感じるけど言葉にならない領域、
そして気づいていない領域。

瀧尾神社から三上山に行くまでの流れができました。
その後、その流れを汲んで石山寺にもいきました。

またもや水関連ですが、琵琶湖周辺にも行くところがたくさんありそうです。

参加者の方もそれぞれメッセージが来ていたり、リンクする場所に赴いておられたりと、
何やら見えないところでつながりが起きているように感じます。

三上山に登った時の話を書きたいと思ったのに、前置きが長くなりました。
続きは次回に。

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私は子供の頃、特別でもなんでもなかった。
きっとどこにでもいる子供だっただろう。

昔の話を親に聞いてみたこともあるけど、
「もう忘れた」と言われてしまい、
ほとんど聞き出せなかった。

幼い頃から好奇心は強かったようで、
タンスの引き出しを全部開けてかかったそうな。

それぐらいしか教えてもらえなかった。

でもって、私の記憶力が非常に悪い。

私は両親が大阪に数年間いた時に生まれた。
そして4歳の時に地元の島根県に戻った。

島根に戻ってから小学校に入るまで
の記憶はほとんどない。

けれども4歳までの大阪にいた
頃の記憶はわりとある。

隣のお菓子屋、近所の散髪屋、
家の前ではよく鳴くスピッツがいて、
近くには川があった。
まだまだ覚えている。

が、島根に戻ってからの記憶がない。

新しい家になったから、
何か覚えていそうなのだが、
幼稚園での記憶などほぼない。

小学校からの記憶はある。

霊的に優れていたとかは全然なかった。

見えないものが見えたとか、
声が聞こえたとか、誰かと話をしていたとか、
そんな記憶もない。

どこかちょっと普通の子と違ったところは
あったらしい。

暗闇を見つめてたか、好きだったか、
なんかそんな感じ。

特別な能力はなかったようだけど、
いろんなことは感じてたんじゃないかと思う。

感性、感応力が高いという意味で。多分であるが。
しかし早々とそれを封じてしまったんだと思う。

鏡文字はよく書いていたそう。
もともと左利きだしね。

育ちが出雲なので、出雲神話のヤマタノオロチや
因幡の白うさぎの話、小泉八雲の怪談はよく読んだ。

もっと大きくなってからは、
雨月物語や御伽草子なども好んで読んでいた。

特に怪談や雨月物語は何度となく読んでいた。
自分自身の中にそういうものに響く感性があったのだろう。

大好きだったのが「みどりのゆび」という小説と、
佐藤さとるのコロボックルの話。

大きくなってからもう一度読みたいと思って、
調べた時は、「みどりのゆび」がコロボックルの話だと
思ってたけど、全然違う小説だった。

「みどりのゆび」は読み返してみたけど、
内容はほとんど覚えてなかったが、イラストは覚えてた。

ストーリーを読むと
なぜ好きだったのかがよくわかる。

何度も読み返して影響を受けたのか、
もともとそういうのが好きだったから
今も共感するのかわからないが、

昔好きで何度も読んだ本などは、
かなり潜在意識に入っている。

自分に幽霊とか見えたわけではないけど、
読んでいる本が異界に関するものが多い。

子供の頃から、人間の世界でない世界で
生きている存在に関心があった様子。

世界の七不思議や超能力、UFOとか
すごく興味があった。

中学の頃にめちゃくちゃハマった
「はみだしっ子」というマンガがある。

「はみだしっ子」は普通の社会から
はみ出た家出の子供たちのストーリー。

20歳過ぎてからだけど、
似たような生き方をしてた、無意識に。

自分の人生を振り返ってみると
ずっとエッジにいた。

だから自分を「エッジの人」と
呼ぶわけなんだけど。

まあ、言ってみれば、
はみだしっ子ってわけさ。

昔も今も。

異界とこちらの世界のはざま。

結局、そこか、と思ってしまう。

Part 2 へ続く。





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”イザナミのダークサイド”と私は呼んでいるのですが、
昨年12月に女性性のエネルギーのネガティブ面が非常に重く感じられる時期がありました。

11〜1月あたりしんどかった人はそのエネルギーを感じていたり、
自分の中からその部分が浮上していたのでしょう。

もう消えていくために、そして未解決なことは解決されるがために浮上してきたようです。

1月〜立春にその集合意識に対してのヒーリングジャーニーを行い、
いろんなことが出てきました。

このブログに記事アップしていた何年か前の出来事とも繋がったりして、
記事にして残しておくことも大事だなと思いました。

そのヒーリングで最終的に出てきたことは「龍とはなんぞや?」でした。
それについてはいろいろと思うところありますが、
それはまたおいおい書いていきたいと思います。


今日は先日の龍リサーチについて、自分の記録として書いておきます。

京都から琵琶湖西岸に住み始めてはや5年目ですが、
琵琶湖と龍についてほとんど知らんかったなーと気づきました。
しばらくは琵琶湖周辺を探索しそうです。

八大龍王が降臨したらしいという場所が気になったので、2月最終日に行ってきました。
実際にそこかどうかはわかりませんが、ネットで写真を見てすごく気になりました。

その前に、茶臼山古墳、小茶臼山古墳に行きました。

ここに「彦坐王」が祀られているのにびっくり。
この方は、以前、記事にしていたので、まさかこんなところで再会するとは!と驚きました。
日子坐王

ここに秋葉神社があります。
そこには大友皇子とその家臣6名が祀られています。
奥の場所は今もその物悲しさが感じられ、涙が出そうになりました。
死ぬことになった口惜しさではなく、家臣の皇子を思う心に涙が出ました。

”イザナミのダークサイド”では「報われてない思い」が強く残っています。
この場には恨みの念が残っていたわけではないですが、世の中の無常さへの虚しさを感じました。

その後は八大龍王が祀られているという行場に行きました。裏に磐座があり、その後ろにも磐座かと思しきものがあります。「登ってよろし」とのことだったので登りました。

急な斜面で、登るはいいけど降りれるかな?と心配しながら登りました。登ってみれば、尾根が続いており、しばし歩きました。

そこは一つの龍の道というか、気が流れているところだったようです。
IMG_3168

降りて戻ろうとしたら、龍白大明神に「あっちは行かんの?」と呼び止められ、はたともう一つの目的地を思い出しました。


それは地図で見たその先にある池。
谷川に沿って道があったのでそこを歩いて行きました。





IMG_3173


そこを歩いて初めて気づいたけど、
行場の磐座はほんの鼻先。

この山自体が大きな磐座になっているようです。
かなりでかい。

その道を行けばいくほど、まわりの自然が息づいてきて、トトロの世界というか、岩や草木が話しかけてきてもおかしくないような非日常な雰囲気の森でした。

IMG_3175
IMG_3176

など思いながら歩いていたら突然、目的地の池が目の前に。

これには背筋がぞくっとしました(いい意味で)。
久々に畏敬の念に打たれました。
IMG_3177

池自体は普通の池といえば、普通の池なのですが、
その水の色が、池の主が金の斧を持って現れてきそうな感じ。
IMG_3182

池沿いにはまるで龍かと思われるような木がありました。
IMG_3183

行場はほんの入り口なんだと思いました。
IMG_3180


もしここが私の来るべきところだったらサインがあるはずと思っていたら、岩笛を吹いていた時、なんと魚が二匹、足元に現れました。

これにも感激しました。
こういうことがあるから楽しいですね!

龍の形をした木と魚が二匹現れたこと、
その夜、雨が降ったこと。

これはサインと見ました。


帰りは引き返さず、そのまま道を進んで行ってぐるりと回って戻りましたが、
この道はまったく普通の山道で、先ほどの非日常的な雰囲気はまったくありませんでした。

翌日は春の嵐。北海道は雪嵐で真っ白、栃木か千葉では白の竜巻、
沖縄石垣島では地震震度5と続きました。

これは関係あるかないかはわかりませんが、白のキーワードが...。
二匹の魚はキリストを思い起こしますね。

琵琶湖周辺には龍が封印されているスポットがいくつかあるようです。

これらが見せてくれる現象の背後にある情報をちゃんととらえていかねばと思います。

これからしばらく龍の探求は続きそうです。
意識の古層にある情報場、遺伝子あたりとも繋がっていくように思います。

人の意識が覚醒していくためにも、女性性の時代が始まるためにも、
龍の情報がオープンになっていく段階なんでしょうね。


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今日は夏至ですね。

この話は「象徴言語」とつながっていきます。
そのうちすべてにおいてそういう感覚になっていくんでしょうね。

今回の夏至はけっこうな分岐点。

昨年冬至から今回の夏至まで、固体化した「自我」が揺さぶられ、
ヒビ入れがなされていた時期でした。

「個の塊」だったエゴが解体し始めて、

例えば、古い価値観が抜け落ちたり、長い夢から覚めた感あったり、
「私ってこんな人」という思いなどが、崩れ出して、あわわ、、となったり。

これからますます「個」の概念が変わっていきます。
今まで「自分」が ”個体” だと思っていたのが勘違いで、
多重構造だということにだんだんと気づいていく段階に入りました。

例えていえば、複数の円があって、それらが交わると重なりあった共通部分ができます。

今までは”共通部分”が自分だと思っていたわけですが、
それらの全部の円が自分だと気づくようになっていくってこと。
イスラム文様の円が重なり合ったようなかたち。
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フラワー・オブ・ライフ、、、と今、気がつきました。
だからそうなのか、、。

言葉で説明するより、図形の方が説明してくれる。
←こういう時代になっていきます。

意識が進化していて、また次の段階に入るのがこれから。
簡単に言えば、多重人格(多層人格)。

「私」なんてもともといなかった。

たくさんの微生物が集まって一つの体を構成しているように、
バラバラなんだけど、個体、自分だと思っていた

ということがだんだんわかってくるようになります。

物理空間から情報空間に意識のレベルが移行し始めているので、
そのうち、物事のベースが物体でなくなっていきます。
ゆくゆくは、物体基準で「個」をカウントせず、「情報」でカウントされるようになります。

新しいゲシュタルト(まとまり)ができるには、
いったん古いゲシュタルトは解体されないといけない。

バラバラになり、再編成。

芋虫が蛹になってる時って中でドロドロになっているらしいけど、おんなじですね。
再編成されてできあがったのが、多重多層構造の私たち。


既にその予兆が始まり出してます。

今、コミュニティ化が進んでいるのも特定の情報によって結びついたコミュニティ
という集合体に意識が向かっているから。

今までは自己実現が大切なように思われてきたけど、
これからは自分のための自己実現というより、
他のために役立つことが自己実現と言われるようになっていくでしょう。

自己実現も突き詰めれば、以前からそういうものですけど。
今までは、自分の成功やゴール達成みたいな感じになってたと思います。

とまあ、これから面白くなっていきそうですね。

私たちの意識がどんどんと変化しています。


東京セミナーではこの話をします。ご興味のある方はぜひどうぞ!

「広がる自我の結び直しのと多次元宇宙」

7月9日(日)14:00~16:30
場所:東京都中央区内
料金:8000円

お申し込みフォームはこちら

メッセージ欄に「7/9セミナー参加」とお書きください。

7月23日からコーチング料金が値上がりします。
セミナー後、コーチングコースにご興味のある方には相談の時間をとります。
メッセージ欄に「コーチング相談希望」とお書きください。

・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・

京都でのセミナーは7月23日(日)です。
内容は東京とは変わる可能性があります。

時間:13:30〜16:00
場所:京都テルサ
http://www.kyoto-terrsa.or.jp

料金:8000円

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メッセージ欄に「7/23セミナー参加」とお書きください。

こちらも東京と同じく、コーチングを受けることに興味ある方には終了後、
相談時間をとります。メッセージ欄に「コーチング相談希望」とお書きください。


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今日は独り言です。
これを読んで「そうかー」と納得するごく少数の人に伝えたいので、
あえてブログ記事にしておきます。
ほとんどの人には??だと思うのでスルーしてください。



昨日、思いがけぬ出会いがありました。

2012年前に天河大弁財天社で舞った「うしろの舞」。

その時にちらりと顔出しされた"かみさま"が、昨日、前面にでて、大いに舞われました。

まさかこんなかたちで教えてくれるとは思いもしなかったけど、
ちゃんと受け継がれていっているんだなと思いました。

よかったと思うと同時に確実に時代が移り変わっているのを実感。


さて、うしろの"かみさま"は表舞台に出てこられました。
”かみさま”と書いていますが、一般的に言われる神様のことではないですが、
呼び名がないので。

そして私も軌道修正。
もっと深くこの世界と付き合っていくことになりそう。

もっと繊細に追求していくといくつかの層があるようですね。

長い年月、連綿とあるこの存在というか、存在がない存在というか。
昔「しらたまさま」と名乗ったモノが、実はギリギリラインでのその象徴的姿なのだなと。

それが自分の活動とどのようにつながって現れてくるか、まだわからないけど、
その方向にむかいそうです。


以前、白山大汝峰に行くことで開いた次なる世界への扉。
その後、2年間は現実界での修行。

そして再び車輪は動き出し、また私はお約束ごとに向かうのだな。
私のエンドレスなゴールですね。

その世界と現実界との融合。

めったなことでそれを表したものには出会えません。
私は私なりにそれを表現していくことになるんだろうなと思います。


ところで、「ヌースフィア」をググってみたらこの記事が面白かったです。
ヌースフィア はじめに

バイオスフィアとヌースフィアとサイバースフィア。

それに加えて、このスフィア。

私のコーチングに「トランスフィア・コーチング」と密かに名付けていますが、
なるほどと今思いました。

私のコーチングではそこに目覚める人を増やしていくんだろうなと思います。
私のところに来る人はその傾向のある人が多いようですし。


このブログのカテゴリーに「カムナガラビリンス」という項目があります。
「これはなんですか?」と以前聞かれたことがありますが、
今日みたいな「マイストーリー」的な話につけた名前です。

自分の内深くに潜む神話ですね。
こういう流れは自分で予想し難いのでおもしろいです。


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7月のメッセージで、最後に龍のことがでてきたので載せときます。

先日、それはたまたま夏至だったのですが、最近引っ張りだこの北畑さんのセッションを受けました。

ヒアリングをしながら、クライアントの中にある忘れ去られたものを見つける技術はピカイチだなと思いました。

子供の頃に封じてしまった本来の私の資質。

それが北畑さんの口を通して、説明ではなくて、アファメーション的に蘇ります。

その言葉、自分に言ってあげるといいよねーと思いながら、言われるがままにタッピング。
施術中に、自分が昔、封じた強いエネルギーが開放されるのを感じました。

そのエネルギーは自然界の人間的制約のない自然で自由なもの。
私の中のそれが開放されるとともに、自然界のそれも開放されていくのを感じました。

それはいわば、龍のエネルギー。
そのプロセスを感じていると、「日本が変わる」のことばが現れました。


すべては相似象、フラクタル。

私が変わることで私の認識が変わり、私が体験している世界も変わり、私に関わる縁起も変わります。
また世界が変わっていくことで、私も変わらざるを得なくなり、こういう変化を得ています。

これはどちらが先というわけではなく、自分と世界は関係し合いながら、相乗的に必要なプロセスを行っています。

私の中の龍的エネルギーが開放されることは、私の世界の自然界が活性化されることであり、
私の中の日本の自然霊界も活性化されることだから、私との関係性においての日本も変わらざるを得ない。

縁起というネットワークの中の自分は、自分以外との関係性の中で成り立っています。

私の中に封印されてた龍のエネルギー、それは自由奔放、自由自在のエネルギー。

それは秩序だったこの世界では長い間、悪しきものとして扱われてきましたが、
新しい時代にはこのエネルギーが必要です。

少しずつ解放されてきていますが、これからもどんどんと他の人や自然界のそれも解放されていくのでしょうね。

さて、龍はどう動くのやら?

龍の時代がまたやってきますね。
ゲド戦記が読みたくなってきました、、、。


追記:
IMG_0828

昨日、ネキリムシがいるかと思ってひっくり返した
植木鉢の植物の根っこにへばりついていたのは、
なんと、トカゲ。

そして卵がポロリと落ちました。

トカゲの寝返りが土を耕してたんですね。
申し訳ないことをしてしまいました。

今思えば、この記事に書いていることの
象徴的な出来事だなと思いました。

トカゲの卵、初めて見ました。
土に戻したけど、無事に産まれてくれたらいいなあ。


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前回の続きで、中沢新一の「精霊の王」からです。
私が何をこの話にリンクしているかというと、人間の根源的な「力の源泉」となるもの、それは自然界にリンクしたものであり、それについてうまく表現されていて、自分の言葉で一生懸命説明しようとするより引用する方が明らかだと思うからです。

人間の思考が作り出してきた世界から、それの背後にずっとあった自然界の秘められた力がこれから私たちを通して顕現していくのだと感じています。

部分部分を抜粋しているので、全体を読みたい人は「世界の王・力の源泉」を読んでください。以前も転載しました。この部分だったかは定かでないですが。

「翁=宿神」の内部には、イニシエーションの儀式を司る「人食いの王」のイメージが隠されていることも、私たちはすでに見てきた(第六章)。中世の摩多羅神である。人は生まれたまま、そのまま素直に成長をしても、世界の表面から隠されている真実を見ることはできない。その心が常識でがんじがらめにされているからだ。イニシエーションは、常識によってつくられた心の状態を作りかえて、いままで見えなかった真実を見えるようにしようという、慈悲深い儀式なのである。そのとき、イニシエーションを受ける者の前に、暗闇のなかからさまざまな姿をした「人食いの王」が出現する。

 この「人食いの王」は、イニシエーションを受ける者の古い自我を食い尽くして、破壊する。北方の狩猟文化では、しばしばこの役目を神としての熊がつとめた。熊こそが、死の領域の支配者であるからだ。熊は古い自我を抱えた人間をずたずたにひき裂いて、そこから真実を見る目を備えた新しい主体を生み出すのである。この事態は、イニシエーションを受ける者の側からすると、荒々しい自然力にさらされながら、真実の「主権者」の姿を見届けることによって、認識の構造を根底から作りかえられることを意味するだろう。力と認識力の源泉。「翁=宿神」はそのままで、別の形をした「聖杯」なのである。

この「人食いの王」は天災の姿をして現れることがあります。
人は逆境に直面することにより、通常の意識とは違う意識状態になります。
精神的に弱くなる場合もあれば、火事場の馬鹿力のように通常は出せない力を発揮することもあります。

いつもの状態はコンフォートゾーン、自分にとっては慣れ親しんだ状態であり、居心地の良い領域にいます。そこにいる限り、その自分にとって最高のパフォーマンスが出せますが、「その自分」でいる限り、それ以上にはなれません。

私たちは現状の居心地の良さに甘んじる傾向があります。
変わるべき時期に変わらず、そこに居続けようとすると、外的状況により
強制的に変わらざる得ない出来事が起きることは誰もが経験しているでしょう。
自分の人生の流れを見て、とどまるべき時、進むべき時を見極めたいですね。

強制的に状況が変わると、古い自我にしがみついている今のままの自分でいるより、新しい状況に合わせて変化することを選ぶ方が流れはスムーズにいきます。

新しい状況を受け入れることはとても怖く不安になりますが、
新しい自分になるためには必要なイニシエーションとなります。

今までのあり方に固執すればするほど苦しくなりますので、
流れに沿って柔軟になることが大切です。
 
人間が「力の源泉」を自分の能力の外に求めていた頃には、「世界の王」はまさしく世界の中心に、はっきりと認められていたのである。ところが、この世の王、世俗の王なるものが出現し、そこから国家という怪物が立ち上がって以来、真実の力(主権)の秘密を握る「世界の王」は、私たちのとらえる現実の表面から退いて、見えなくなってしまった。そうなってしまうと、「世界の王」はむしろこの世で虐げられた人々、賤しめられた人々、無視された人々のもとに、心安らかに滞在するようになり、現実の世界の中心部には、「主権」を握っていると称する偽の王たちが君臨するようになってしまったのだった。

古代の王たちから現代のグローバル資本主義にいたるまで、偽の「主権者」たちによってつくりあげられてきた歴史を終わらせ、国家と帝国の前方に出現するはずの、人間たちの新しい世界について、もっとも正しいヴィジョンを抱きうるものは、諸宗教の神ではなく、長いこと歴史の大地に埋葬され、隠されてきた、この「世界の王」をおいて、ほかにはない。しかし、すべては私たちの心しだいである。この王の語りかけるひそやかな声に耳を傾けて、未知の思考と知覚に向かって自分を開いていこうとするのか、それとも耳を閉ざして、このまま淀んだ欲望の世界にくりかえされる日常に閉塞していくのか。すべては私たちの心にかかっている、と宿神は告げている。


この「内奥の力」「力の源泉」につながることは自我を超越することです。
自然と人間を切り離した時点で、この力と自我との関係は別物として扱われてきましたが、それが再び融合していくでしょう。

この「王」は外の世界にいるのではなく、自分の内奥に潜むものです。
自我を超えた領域は特別な人しか感得できないと思われてましたが、「新しい常識」として今後、定着していくでしょう。

それはまだまだ先の話でしょうが、テクノロジーの進化もあり、魔術が魔術でなくなり、日常になる、そんな日もそう遠くないと思います。


昔の人からしたら、飛行機が飛ぶのもインターネットができるのも電気があるのも、その仕組みを知らなければ、魔法ですよね。
新しい世界はそんな魔法が盛りだくさんの世界となるでしょう。

そこに到達するには古い自我世界が大きく変わらないといけないです。

とくに自然と人間との関係。
それは古い自我と新しく拡大した自我、そのせめぎ合いです。

強制的に変わらざるを得ないことになるよりは、先に意識変化が起こることにより無難に変化していきたいですね。


熊本の人は現在たいへん状況におられて、本当に早く安全安心な毎日が得られることを願います。

が、もしかするとこの逆境を通して、のうのうと暮らしている人より一足先に、この新しい感覚を体得していかれるのかもしれないです。

より自然とつながった生き方や感覚。
それは東京より地方から始まるのでしょう。


電子書籍「人間という名の家畜: 常識という檻から抜け出す7つの秘訣」好評発売中です。

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「熊が動いた」についてまとめてみると、「理性」と「野生」をわけていたものが取れ、バイパスができたという言い方がいいように思います。

「熊」は「森の王」ということで、中沢新一氏の「精霊の王」の登場です(抜粋)。詳しく知りたい人は「世界の王・聖杯」をご覧ください。

 北方世界における熊の存在を考えてみるとき、アーサー王の名前にはきわめて重大な意味が隠されている。その世界で熊は偉大な「森の王」であったからである。(中略)
 力(主権)の源泉は人間の世界にはなく、人間の力を越えた自然の中に潜んでいるものだと考えられていたが、熊こそがそのような「超越的な主権」の体現者にほかならない、と考えられていたのだ。天体においては大熊座とその中心である北極星が、「天上の熊」とみなされていた。しかも北極星は動かない。すべての天体が、この星を中心に廻る。人間の世界の外、そして人間の手の届かない遠い所あるいは次元の違う領域に、真実の意味で世界を司っている存在がいる。まさに熊こそは、北方世界における「世界の王」だったのである。

 世俗の王たちは、王権やその象徴(レガリア)のまわりに組織された空間に、王の主権は実在すると信じている。つまり、王の権力の源泉が人間の世界にくり込まれている、あるいは、王権は天上界の神から人間にもたらされたと考える。ところが、そのような「天上界」は人間の幻想に所属しているものであって、結局はそういうやり方で人間の世界の内部にくり込まれてしまっている。

今までの世界は、西洋的な「神」という概念も、「王」や「支配層」の権力も「人間の幻想に所属しているもの」であり、私たちはそのフレームの中の世界で生きてきたわけです。


 ところがアーサー王は「世界の王」でありながら、人間の王を越えている。この王の「超越的主権」のあり場所は、国家を持たない北方の狩猟民にとってと同じように、人間の世界の外、自然の内奥にひそんでいると考えられている。神話的な熊であるアーサー王は、人間の世界に二次的な王、偽の王たちが出現してくる以前の、真実の「主権」のあり方をあらわしている。つまり、彼こそが二次的な王たちの出現と同時に見えない存在となってしまう「王のなかの王」であり、真実の「世界の王」としてこの世界のどこにもない空間を、天幕の王宮と一緒にたえまなく移動しつつある存在なのである。

「人間の世界の外、自然の内奥にひそんでいる」と思われるエネルギーが今回の地震をきっかけに表に現れだしたのでしょう。

とある頃から今まで、このエネルギーは悪しきものとして扱われてきました。
「理性」と「野生」のバイパスができたというのは、理性がこのエネルギーを再び受け入れる段階に来たということです。


偽りの力が世界を支配し、その力のまき散らす虚偽によってすっかり目を眩まされてしまった人々には、けっして見ることも触れることもできない異空間に、聖杯は隠れてしまったのだ。そこに入り込んでいける資格を持った者は、人間の世界を支配する力への欲望や嫉妬や愚かさから自由になれた、アデプト(精神の達成者)でなければならない。つまり、精神の探求における真実の「騎士」でなければ、聖杯に近づくことは許されない。

より自然体になっていく人と、獣化する人がいるだろうというのは、この精神性があるかないかによります。






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昨夜、熊本で震度7の地震がありました。
余震がなんども起こっているようで、現地の方々は不安な一夜を過ごされたことと思います。

亡くなられた方のご冥福をお祈りする共に、被害に遭われた方々が一日も早く通常生活に戻れますよう心より願っております。


熊本で地震が起こって私が最初に思ったのは「中央構造線」。
日本列島を横断する大断層です。

ちょっと気になったので、久しぶりに「自動書き下ろし」をしてみました。


熊本は中央構造線の南端の近くになります。
この地震は中央構造線に関係しています。
南海地震の予兆ではありません。歪みの修正として起きたものです。

鹿島と連動していますので、南海より関東の方が要注意です。
でもすぐに大地震が起きるかというとそんなことはありません。
小出しされる可能性もありますので、そうナーバスになる必要はないでしょう。

地質学的な話ではなく、霊的なところから読み解いていくと、
これは黒カラスに関係あります。
くまモンは黒です。カラスも黒。八咫烏も黒。
金鵄は金。金色は伊勢、諏訪。太陽の道も金。
と書いてもなんのことかわからないかもしれません。

人の背骨に当たるのが中央構造線です。
その末端、鹿島と霧島とどちらを頭にしてどちらを尾にするのか、
これは決まっていません。どちらもどちらにもなり得ます。

要するに結び目、交差点、あちらとこちらの境目の結界はずし、
が今回の地震だったと思ったらいいでしょう。


「くま」は何を表すのか?

熊本、熊の本、熊は自然界でなくてはならない生物。
森を豊かにしてくれる森の守り人です。
その熊の本が揺れたということです。

これを警告と受け取ることもできますが、
それよりはいくつかのメッセージとして受け取るがいいでしょう。

警告と受け取るなら、自然が危ういということ。
自然が壊されたら人間もいずれ壊されますからその警告。

熊(自然界の象徴として)の根元が揺らぐ。
これ以上自然の循環を乱してはいけないというメッセージと受け取ることもできます。

他メッセージとしては、自然界を無意識の顕現化として、
無意識とこちらの普段の意識界の境目にある扉が外された(元がぐらついた)と見ることもできます。

(精霊的)エネルギーの世界においての出来事の、
現象界においての表現が熊本の地震であったということです。

自然界と人間界(人間が作り出した意識界)の境目が外されたことになります。

これは鹿島の要石につながっていきます。
なぜ鹿島が動かず、熊本かというと、そこがメビウスの輪のような裏表のしくみなので、熊本に現れたというわけです。
一つのサインとみればいいでしょう。

これにより、うしろの世界と表の世界の境界が取り払われましたので、
新しい段階に移行し始めます。

その二つが融合し始めるということですので、ある人にとってはうれしいことであり、またある人にとっては不気味で気味悪いことかもしれません。

より自然体になっていく過程です。
より自然でナチュラルになっていく人と、獣化していく人といます。

「人とは何か?」「人間とは何か?」という命題が再び浮上していくことになります。

動物との違いは何か?
本当に人間は今まで私たちが思ってきた通りのものなのか?
なぜ他の動物と違うのか?

キリスト教的視点で見るのではなく、
原点に戻った時にどういう答えが導き出されるのか?

今回の地震はタガをひとつ外す役割を持っており、今まで人間が人間たるゆえんとしてもっていたものへの問いかけが起こります。

無意識と顕在意識、あちらの世界とこちらの世界、表と裏、動物や自然と人間。

今までは理性がこれらの境界に一線を引いていました。
それが今回揺らがされ、そこにあった境界がなくなったと思ったらいいでしょう。

なくなったといっても、私たちの意識は記憶に動かされていますので、
境がなくなったことに気づくのは今しばらく時間がかかります。

けれども、なんかヘン、なんか妙だな、何かが違う、、と感じ出すと思います。

その時に、対岸のものに理解がある人はより自然体に近く、
そうでない人はより獣化していく、あるいは恐れが増していくことになります。

ヘンな言い方かもしれませんが、あまりに「人間」すぎる人はこの先しんどくなっていくでしょう。
なぜなら全体的な流れとしては、より「自然」に近づいていくことになるからです。

顕在意識が氷山の一角の見えている部分で、無意識が水の下に隠れている部分ですが、「自然」は無意識領域に属しますので、その境界がなくなったら、水面下にあるもの(自然)が圧倒的に多いのがわかるでしょう。

その世界がじわじわこちらの世界に侵食してくるということです。

昔話で、動物が人間に化け、人間と結婚する話や、妖怪と人間が共存していた時期などありますが、それが再びやってくるということです。

といっても、これは物質以前の意識領域でのエネルギー交流としての話です。

意識内でそういうエネルギーが分けられていたのが、道が開通して行き来できるようになっていくので、人によってはそのエネルギーに妖怪を見たり、動物が話をしたり、なんてのを見る人もいるということです。

まあ、これはゆくゆくは、、ということで、今はまだその境界が外された、というところだけを心に留めておけばいいです。
すぐに変わるわけではないですから。

「和音」2016.4.15


途中、鹿島と霧島とでてきますが、霧島は中央構造線の末端ではないのでは?という疑問が私の中で起こりましたが、調べてみたら「鹿島霧島レイライン」という約1000キロのレイラインがありました。

霧島神宮、高千穂→剣山→伊勢神宮→富士山→明治神宮→皇居→スカイツリー→鹿島神宮


今回の熊本の地震は、人が人らしくなるために、より自然に戻る段階の一つとして、顕在意識と無意識領域の一つの封印が解かれ、架け橋がかけられた印であると私は受け取りました。

私の単語の捉え方は曖昧なところもありますので、細かいところはともかく、言わんとするところだけ受け取ってくださればいいです。自分でも?と思う記述もありますんで。

私は自分の言葉を通してこのように書き出していますが、
同じエネルギー場を感じたとしても千差万別の受け取り方があります。

もし今回の地震がここに書かれているように「裏と表の間にあった関所のひとつがなくなった」ということであれば、あなたはそれををどう受け取るでしょうか?

私の言葉で言えば、「自然」と「人」をつなぐ道が開いたという現象であり、
うしろの世界への道がついた、という表現になります。


熊といえば、熊野、、、。
つい先日、水木しげるが南方熊楠のことを書いたマンガ「猫楠」を読んだところでした。
水木しげる氏も南方熊楠氏もこの架け橋がすでに開通していた人ですね。


ちなみに、こんな記事を見つけました。面白かったです。
金鵄の真実

メビウスの輪のようになっている表と裏。
うしろの正面、だあれ?

ちなみにこの言葉を使って言い表せば、「うしろの正面」の「の」が外れて、
「うしろ正面」「正面うしろ」と一つの単語になったという言い方もできます。

ここに働いている原理を読み取って、その働きを他のことにも当てはめてみてください。

それはともかく復旧作業が早く進みますように。


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「申」という字はもともと「かみ」という意味で、稲妻が光るかたちであったそうです。

昔は雷が鳴ると、雷様におへそをとられるよ〜と言われたものですが、今でも子供はそれを言われるのでしょうか?


昔は「お天道様のバチが当たる」とよく言われました。

それは親でも先生でも警察でも社会でも行政でもなく、「天が見てる」から悪いことをすると天罰が下るよという戒めでした。

さすがに天には隠し事ができないです。
誰も見ていなくても天が見ています。

これは今思うと、「自分の良心に従いましょう」ということなんだろうなと思います。


子供の頃は、例えば、ゴミを道に捨てようと思っても、「天の神様が見ているかもしれない」となんとなく感じて、ちゃんとゴミ箱に捨てるということをしたものです。

天の神様がいるかどうか?などを真面目に考えたわけでなく、上から見られているような気がして悪いことはできないと感じたものです。


日本人が礼儀正しかったり、国民性としてあんまり悪いことをしない傾向があるのはこのせいもあると思います。
悪いことをする人もいますが、例えば、自動販売機が外にあっても壊されない国は日本ぐらいだそうですし、災害時にも他国よりは強奪が少ないようです。

「私」より「公」を重んじる国民性があると言われますが、この「公」は天の神様にも通じると思います。


昔、タブーがもっとはっきりしていたころは、悪人になって牢屋に行くよりも鬼になる方を怖がりました。
ここでいう鬼は「人間ではない何か」ですね。

天の神様に背くと人の道を外れて鬼になる、、、それはとても怖いことだったと思います。


そのタブーの一線は、ハレとケがあることで保たれていました。

昔は、闇は闇として存在してよかったのです。
それがあることで光が保たれてました。

近代社会では闇を排除する傾向にありましたので、そのバランスが崩れてしまいました。
そのため、ハレとケの一線がどこなのかわからなくなってしまい、本当に邪鬼と化す人が現れるようになりました。

何事もバランスが大事ですね。

不登校児が増えたり、いじめが増えたりも同じような現象だと思います。
すべてを「明るく正しい」方向に持っていこうとすることで歪みが起きているのでしょう。


「申」という字は、「日」の真ん中に棒があります。
陰陽のバランスをとっているのでしょう。

猿といえば、猿田彦大神という神様がいらっしゃいますが、十字路に立って道を示してくれる神様です。


今年は陰陽のバランスを取り戻し、二元性を超えた新しい段階に進んでいきたいですね。

猿田彦大神が指し示してくれるでしょうか?



「自分に捧げる言葉・2016新年メッセージ」

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前回「微振動共鳴(チの3)」からの続きです。

まだ読んでおられない方は、「リンガ・ヨーニの波紋(チの1)」からお読みください。

さて、「八百万の神々」は外のモノであると同時に、体内でのことでもあるという話。

たくさんの粉子がみんな微振動していて、隙間でお互いが振動共鳴し合っていて、粒ではなく、振動で起こる揺らぎが本体であるということを「微振動共鳴(チの3)」で書きました。

モノそのものより関係性によってエネルギーが生じ、ネットワークを構成します。
そして、はたと気がついたことはなにかというと、

毛細血管!

そう、ネットワークの形はまさに毛細血管と同じ。
以前、「人体の不思議展」で見た人体の血管、それを思い出しました。

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          http://blog.livedoor.jp/minminmiracle/tag/標本

血管・・・血。

だから「チ」か〜と思いましたよ(笑)

血液というよりは毛細血管。
網の目のように張り巡らされたそれはまさにネットワーク状。
私たちの体はネットワークが張り巡らされています。

気づいてみれば、木も同じ。木・血(笑)

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こちらのサイトにも幾つかの比較があって面白い。→フラクタル

全てはフラクタルに相似象。

このネットワークもまたフラクタル。
体内に走る毛細血管の形はそのまま宇宙の構造を表しているのかもしれない。


水が地球の血液だとして、川と木々やその他の植物が毛細血管的な役割だとしたら、それを全部可視化すると似たような構造になるのでしょう。

また私たち人間のつながりを見れば、、個人のつながりや知識のつながり、興味のつながり、地域のつながり、、とたくさんのつながりがあります。
時と場所を超えて、情報空間でつながっている場合もあります。

それらのつながりもまた可視化すればこんな感じでしょう。

宇宙の星々、銀河もきっとネットワーク状につながっているんだと思います。

となると、「微振動の集合体(チの2)」に載せている過去記事「菊理媛さまの99%とミシャグチ神」で書いている「筒」の話などにつながっていきます。(このころはまだ「トーラス」という言葉は知らなかったんですが)

ググって出てきた自分の関連記事がなかなかおもしろい。
植物の秘められた役割
「菊花紋」
「日の丸と菊花紋」
「ひたすらに創造(変革)し続ける」

だんだん話が広がるので、とりあえずこのへんで。
すみません。リンクばかりで。



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前回の記事

『人間(のエゴ)は自分が自分を動かしているように思っているけど、実は微生物、宇宙の意思や縁起によって動かされているところも大きく、どこまでを「自分」とするかでその主張も変わっていきます。

この日、自分の意識は集合体に移ったなという感じ。』


で、今回の記事に続きます。
 ↓ ↓ ↓

その後、最小個体の集合体である自分を感じてみると、すごい!
たくさんの粉子がみんな微振動していて、隙間でお互いが振動共鳴し合っていて、そのパワーがすごい。
体がすごく熱くなって、冬寒い時にはこれを感じていれば、暖房いらないかも?と思わせるぐらいでした(笑)

エクスタシーとは、ソマチットの微振動共鳴なのかもしれない、、、。

例えば、両手をこすると熱くなりますが、それが振動している粒子間で触れないままに起こっている感じ。

粒の方ではなく、振動で起こる揺らぎが本体なんだなと。

それがすごいパワー。


人間は「人の間」と書くから、これが自然な人間のあり方だと昔の人は思っていたかもしれません。

「人間ではないとわかった」ではなく、「より人間らしくなってきた」という言い方のほうが本当なんでしょうね。
カタカムナあたりを研究すると出てきそうな、、、。

今の人間があまりにも人間らしさからかけ離れてしまったのかも。

私の子供の頃からの記憶の中にあるのが最小個体の共鳴複合集合体である自分(世界)で、ずっとそれを探してきたのだとしたら、だいぶん近づいてきたと思います。


これと一昨日の記事となんの関係があるのかというと大あり。

おかげさまの世界。すき間の世界。裏が表になる世界。

「自分」が解体され、集合体としての認識が深まっていく。


「八百万の神々」という表現は、すべてのものには意志があるという意味とともに、自分自身も八百万の神々の集合体で構成されていると昔の人は感じてたんでしょうね。

これからコミュニティの時代だと言われていますが、自分自身が一番身近なコミュニティ体です。
その自分の中の関わりを調和させることは健康体を作ることと同じ。

ネットワーク、システム、関係性、縁起、コミュニティというようなこれからの社会に必要になるであろう考えとこの話は自分の中ではつながっていきます。


全てはフラクタルと思えば、銀河を見ても星々の集合体。
塊は集合体であり、どの「塊(ゲシュタルト)」に意識を向けるかで世界の様相も変わってきます。

個体の人間、つまりエゴ意識が主となる段階の世界はもうそろそろ卒業して、集合体である自分に目覚めていくと、「自分」とは共同体。

もともと個ではなく、集合体が自分だから、争いという概念がなくなります。

自分の中での争いはストレスになり、病気を引き起こします。

自分の中の八百万の神々(最小のモノ)の調和を保つことを意識していたら、外の世界で争いは起こり得ないと思います。

戦争という概念自体、ない。

例えば、自分=地球の認識があれば、国同士で争う意味がわからん、ということになります。

自分の心臓と肺が「この血は俺のもんだ」と争ったら体調を崩すだけでしょう。
まずそもそもその血を奪い合う意味がわかりません。

そんな感じです。

縄文時代がなぜ1万年以上も続いたのか、その答えのひとつがここにあるように思います。

今回の冬至からはそういう世界が始まりだすのだなあと思います。

なんてことを思いながら床について、はたとあることに気がつきました!


次回へ続く。



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前回の竹生島の話からの続きです。

その後の詳しいことは省きますが、12/15に私の長年の人間界に対する違和感の意味がわかりました。

私は、子供の頃から人間界に違和感を感じて生きてきて今に至ります。
昨年あたりには、人間が本来の自然な状態ではなく、ロボット的になっているその人間社会になじめてないんだなと理解しました。

少し前に、電子に意志があるという話を読んで、とても共感した話を書きました。
私が「チ」と呼んでいるものの存在にだんだんと近づけてきているような?

2011年の記事ですが、「菊理媛さまの99%とミシャグチ神」では、「マナちゃん」と「チ」が出てきます。
この時はこの二つの区別はあいまいだったようですが、今思うに、「マナちゃん」は「チ」がある程度グループ化したものであり、もっと個としての意志がある存在で情報を持った「氣」、もしかすると精霊と言われるものの「氣」に近いかも?

「チ」はもっと微細。個体の最小単位。

「チ」について以前書いたと思い、調べて、「菊理媛さまの99%とミシャグチ神」の記事が出てきましたが、いいタイミングでした。昔の記事なので、多少書き換えたいところがありますが、読んでハッとしたことがいくつかありました。

無意識はすごいなと思います。
数年前の記事に今起こっていることについて書かれています。

私の脳が私の興味に合わせて勝手にリンクしているだけといえばそうなんですが、そうなることで新しい気づきを得ます。

こちらにもつぶつぶの話がありますが、もう一つ見つけたい記事が見つかりません。。。


なぜ今これらを引っ張り出しているかというと、、、

11/25のツイート『ソマチットと微振動。。。』、
12/15『微振動の集合体。微振動による共鳴と発火。いのち。』

15日に「自分は人間ではなかった」という認識を得ました。

じゃあなんだ?と聞かれたら、「チ」の集合体。
まあそれがソマチット(ド?)か意志を持つ電子か、微生物か、その他のものかはまだわかりませんが。

これまた古い記事ですが、
集合体としての「和音」では、偏在する集合体の自分のことを書いています。

そこで、15日の「私は人間ではない」という気づきは、なんだ、やっぱ集合体か、と妙に納得したところもあり。

人間(のエゴ)は自分が自分を動かしているように思っているけど、実は微生物、宇宙の意思や縁起によって動かされているところも大きく、どこまでを「自分」とするかでその主張も変わっていきます。

この日、自分の意識は集合体に移ったなという感じ。


というところで、次回に続きます。



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