先日、京都の歌舞練場でしていた草間彌生「永遠の南瓜展」に行ってきました。
入り口のところにあった大きなカボチャ彫刻を見て思いました。
「背景に馴染んでいる!」
彼女の作品は異質感満載なので、ものすごく目立ちます。
が、自己主張しているようで、まったくしていない。
自然のものがそこに在るように座しています。
野外に設置されてる彫刻作品の多くは作家の意図や主張が感じられ、
風景に溶け込まない違和感のあるものが多いと感じてました。
パブリックアートとなると、室内展覧会の作品とは違い、
街中の日常の中にある風景の一つとなります。
建物や自然物、人などに混ざって、ずっとそこに存在し続けます。
けれども、そこだけ切り取られた空間のように設置されていることがよくあります。
あたかも人が作った「彫刻」あるいは「立体造形」がそこにあるって感じです。
そういう意図のもとに作られているなら、それは成功しています。
が、見る側としてはそんなに心地よくない。
サティが『家具の音楽』と言ったもの。
音楽が音楽たらしくあるのではなく、
日常の中に溶け込んで、家具のようにさりげなくある音楽。
草間彌生の作品は、日本家屋にすごく溶け込んでいました。
『黄樹』という作品の説明でこんな文章がありました。
彼女の見続けた幻覚は本当は幻覚ではなく、
この世界の本来の状態に近いと私は思います。
しかしあまりにもパワフルすぎて、
彼女の自我はその中に埋没してしまわないために、
その世界を自分にとって客観的な対象物にするために表現を続けたのでしょう。
この世界は、私たちの自我が自己消滅しないために、
作り上げられてきたんだなと思いました。
自我が必死で一線を保っている世界。
理性のタガが外れたら、ある一線を越えたら、
自我崩壊してしまう恐怖と、そうなることへの憧れと快感。
私たちは自我消滅しないために理性を保っています。
最近、人を次々に殺す、食べる、八つ裂きにするという残酷描写や、
精神崩壊の手前の極限状態の描写のある映画やアニメをよく目にします。
異世界系やゾンビ系にしても、
自我を超えたい、消滅させたい、全体に戻りたい、
でも自我を保ちたい、という葛藤と郷愁と憧れが入り混じってるように思います。
『遂に私は自己消滅し、永遠の時と無限の空間の絶対の中に回帰し、還元されてしまう。』
この感覚ですね。
これはいつも起こっています。
けれどもものすごいスピードで循環しているので、私たちは気づきません。
自我はここに恐怖と快楽の両方を感じます。
それが歪んだ方向に向かうと殺戮の快楽になるし、
良い方向に向かうと悟りやアートになります。
ほとんどの人が全体意識を忘れ、分離された自我を自分だと信じ込んでいます。
自我放棄して全体に戻りたいと願いながら、
自我は自我から離れることを恐れ、自分はここにいると叫び続けます。
草間彌生さんの作品が独特で目立つわりには、
背景に溶け込んでしまえるのはそこに自己主張、自我がないから。
彼女は自分の内的世界を表現しているだけなので、
そこには彼女はいない。
その作品全体が彼女自身だから、
あえて意図や自己主張を込める必要がありません。
水の中にいる魚が水があることに気づかないように、
呼吸をしているのに空気の存在を忘れている私たちのように。
彼女が観ている世界は常にそこにありながら、
自我がその境界をクローズしている人たちには気づきにくい世界です。
goo国語辞書によると、
「正気(しょうき)」は、正常な心、確かな意識。
「正気(せいき)」は、
1. 天地間に存在するという、物事の根本をなす気。
2. 2 正しい気風・気性。
現代社会に適合している人が正気ではなく、
「天地間に存在するという、物事の根本をなす気」を観て、
「正しい気風・気性」を保ち、「正常な心、確かな意識」を持つ人が
正気な人なのでしょう。
現代社会で正気を保って過ごせている人は一風変わった人に見えるかもしれませんね。
これに気づかず、生きている人が多いですから。
この基準が変われば、生き方も変わっていきます。
以前、東京で見た草間彌生さんの展覧会の時はこのようなことは感じませんでした。
設置の仕方により、印象が違うのでしょうか?
京都の歌舞練場には異様なほど馴染んでいた彼女の作品でした。
歌舞練場は、芸妓・舞妓さんたちが活躍したり、練習した場です。
そういう背景も、自我の繰り返される消滅と生成というテーマにあっていたのでしょう。
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入り口のところにあった大きなカボチャ彫刻を見て思いました。
「背景に馴染んでいる!」
彼女の作品は異質感満載なので、ものすごく目立ちます。
が、自己主張しているようで、まったくしていない。
自然のものがそこに在るように座しています。
野外に設置されてる彫刻作品の多くは作家の意図や主張が感じられ、
風景に溶け込まない違和感のあるものが多いと感じてました。
パブリックアートとなると、室内展覧会の作品とは違い、
街中の日常の中にある風景の一つとなります。
建物や自然物、人などに混ざって、ずっとそこに存在し続けます。
けれども、そこだけ切り取られた空間のように設置されていることがよくあります。
あたかも人が作った「彫刻」あるいは「立体造形」がそこにあるって感じです。
そういう意図のもとに作られているなら、それは成功しています。
が、見る側としてはそんなに心地よくない。
サティが『家具の音楽』と言ったもの。
音楽が音楽たらしくあるのではなく、
日常の中に溶け込んで、家具のようにさりげなくある音楽。
草間彌生の作品は、日本家屋にすごく溶け込んでいました。
『黄樹』という作品の説明でこんな文章がありました。
草間は抑圧的な社会と同じように恐れたのが、幼少期から頻繁に目にして戦ってきた幻覚や強迫観念でした。「ある日、一面に、窓ガラスにも柱にも同じ赤い花の形が張りついている。部屋中、体中、全宇宙を埋め尽くされて、遂に私は自己消滅し、永遠の時と無限の空間の絶対の中に回帰し、還元されてしまう。これは幻ではなく現実だ。私は驚愕した。ここから逃げなくては赤い花の呪詛にかけられて生を奪われてしまう。」(わが魂の遍歴と戦い『芸術新潮』1961年)
こう語るように、草間は自分を絶対の中に還元し、消滅させようとする宇宙的な存在を、自らが絵画として再構成することで、自分の生命の永遠の居場所を作り上げてきました。その宇宙を構成する要素が水玉(ドット)でした。ドットにより、構成され、無限の空間が描かれた黄樹は、自らを解放する重要な芸術装置の一つだと考えられます。
彼女の見続けた幻覚は本当は幻覚ではなく、
この世界の本来の状態に近いと私は思います。
しかしあまりにもパワフルすぎて、
彼女の自我はその中に埋没してしまわないために、
その世界を自分にとって客観的な対象物にするために表現を続けたのでしょう。
この世界は、私たちの自我が自己消滅しないために、
作り上げられてきたんだなと思いました。
自我が必死で一線を保っている世界。
理性のタガが外れたら、ある一線を越えたら、
自我崩壊してしまう恐怖と、そうなることへの憧れと快感。
私たちは自我消滅しないために理性を保っています。
最近、人を次々に殺す、食べる、八つ裂きにするという残酷描写や、
精神崩壊の手前の極限状態の描写のある映画やアニメをよく目にします。
異世界系やゾンビ系にしても、
自我を超えたい、消滅させたい、全体に戻りたい、
でも自我を保ちたい、という葛藤と郷愁と憧れが入り混じってるように思います。
『遂に私は自己消滅し、永遠の時と無限の空間の絶対の中に回帰し、還元されてしまう。』
この感覚ですね。
これはいつも起こっています。
けれどもものすごいスピードで循環しているので、私たちは気づきません。
自我はここに恐怖と快楽の両方を感じます。
それが歪んだ方向に向かうと殺戮の快楽になるし、
良い方向に向かうと悟りやアートになります。
ほとんどの人が全体意識を忘れ、分離された自我を自分だと信じ込んでいます。
自我放棄して全体に戻りたいと願いながら、
自我は自我から離れることを恐れ、自分はここにいると叫び続けます。
草間彌生さんの作品が独特で目立つわりには、
背景に溶け込んでしまえるのはそこに自己主張、自我がないから。
彼女は自分の内的世界を表現しているだけなので、
そこには彼女はいない。
その作品全体が彼女自身だから、
あえて意図や自己主張を込める必要がありません。
水の中にいる魚が水があることに気づかないように、
呼吸をしているのに空気の存在を忘れている私たちのように。
彼女が観ている世界は常にそこにありながら、
自我がその境界をクローズしている人たちには気づきにくい世界です。
goo国語辞書によると、
「正気(しょうき)」は、正常な心、確かな意識。
「正気(せいき)」は、
1. 天地間に存在するという、物事の根本をなす気。
2. 2 正しい気風・気性。
現代社会に適合している人が正気ではなく、
「天地間に存在するという、物事の根本をなす気」を観て、
「正しい気風・気性」を保ち、「正常な心、確かな意識」を持つ人が
正気な人なのでしょう。
現代社会で正気を保って過ごせている人は一風変わった人に見えるかもしれませんね。
これに気づかず、生きている人が多いですから。
この基準が変われば、生き方も変わっていきます。
以前、東京で見た草間彌生さんの展覧会の時はこのようなことは感じませんでした。
設置の仕方により、印象が違うのでしょうか?
京都の歌舞練場には異様なほど馴染んでいた彼女の作品でした。
歌舞練場は、芸妓・舞妓さんたちが活躍したり、練習した場です。
そういう背景も、自我の繰り返される消滅と生成というテーマにあっていたのでしょう。
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