いのちおりblog - 本来の自分に還るために

人生をよりクリエイティブに生きたいあなたに贈る
   悦月(えつき)のブログ(旧ブログタイトル:たまむすひ)
                                    

カテゴリ: 人生、生き方

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現在、ホームページが見れなくなっているようです。
私のパソコンでは見れないけど、スマホでは見れるのですが。
メールも届いていないと思いますので、なにかあれば、ツイッターか、フェイスブックのメールにてご連絡ください。数日内で戻るとは思いますが、ご迷惑おかけします。

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この動画を見て恐いなーと思った。



建物が画一的になり、どの町も似たような様相になり、学校では社会に適応するように教育され、良い大学、職に就くことが幸せだからと競争社会に組み入れられ、大量生産で作られた物を使い、合理化と利益だけを考えられた食べ物を食べて、毎日テレビを見て洗脳され、ただひたすら生きながらえている。
すなわち家畜化。

私たち自身も機械的に飼育され,殺されていく家畜とそう変わりがない。

以前はそこからはみ出る人は異端視,問題視されがちだったが、今は違う。
だんだんと無思考、無感覚になっていた自分に気づいて、規格化された生き方から出ようとする人が増えている。

機械的な世界に住みながらも、私たちは心の中に素晴らしい世界を創造できる。
それを忘れないようにしたい。




私たちはすでにその素晴らしい世界に住んでいるかのごとくふるまうことができる。
それも忘れないようにしたい。


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メリークリスマス!
慈悲と慈愛が満ちあふれますように☆



まず あなたが、愛してください。

あなた自身と、
人がこの村に生きているということを。

もしもたくさんの私たちが
この地球と自分自身をもっと愛することを知ったなら

きっと間にあいます。


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最近、天皇の話が多くなってますが、高尾山の精進懐石の会を主催してくださるゆみさんのブログに的を得た話が書かれていましたので、一部転載!


私にとって、というか
古来の日本人
本来の日本の在り方において

天皇は
自然ないのちの親様であり

形式的なことではなく
日本人の細胞の奥深くに息づく
DNAであり…


無私のみこころで
世界の平和を祈ることを
いのちがけて為されている
その生き様が
その祈りが

わたしたちを影で
どんなにか
支えてくださっているかを…
私の細胞は思い出したので

奇跡、
普通ありえないだろ!と
思われるようなコトが
いとも容易く起きたのですよね〜
(^_^)
と思いました。
マントラと同じよね、って。


私は恩師から聞いて知ったけど
今時代は
まさにその方向へと
流れ出しているようですね


本来の天皇の在り方
日本が
日本人が
本当の姿に目覚めるとき

きっと
わたしたちひとりひとりの
細胞が目覚めて
とてつもないパワーになって

それが全世界へ
地球へ
宇宙へと

同時に拡がってゆくのだろうな、と…
私は信じています
(^_^)


でもそれは
特別なことではなく
普通の道です。
目立つことでなくてもいいこと。


みんなが
それぞれの持ち場で
自分軸で
生かされている感謝に気付けば
いいだけのことで

比叡山チックに言うなら
一隅を照らすこと、だし

自分の周り
ご縁
持ち場(役割)だけに
安心して

受け切って
生かされればいいダケの道でもある。


華々しいことは
案外エゴの声だったりもするので

そういう役割の方もいるかもだけど
比べなくていいことなのですよね〜
(^_^)

   


そういうことなんだろうなと思います。


高尾山の精進懐石の会 満席近し!


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前回からの続きです。

誤解のないように書いておきますが、

『神々しい神様と感応してエクスタシーを感じるのも、大量殺人を犯してエクスタシーを感じるのもその純粋な体感覚は同じものであるだろう』といってもいろんな感じ方があるので一概に言えません。

例えば、ひれ伏して頭も上げられないような畏れ多い大きなエネルギー(存在)に出会ったときは、ただもう頭を下げて、自分の卑小さや傲慢さを省みて、ごめんなさいごめんなさいという感じです。

とても神聖なエネルギーに出会ったときは、しんと静かにそこに座し、清々しい気持ちになるでしょう。
慈愛のエネルギーは許された感覚を得て、自然と涙があふれてくるかもしれません。

でもこれらの感覚は、あるものに接して生じた反応としての感覚だからちょっと違うかな?と書いてみて思ったりもしますが、こういう感覚と殺人のエクスタシーの感覚は全然違うでしょう。

殺人を犯して優越感に浸るとか、残酷感を楽しむとかいうのも今言っている感覚とは違います。


今回のは、理性で考えても解決法がない、不条理、非現実的、超現実的なことなど、自分の力ではどうしようもないことに出会った時、常識の一線を越えた(越えそうな)時の感覚かもしれません。

殺人を犯している時に神に遇ったような感覚を得るとしたらそういうことかな?

映画で,そういう風なシーンに荘厳な神を感じさせるようなクラシック音楽が流れたりするのは私たちの中にそういう感覚があるからだと思います。


今まではそのような感覚は神の領域となるか、鬼やタブーの領域となるかだったと思います。
どちらにしろ通常の人間の領域ではないんですが、もともとこれらはひとつで、分けたのは人間なんだろうなと思います。


ここ数年の流れで、自我(エゴ)支配からの解放というのが一つのテーマになっていました。
なので、「手放す」「浄化」「脱洗脳」「本当の自分」などいわれてきました。

エゴの恐れにとらわれた自分から自由になったとしても、それはあくまで自我の許容範囲内。
エゴから自由になったつもりでいたけど、なんだ、まだ自我の領域内なんだね。
(私の勝手な区別で、エゴは「小さい頃から自分だと思っている顕在意識の部分」で、自我は「個としての自分を認識している自分」という感じです。心理学的に用語があるんでしょうけど)

エゴ支配から解放された自分は心理的には「本当の自分」というかたちでいいんだろうけど、それはまだ表面的なんだなーどわかりました。

実生活を営む分、それぐらいの段階でとまっているほうが楽だし、幸せだし、楽しいと思います。

今までの自我崩壊はしがみついていたものを手放す作業で、手放したところでまだ地に足がついています。

今度は、自我意識がゼロになった領域でもまだ保っている一線、つまり自分の存在や正気を保っている一線を越えて、また新しい自我を形成するという感じでしょうか?

これは今までよりはるかに大きな意識のシフトだなと思いますが、そこに向かうのは一部の人間だけでしょう。かなり境界ですからね。

その人が優れているとか、選ばれたとかいうんではなく、ただその人がそれを望んでいるかどうかというところだと思います。

一握りの人が実感としてその領域を体験することにより、集合意識に変化が起き、全体がもう一つ統合に向かい、変化し始めると思います。

人が悟りや覚醒と言う時、どういう段階を指しているのかはわかりませんが、私自身はまだまだ悟ってもいないし、覚醒してもいないなあと思いました。

やっとこういう段階にこれたと気づいたことで、意識の世界の果てしなさを感じることができました。(でもだいぶん前に「和音」でこういう話出てたんだよね。ブログ記事にもしたけど、どこだったかなあ?)

常識的な自我と論理は介入できない。
前に書いてた「うしろの世界」と私が呼ぶものなんだけど、やっと実感できるぐらいに迫ってきたんだなーと思います。

まあ、私の意識が私の好みと成長に合わせて、そういう流れを作ってくれているというだけなのかもしれませんから、そう思うとこれも自分が作り出しているんだなーと思います。

自分が作り出しているからその世界が現れてくると思うと、自分自身も無限だなあと思います。

  

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前回の話の続きです。

映画の「R100」を見たというところまで書きました。

この映画は酷評されているそうですが、映画としてはともかく、私は松本人志氏がこの映画の中で試みていることを評価したいなと思います。

この映画は精神的にドキドキさせられます。

ごく普通の日常生活のくり返しから、とりかえしのつかないタブーの一線を越えるか越えないかというあたりのハラハラドキドキ感と怖さを主人公とともに感じます。

だんだんと出来事はエスカレートしていき、主人公は最後には一線をすっかり越え、境地に達して非現実が現実になってしまいます。


自我がタブーの一線を越えてしまえば、とてつもない恐怖はとてつもない快感に変わる可能性があります。

そうなれる人となれない人がいると思います。
その違いは何かというと、その部分に対する興味と好みの違いかなと思います。

なれない人は自我崩壊して気がふれてしまうか、悔い改めて社会的に罪を償う方向にいくでしょう。


私の見た夢もこれらの映画もその一線の際を表現しているところがあるなあと思いました。

また最近の傾向で、行き着くところまでいきたいんだろうか?と思われる表現が少なくないようにも思います。
人間の想像しうる極限を体験したいかのように。

人間は飽くなき欲望を持っている動物なのだと思います。


夢での体感が一番強いのですが、先日の白山登拝もけっこう体感的にその部分揺さぶられてました。
こうも立て続けにエグいものやタブーの境界を体験するのはなるほど白山の影響が来てるなーとR100の映画を観てから思いました。

いつぞやのネコがスズメを捕まえてバリバリと食べてしまった話は序章だったのかもしれません。
あのネコはうしろの世界からの使者ですからねー(笑)

私が今関わっている白山のパートはタブーと関係ある部分なので。

エグさの話ではなく、これらが私に示してきたのは、崇高な神聖なる境地も、タブーの一線を越えた境地もその感覚は同じものであるということだと思います。

ここに性と聖の話がつながっていくのですが。


簡単にいえば、神々しい神様と感応してエクスタシーを感じるのも、大量殺人を犯してエクスタシーを感じるのもその純粋な体感覚は同じものであるだろうということ。

ただ、殺人を犯してエクスタシーを感じるときはすでにエゴの恐怖は通り越してないといけないです。

でないと、警察につかまったらどうしよう?とか、人を殺した罪悪感などに苛まされますので、その段階はまだ現実を突き抜けてませんからエクスタシーは感じられません。


非日常的、非現実的、理性の限界を超えるもの。

タブーの極地と聖の極地は、思考を超えたところにある感覚という意味では同じものの裏表なのだと思います。


ということで、また次回に。


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東京都内でのセッションが10/28にあります。
17:30 〜で残り1名様です。

お申し込みはこちらから〜。

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

やっとこさ、先日白山に登ってきました。
15日が山の上の山荘の閉山最終日でしたので、ぎりぎりとなりました。

今回は美濃禅定道を行くことに意味があったので、別山経由で行ってきました。
白山に関してはいろんなことが深くつながっていて、それをどう文章化していけばいいかわかりませんが、大きな転換期ですので、書けるところから書いていきたいと思います。

その前に、先日エグい夢を見ました。
わざわざ載せるので、そういうものが嫌いな人は飛ばして読んでください。

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9日朝、夢を見た。

横断歩道で知人3人と信号が変わるのを待っていると,変なおじさんがやってきてからんできた。無視していると、落ちてたガラスボトルを手にもって割った。

殴れるかも!と思ったら、おじさんはそのボトルの割れた側を口に入れたんで、「ウワー、口切れるで〜」と思ったけど、信号が変わったので渡り出したら、知人らが「からまれたら大変だ」と走って逃げ出したので私も逃げる。

近くの大きなショップに入り、2階に上がっていくと停電となり、真っ暗になる。
全く何も見えなくて、知人らもどこへやら。
あまり動かないほうがいいかな?と、変なおじさんに見つからないことを祈りながら、そこらでじっとしているとそのうちライトがついた。

私は1階のホールが見える階段の踊り場にいたのだけれど、ホールで女の子が人を刺してぐりぐりしている。

すぐ近くにも一人倒れていて、どんどんと血が流れている。
すると一人の女の子がそこへ行って寝転んでゴロゴロ転がるので、そこら中が血の海になり、彼女は全身血だらけになって喜んでいる。

「さっきのおじさんより壮絶だな」と思ったところで目が覚めた。

今も映像でしっかりと覚えていますが、恐怖や気持ち悪さはなく、感情も揺れず、私はけっこうクールでした。
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で、その翌日10日に半日がかりで石徹白まで行って一泊して、白山に向けての登山となりました。

この夢を見る少し前に「エリジウム」を観ましたが、こちらもなんであそこまでエグい描写をしなければならないのだろうか?と思いました。

エンターテインなのか、極端を演出することで何かを感じてほしいのか?


夢を見た翌日、白山に登りましたので、血まみれの壮絶な感覚は残っていました。
今回は濃霧と風と小雨の中を歩き、この天候では精神力が要されるなーと思いましたが、登山の話はまた後日に。


そして「凶悪」の映画を見ました。
これは実話に基づいた話だそうです。

これも残酷なシーンや人殺しを何とも思わない人たちがでてきますが、問題提起している内容はおもしろいと思います。

でも正直いって、答えがない。

人それぞれいろんな意見があると思いますが、「これが正しい」と言えるものがないというのが私の見解。
どんなに考えても普遍の真理なんてないという気がしました。


「あのような凶悪人は死刑にすべきだ」を正しいと思う時、その人の中にある「誰かを(死刑という名において)殺そう」という気持ちは殺人者のそれと大差ないかもしれない。

本人にとっては善や正義という名のもとにあるものかもしれないけど、殺人者にとってもそのときは自分の価値観による何らかの基準において成されているでしょう。

死刑にされるべき極悪人が牢獄で生きる希望を持ち始め、改心し始めると(ふりかもしれないが)、人々の中には「心を改め始めたんだから」と生きる道を与えようとするかもしれません。

でも被害者の家族などは「なぜあいつが死刑にならないんだ?」と思うでしょう。

これらのことは相手のことや正義の制裁をいっているようで、実は自分自身の悪や弱さを見たくないだけだったり、投影していたりしているかもしれません。

デリケートな問題なので、考えれば考えるほど袋小路に入っていくようで、正しい答えなどないように思います。


放射性物質に苦しめられている人たちも理不尽以外のなにものでもないと思います。
普通に暮らしていて突然の被害を被って。自分たちは何も悪くないのだから。
原発マネーで潤ったというところはあるかもしれないけど。


世の中の数々の理不尽なこと、不条理なこと、それらはどうしようもなく、答えもなく、解決法もなく、、、。

自分の観た血まみれの夢と相まって、そのどうしようもなく不条理で理不尽で無力で、理性では解決できない、どうするすべもない感覚をしばらく感じていました。

そういう感覚に陥ったときは、なんの判断もせずにすべてをそのまま受け入れて達観するしかないと思いました。

自分ではどうしようもない。
いくら考えても答えがない、解決法がない袋小路。

それについて一生をかけて取り組んでみることもできるけど、多分答えはない。

それを判断しようとしているのは理性をもったエゴですから、もうそういうところを脱して達観してしまえば,善悪の判断もなく、そのままあるがままを受け入れることができ、かつそれにとらわれずにすみます。

一歩まちがえれば、逃げのように見えるかもしれませんが、ここでは善悪や正義を問いたいのではなく、タブーを超えた時に何が起きるか?というところの話なんだと思います。


なんて思って、次に観たのが「R100」。
松本人志さんの映画を観たのは初めてですが、この人はすごいなーと思いました。


続く、、、


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東京都内でのセッション、10月28日です。
お申し込みはこちらから!


昨日の記事についてですが、一番言いたかったことが書けてないことに気づきました。

私が一番言いたかったことは、観念や価値観が変わると常識も変わるってことかな。


今の時代は、すでに正論となっているものに照らし合わせて、それに合っているかいないかで真実か否かが決められていることが多いように思います。
これはすでに認められている情報をもとに判断しています。


中世はあらゆる人が異界や神仏の世界とつながれると思われていた時代だったらしいので、そうなると、基準は「あらゆる人が異界と交流できる」ということだったようです。

だから個々人が内的世界につながっておろしてくる情報はすべてオーケー。

正しいかどうか照合する基準などなく、その人にとってはすべて真実だったというレベルで受け入れられていたようです。

私はその本に書いてあった文章で「そんな時代だったんだー」と想像しているから、けっこう勝手な解釈で、これが本当かどうかは知りませんけど。


すでに事実とされていることを基準にするのか、
個々人が事実だと思うことがそれぞれの基準となるのか。


後者の場合はたくさんの現実が現れてくるわけですが、本人が体験したこと(夢の中やイメージかもしれないけど)はその人にとっては事実であると尊重する姿勢なわけです。


ここで「事実、現実」の尺度が違ってきます。

過去のデータから導き出されたものによって判断されるか、
個人の主観的判断によるか。

個人の主観的判断が社会的に認められているのであれば、精神障害の人たちが見る幻想、幻聴なども「その人にとっては現実である」と受け入れられていたのか、あるいは教祖様になっていたのかも〜〜〜。

現代では、頭がおかしいとか気が狂っているとか言われかねませんが。


どこに判断基準をおくかで全然違ってきます。

そういう基準は危ないと言えば危ないですが、そういうことが中世は社会的に受け入れられて、まかりとおっていたということが新鮮な驚きでした。


ところで、その本を読んで疑問に思ったことは、正史といわれている?「記紀」が当時の権力者の藤原家によって一方的に書かれているそうですが、だれもそのことには言及していなかったところ。

古史古伝が偽書かどうかと話す以前に、記紀自体が偽書ともいえるのではないか?と思ったんですが。
私は「記紀」がどんな話か知らないんで勝手な憶測で書いていますけど、正論とされているものに基準をおけば、それとずれるものは偽書なわけで。

誰もそれを書かないのもまた歴史を物語っているのかなーと思いました。


昔、西洋人が布教で未開国に行ったとき、現地の人たちを野蛮人とみなしたのも同じようなことですね。
自分らの基準でまわりを判断していたのですから。

でも実際は、西洋人よりはるかに高度の精神世界を形成していた民族も少なくなかったわけです。


刷り込みや洗脳の話を前に書いたかもしれないけど(メルマガだったかな?)、こういう自動思考は気をつけたいです。
私たちも日常的にたくさんしているはずですから。


まあ、それはともかく、、、

史実に基づくことが正しいと言われる時代はそれに合致しないものは偽書とされますが、みんなが異界とつながれることが事実だと思われた時代は、どんなストーリーも受け入れられたというのがおもしろいと思います。

前提となる価値観なり世界観の違いで、接し方や受けとり方が全然違ってきますね。


今まさに時代的にもそういうところにいると思います。

今まで正しいと思われてきたことが実は、、、そうじゃなかったかも〜〜?

ある考え、概念、思想を礎として築かれてきた学問、とくにアカデミックなフィールドでは、何十年も研究してきたことの基盤となるところがもしかして違ってたかも〜?なんてことがあったら、権威ある研究者の方々はたいへんですね。

正直に自分の説はある仮定からまちがっていたと言える人は立派ですが、なかなか勇気いることでしょう。たいていの方は必死で自分の説を正当化しようとして事実をゆがめてしまうかも?です。

311以降、そういうこと、見え隠れしてますね。


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昨日はネコがスズメを捕まえる瞬間に遭遇し、そのあとの経過を最後まで見ることになりました。
それでいろいろと思うところがありました。

捕らわれた雀はかわいそうではありますが、自然の中で起こっていることなので、ここで私が「生き物は殺しちゃダメだよ」なんて人間的思考を持ち込んでとりあげるのもなんなので、そのままにしておきました。
このところは意見の分かれるところかもしれませんが。

ネコにくわえらえたスズメはまだ生きていましたので、ネコがじゃれて遊んで、だんだんと死んで行く様をみました。
すでに急所をやられたのか、ショックでか、あんまりバタバタはしませんでしたが、弱々しく息をしていたりぴくぴく動いたりするのを見ていると胸が痛みます。


なんだかんだときれいごとを言ったところでこれが現実というものなんだよなーと思いました。

ここにいろんな考えを持ち込むのは人間です。

これを残酷だ、野蛮だと思い、スズメを助けようとするのは、先住民の地を奪って自らの「洗練」された文明を押し付けた文明人の奢りのようにも感じました。

また、傷つく者を見殺しにする冷酷な人間のようにも感じたし、無差別殺人をする人のことを思ったり。


死んでいくスズメは「見殺しにするのか?助けてくれ」と思っていたかもしれないし、なにも感じていなかったかもしれないし、そうなることを受け入れてたかもしれません。それは知る由もありません。

ネコにしてみれば、獲物を捕ってご満悦でしょう。
かわいそうとは考えないと思います。

また、私もいつこのスズメのようになるかわからないよねとも思い、その時に何を想うかなあと考えたり。

現実ではこのようなことはいつでも起こっています。
理不尽,不条理なこともたくさんありますので、そのことにまた思いを馳せたり。


瀕死のスズメとじゃれているネコを写真にとろうとカメラを向けた時は、スズメから非難の声を聴いたように感じて自分が恥ずかしくなりました。

交通事故や事件があった時に相手の気持ちを考えずにカメラを向ける人たちと同じだーと思いました。
悪く言えば、殺人現場に居合わせて、助けず写真をとろうとしたのですから。


胸が痛くなりながらも、ネコがスズメと遊ぶのをしばらく見ながら、スズメさんが早く息絶えるように、血肉があんまり出ないようにと願いました。

そのうちスズメも息絶えたのでしょう。

動かなくなったスズメに飽きたのか、ネコがおもむろにバリバリとスズメを食べ始めました。

ネコはいたぶって食べずに放っておくと思っていたし、羽があってあまり食べれないだろうなと思っていたのですが、羽を避けて食べるだろうというのは私の先入観だったらしく、羽ごとバリバリと食べていきます。

うわー!と思っているうちに胴体も足も羽も食べて、最後は頭も全部食べちゃいました。
足もなく、残ったのは羽根数枚が散らばっている状態。血も落ちてません。

まさか全部丸ごと食べるとは!と驚いたんですが、ヘンな話、ネコが全部食べたことで私はちょっとほっとしたんですね。

なぜかスズメもこれで報われたなーと思ったのです。

それまでに感じていた獲物を捕る,殺して食べる、弱肉強食という感覚が失せて、自然の循環の中のサイクルの一コマになったような、食べられたというより同化したという感覚。

弱肉強食という言い方をしますが、実際はそうではなく、食べつ食べられの連鎖の中でいのちは受け継がれていくんだなーと思いました。


さっきまで形あったものが今はネコの腹の中か、、とけっこう衝撃的なシーンだったなーと思っていましたら、しばらくしてネコが突然ゲホゲホしたかと思うと、先ほど食べたスズメを一気にゲゲーッと吐き出しました。

ネコはあまり噛まずに呑み込むので消化能力が高いんだろうなと思っていましたが、出てきたものはもはやスズメの形はなく、それなりに内臓らしきものはありますが、固形物の残っている消化不良のゲロみたいになってました。

さっき丸ごと食べたスズメの頭もすでにかたちなく、、、。


自然の営みとはすごいなーと思いましたが、少し前までスズメであったものがもはやゲロと化して目の前に落ちています。

スズメの形が残っていれば、かわいそうにと感じたかもしれませんが、ゲロを前にしてはその気持ちもなく、これ、片付けるか、いやだな、、、という気持ち。

ネコが吐き出した「生もの」は庭で虫や微生物に食べてもらうことにしました。
その後、大雨が降ったのでもうなくなっているでしょう。


最後はちょっと不思議な感覚だったのですが、視覚的には、スズメとして形あったものがネコの体内に消えていったのち、不完全消化ゲロと化して庭の土に置かれたという現実です。

スズメのエネルギーはどこにいったんだろう?と思いました。
「スズメのエネルギーって?」と思うんですが、スズメという存在がネコの中に入り,出て、土に消えたわけですが、「スズメがいた」という事実は私の記憶の中に残っています。

物質としての形はそのように変化したわけですが、エネルギーとしてのスズメはなくなったわけでなく、変化しただけなんだなと思いました。
どこにどのように変化したかはわからないですが、多分、ネコに取り込まれたんじゃないかな?という気がします。

そういう意味では、ネコの中で生きているということになるかもしれません。

以前もそばの話のところで書きましたが、食するということの本質はそうなのかな?と思ったりもします。

が、そんなことを考えるのも人間の勝手であり、ネコもスズメもただ「その時を生きた」ということなんだろうなと思います。


ネコを見ているとすごく思うのですが、実に今を生きているなあと思います。
持ち物も着るものもなく、その日暮らしで食べ物を得て、あとは気ままに寝ている毎日。

明日食べ物がなかったらどうしよう?と考えているようにはみえません。
スズメも同じです。

今をそのまま生きています。

地球上では実は人間が一番悟ってないかもしれないなーと思います。


ネコがスズメを丸ごと食べる光景は初めてでしたので、しばらく印象に残っていましたが、これがスズメだったから私はそのままにしたんだろうなと思いました。

例えば、人間の赤ちゃんであれば、即、助けたでしょう。
子ネコであっても多分、引き離したと思います。

けれどもスズメはそのまま食べられるままにしました、、、。
以前、蝶、バッタ、セミと捕まえてきたことありましたが、その時も心傷みましたが、私は何もしませんでした。
ネズミでもそのまま放っていたでしょうね。イタチやらヘビもそうかなあ?

これは差別ではないかな?と考えました。
自分の中の基準値があり、これはOK、これはダメというのがあります。

いのちの価値としてみれば同じことなんだけど。

なんて思っていると、私の頭の中に支配者層と一般人の構図が現れてきます。

一部の支配者層の人たちが「人口が増え過ぎだから減らしましょう」といろいろと動いているというのは本当なんだなと最近実感していたのですが、スズメは食べられてよくて人の赤ちゃんはダメというのも基本、同じ構図だよねと思いました。

すべて自分の中にあるんだなーと思いました。
自分の中でその折り合いがついて解決策が出てくると、自分が見ている社会も変わっていくんだろうなと思います。


実際はネコがスズメを捕まえて食べたという行程を見ただけなんですが、その間、実にいろんなことをいろんな角度から見ている自分がいるなあと感じました。

リンクさせているんですよね、目の前の出来事と自分の経験知と。

そして、あ、自分の中のこの考えはこの視点から見てるぞ、あ、これはこちらだという風に、違う立場からの視点で見ている自分に何度も気づきました。

現実社会で自分が見ているものはすべて自分の中にその縮図があるんだなあと再認識。
でも普段気づいてない場合がほとんどだと思います。


また、子どもたちに見せたい光景だと思いました。

残酷といえば残酷かもしれないですが、これを見たそれぞれがいろんなことを考えるでしょうから、とてもいい勉強になると思います。
ここにこれが正しいという答えはないと思いますけど。


また、この行程を見ながら、人間が肉をお店で買って料理して食べたいのなら、一度は屠殺を経験すべきじゃないかなと思いました。これは以前から思っていることなんですが。

自分で捕まえて殺して食べるという経験。

それを体験してみると、いのちの大切さや生きるということがもっと深くわかってくるんだろうなと思います。



余談ですが、なんでこういう光景に出くわしたんだろうと思いましたが、その日のうちにつながる出来事がありました。

それは白山、穢多非人、瀬織津姫の話につながっていくのですが、今日3つの偶然が重なり、どれもが同じことをいっていました。

これがまたこれからの日本に大きく関わっていくことになるだろうなと。
タブーがくつがえされる日もそう遠くない気がします。
死と生と性と天皇と。


そして、これを書き上げておもむろに取り出した本。
この日、図書館から借りてきた本です。
それを読み始めると、浜辺で死んでいる鳥を見つけたが、突然、少年が現れ、その鳥を生き返らせて飛ばせたという出だしでした、、、。

きっと今日のスズメも肉体から自由になって飛んでいったのでしょう、、と思うことにします。

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7月のメッセージで、「停滞している人は7月の前半に行動するように」と書きました。
停滞したまま何もしないでいると、ずるずると停滞モードのタイムライン上に行ってしまいますよという話もありした。

そしてもう8月となりました。

メッセージを読んだ人の中には、「前半に行動ができなかった」「まだ停滞中だけど、もう遅いのか?」と不安を感じている方もいらっしゃるようです。

毎月のメッセージはあくまでもそれを読んでくださる方々への指針みたいなものですから信じる必要はないです。
人それぞれの状況がありますから、当てはまる人もいれば当てはまらない人もいるでしょう。

なんて書いてしまうと、身もふたもないですけど、、、。

私が書いていることにふりまわされないようにしてください。


不安を感じている人は自問自答してください。

あなたは本当に何もしなかったのか?
あなたは本当に乗り遅れてしまったのか?


よくよく考えてみてください。

これを決めるのは誰ですか?

私(悦月)ではないですよね。


それはあなたです。

あなた自身が「何もしなかった」「停滞している」「動いていない」と思っているんです。

なかには、私から見て十分に行動しているじゃないか?と思う人もいますが、思いきったことや大きなことをしていないので、自分では行動していないと不安になっておられるようです。


行動したか、しなかったか?を決めているのは自分ですよ。
主観なんですね。

自分が「行動した,大丈夫」と思うのならそうでしょう。
それで物事が何も変わっていないとしてもそれでいいのです。

「停滞したまま」と思う人は、「停滞したままでどうしよう?」「乗り遅れたかしら?」と不安に思うのではなく、「今、なにをすればいいのか?」「どうなりたいのか?」と考えるか、何も気にせず過ごすか、、、。

「今の自分が何に向かっているか?」に気をつけてください。
気に入らない方向に向かっていると思うならすぐに方向転換して、どういう方向に行きたいのか選んでください。

また、自分にどんな質問を投げかけているのか?を常に意識するようにしましょう。


「停滞したままでどうしよう?」「乗り遅れたかしら?」は、できてない自分がいることが前提になっています。

でももしかしてあなたは仕事に行ったかもしれない、夕飯の支度をしたかもしれない、犬の散歩に行ったかもしれない、、、なにかしら行動を起こしています。

いつもしていないことをする、やろうと思ってしていないことをすること、これがそんなに難しいことかというとそんなことないです。

大きなことをしないといけないと思うから動けないわけで、いつもは行かないお店に行ってみるとか、掃除整頓をするとか、気になっていた誰かさんにメールするとか、そういうことでもいいんです。

実際はそういうことをしているけど、何も行動していないと思い込んでいるのかもしれません。

肝心なのは、何か行動したと思えるかどうか?でしょうね。
停滞にひびを入れる行動なので、自己満足で「動いたぞ」と思えたらいいわけです。
もちろんずっとやろうと思っていていなかったことに手がつけられたらもっといいですけどね。

人の言葉に左右されるのではなく、自分が自分にどういう評価をしているのか、どういう質問を投げかけているのか?それに気づくようにしてください。

なんにも動けてない、まだまだ停滞中〜と思う人は、まず身の回りの整理整頓をして古い物を捨てるところから始めたらいいと思いますよ。


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「自分に捧げる言葉 2013 後半期メッセージ」の受付は7月31日までです!
お振込確認ができた方から準備ができ次第、順次送らせていただいています

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・

最近、ネットをあまり見ていなかったので、三宅洋平氏については2,3の動画は見てたけど、選挙が終わってからより知るようになりました。
今回はちょっと出遅れました^^; 
今頃そのすばらしさを痛感しております。

「(書き起こし)2013参院選で三宅洋平が起こした #176970票 の“伝説”たち」

書き起こしを読んで、ますますすごいなと思いました。
この人、ミュージシャンしているせいもあるのでしょうが、キャチフレーズ的な言葉を作るのがうまい!と感心しました。名言がいっぱい。これは私の興味の話だけど(笑)
わかりやすく、ぐっとくることばが実に多い。

三宅氏は、飾らない等身大のそのままの自分で、争わない和と中庸の姿勢でありながらも既存の体制には属しない。
上に立つでもなく、横に並んで話しかけてくる兄貴のようでありながらも、人を触発し、ぐいぐいひっぱっていく。

三宅氏の姿はこれからの社会のあり方と私たちの生き方を見せてくれているように思います。


30代前半までの人たちの中に、それまでの世代の人たちとはまったくメンタリティーもハートも違う人たちがいます。

長い間、私たちが抱えてきたカルマとか、罪悪感とか、自己否定とかがなくて、もうすっかりそういうところから突き抜けてしまっている人たち。

透明感を持ち、何に対しても肯定的で愛をもって接します。
といっても従来のポジティブ思考とは違っていて、魂レベルでもうカルマもネガティブな思いも背負ってないなーという人たち。

あるがままを受け入れていて,すべてに愛をもって接することができるので、それまでの年代の人たちが一生をかけて乗り越えようとしてきた罪悪感や自己否定をもうすでに超えているというか、そういうネガティブの洗礼を受けていないというか、受けたかもしれないけど、もうそういうところにいないからまったく影響を受けない人たちというか、、、。

新しい魂だなあと思います。


三宅氏がその類いの人なのかは知りませんが、彼のあり方にはそれを感じます。

選挙に興味あるなしに関係なく、彼が話していることには見習うことがいっぱい。
リンク先の最初のページの太字だけ載せても名言!
核心をぐっとついてきます。

“キッカケ”はつくりますよ
でもやるのは“皆”

「じゃあそれに対してアナタは何ができますか?」
って俺は答えるようにしてる

俺は常に最初に踊り出す人間になろうと思った

逃げるのか 逃げないのか

言葉の粋を尽くして タタカウんですよ
その先にあるのは 全員の和合 シアワセ
一つんなるために話し合うんだよね


そしてまたこの「ノマド書き起こし隊」もすばらしい。
自発的にこのようなことをしておられるらしい。

これもまたこれからの時代のかたちだなーと思う。
お金とは関係なしにやりたいからやるというスタンス。

もうお金で動く時代は終わってるんだよね、本当は。
こうやって自然に集まってかたちとなって動き出す。

そういう時代が始まっている。

3年後の選挙に向けて、千日間のクニツクリ序章のスタートだ。

そしてこれはひとりひとりの物語。
ひとりひとりが作っていく物語がお互いに交差し合い、交じり合い、
一つのクニを作っていく。

それがこれからの日本。

彼がそのビジョンを見せてくれた。

目の前に山積している問題を直視するよりは、
その新しいビジョンに向かって進むがいい。

そうするといつのまにか山積していた問題が
変化してどんどん違うものになっていく。

これは個人レベルでも同じこと。

そうなるためにはひとりひとりが自覚して動いていくがいい。
動くっていったって、日々の暮らしを目覚めて過ごしていくだけ。
なにも政治活動をしろというわけでない。

でもマジ、たくさんの人がその目覚めを得て日々を過ごしていけば、
三年後はすごい変化をしていると思う。

私はその徴候を見た、、、と思う。

これから先もまたいろいろな出来事があるだろうけど、
それをどう作っていくかは私たち次第。

まずは私たちの意識が大事。

そのために私たちが何を考え、どう過ごすかが大事。

どういう世界を作っていきたい?
どういう社会で子どもを育てたい?
どういう世界ならあなたは幸せ?

自分のことも大事だけど、
自分のことと世界のことをリンクさせ、考えるようにすると、
世界がもっとステキになる。

あなたもそれに参加しないか?

ステキなクニツクリ。
みんなで手と手をつないで作るマツリゴト。

それがこれから始まる。
私たちが作っていく世界。


なんか最後のほうは歌みたいになりましたね(笑)指が勝手に動いた。


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前回の話を書いてから、そういえば「降りていく生き方」という映画があったなあとサイトを見てみました。
私はまだこの映画を観てないですが、文章に共感しましたので、一部抜粋してここに載せておきます。

これまで日本人は、「物質的に豊かになれば幸福になる」「多くもつものが幸福である」という、カネやモノをより多く得ることを欲求の対象として生きてきた。
これは、「足していく」ことに価値を見出す、「足し算の生き方」といえよう。
しかし、物質的な豊かさの追求によって幸福を得るのが難しいのが明らかな現代社会においては、多く持ちすぎることによって、何が大切かわからなくなっているといえよう。
即ち、何を得るかではなく、「何を手放すか、捨てるか」ということこそが、いまは大事なのである。 つまり、いらないもの、無駄なものをどんどんと「引いていき」、本当に大事なものを見すえるという「引き算の生き方」こそが、何が大切か分からなくなっている現代の日本人にとって大事なのである。
豊かさを目指して国民一体となって「昇っていく」時代においては、たくさん得ることがしあわせのように思えた。 しかし、いま我々は、経済成長がピークを迎え、下り坂の時代を生きているのだ。

もう昇っていこうにも、昇るところはない。

私たちが夢見ていた世界は、本当に夢であり、幻想に過ぎなかったのだ。
私たち日本人にとっては、右肩上がりに駆け上っていく時代は終わった。もう経済成長は望むことはできないのだ。
この現実をしっかりととらえて、自然や環境に即応していくという新しい「生き方」「考え方」をもたねばらなないという事実をしっかり認識することが大切なのだ。

人間文明終焉の危機、すなわち人間圏が消滅の危機に瀕しているのは、石油や石炭といった地球システムに重大な影響を与える資源に依存する「ストック依存型」の生き方をするようになったからである。
従って、私たちが人間圏消滅の危機から脱するには、私たちの「生き方」を、地球システムが自然につくりだす物質やエネルギーの循環に依存する「フロー依存型」の生き方にしていく必要がある。
これは、「人間圏」をもういちど「生物圏」に近づける生き方ともいえる。すなわち、人間を「特別の存在」と考えるのではなく、「自然の一部」であり、他の生物と対等である「対称性」ある存在として、「天地自然の理」に則って生活する道を選ぶのである。

それをまさに実現していたのが、我々の祖先である「縄文人」なのである。


縄文人は、天地自然の理に基づいて、宇宙や自然や生物との一体感の中、自然の恵みに感謝し、祈り、腕力や能力の差異はあれど、相互に尊重しあい、助け合いの協力関係の中で生きていた。
その生活は、生命感にあふれたものだったであろう。 彼らのそのような生き方こそがまさに縄文土器に象徴されているのである。
縄文人は、地球システムがつくりだす物質やエネルギーの循環に依拠し、狩猟採集し、栽培や養殖をして、つつましく生きていたのである。

しかも、縄文人は、一万年の長きにわたり、戦争を行わなかった。一体となって平和に暮らしていたのである。 縄文人は家族団らんを始めた人たちでもあった。家族愛に満ちていたのである。幼く死んだわが子を足型として残し肌身離さずもちあるいた。
まさに愛に満ちた生き方である。

「縄文人など、しょせん文明的でない野蛮人だよ」
と思う人もいるかもしれない。

しかし、彼らを現代人より劣っているといえるか?
現代人のどこが縄文人に勝っているのか?

縄文人たちの生き方こそが、希望を喪失して苦しむ我々現代人に対して、立ち戻るべき人間圏の原点を示唆しているのである。

縄文人たちは、動物と人間を同列の存在と考えていた。
つまり、自分たちは、「生物圏」に属するものであるという認識が明確であったのである。
だから、熊も、サケも、山羊も、兄弟だったのである。

それは、「地球システム」という観点からすると、極めて正しい認識だったといってよい。
地球システムとの関係では、動物たちも人間も、その存在価値において差異はなかったのであるから。

縄文人とつながりがある、アイヌや沖縄の人々、先住民などの神話の世界からは、現代人は大いに学ぶところがある。
それらに、現代人が立ち戻るべき生き方があるからである。

また、縄文人たちは、生きることと死ぬことを一体のものとして捉えていた。
自分たちの生きているこの世界は、この宇宙は、一体どういうものなのか。自分はどこから来て、死んでどこに行くのか。 そういうことを自然と一体の生活の中から、神話として紡ぎだし、コスモロジー(世界観)として有していた。
自分が死んだ後の行く末も、世界観の中に織り込んで生きていた縄文時代の人々は、たとえ生きて行く上で生命の危険が多かったとしても、現代人ほどは不安でなかったのではないだろうか。
現代人も、生きることばかりでなく、死ぬということの意味も、縄文人に倣って考える必要性があるのではるまいか。

死ぬということ、死んだ後のことまでイメージしてこそ、生きるということの意味もわかってくるのではないだろうか?
縄文人は森の中で暮らしていた。森のもたらす豊かな恵の中で生きていたのである。
そして、豊かな森は、人間や生物が生きていく上で不可欠な水を涵養する力がある。
縄文人などかつての人間は、森には神の力が宿っていると畏敬の念を抱いていた。
それによって、森は開発から免れ、生命を育む力を持ち続けたのである。だから日本人は、長らく森を大切にしていたのである。
神社の「鎮守の森」も、そういう縄文人以来の知恵を具現化したものといえよう。

日本人は後に狩猟採集から農耕生活へと移行する。しかし、畑作牧畜ではなく、農耕漁撈へと移っていく。農耕漁撈は、畑作牧畜と比して、自然に負担をかけない、地球システムに影響が少ない生活である。
一方で、欧米的な、畑作牧畜は、森を破壊する文明である。
縄文以来の名残を残し、森を守り、自然との一体感のある農耕漁撈生活こそ、日本人が立ち戻るべき生き方なのである。


日本人の天地自然の理に則った自然と一体化した農耕の典型例が、「棚田」である。 棚田は、自然と人間の知恵が融合した美しい情景である。
棚田は、森の豊かで滋養あふれた水を使って、美味くていのちにあふれた米をつくりだす。
日本の豊かな自然と森と水は、稲の力を引き出し、肥料や農薬など使わずとも、美味しい米をつくりだしたのである。

ところが、戦後、コメを効率よく大量につくろうと考え、化学肥料と農薬が使われるようになった。
それは、人間の健康にはもちろん、土壌にも深刻な影響を与え、害虫が出やすい環境をつくってしまったのである。
本来、コメや野菜は、肥料など使わずとも十分に生育するものであり、天地自然の理に則った育て方こそが、もっともその力を引き出し、しかも美味しくなるのである。
そういう、本来の栽培方法に戻るべき時期にあるのではないだろうか。また、戦後、日本の森は、経済目的で植えられた杉やヒノキの人工林ばかりになってしまった。
しかも、安い輸入材が市場を席巻したため、日本の人工林の木材は商売にならず、杉やヒノキの人工林は荒れたまま放置されている。
その結果、森や荒れて、涵養力は落ち、このままでは水源が枯渇する危険性があるのである。 従って、人工林を間伐するとともに、落葉広葉樹を植林して森の涵養力をアップさせるよう、奥山を再生することが急務なのである。このように、奥山や、棚田をはじめとする里山を、再生していく必要が、私たち現代の日本人の急務なのである。

森をつくることは、人間と自然の一体性を体感させ、取り戻させてくれる。
学校教育においても、地域づくりにおいても、森をつくることは非常に役に立つ。 森
をつくることが、すべての問題の出発点であるといってもいいのである。

そして、「生きて行く喜び」を「生き物として」「肉体で」感じるような生き方をすることが大切である。
そのために、「自然」や「動物」や「人間」と一体化するための「祭り」というものの意義をもう一度縄文人や先住民たちに学び、そのスピリットを再現した現代の「祭り」を創り上げるべきである。
自他が一体となる「場」を創造することが大切なのである。

自他が一体となるにあたって大事なことは何か。
それは、「新しい出会い」と「対話」である。

自分が感じたことを素直に語ることが、他者の情動を引き起こし、新しいイメージを生み出す。
そのイメージが、さらに他者のイメージを引き出す。
そうやってつながり大きくなったイメージは、自然と、自他の境をなくし、一体感を醸し出す。

つまり、それぞれが、自分を語り、耳を傾け、他者の語りの中に自分とのつながりを自然と感じていく「場」をつくっていくことが大事なのである。そうすることで、人々はつながり、新しい「コミュニティ」が生まれる。

人々がいきいきとしている豊かな場は、まるで、たくさんの微生物たちがお互いにつながり関わりあって発酵し、エネルギーと新しい酒を生み出している酒蔵のようである。
そこは実に生命力にあふれ、楽しさと喜びに満ちている場なのだ。

発酵しているいきいきとした人々の場においては、第一の関心事はこれまでのように「お金」ではなく、「生命の躍動感」になっていくことだろう。
いのちがよろこび、心がわくわくするようなこと。そういうことで、つながりあうコミュニティ。
そんな新しいコミュニティをつくっていくことにこそ、私たちの未来への希望というものが見出せるように思うのである。

これまで日本では、東京に全てが一極集中し、地方・ローカルは、その分配や受け皿となってきたのが実情であった。
東京で行われ、流行したことが、全国の地方に広がっていくという構図だったのである。
それは、「欲望」と「お金」が流通する構図だったといってもよい。
しかし、この東京を中心とする全国一律主義は、人間を「マーケット」「数字」「お金」に置き換えてしまうものであり、人と人とのつながりというものは重視されず、むしろ断たれてきたといえよう。これからの出発点は、「お金」ではなく、「人間」「自然」そして「いのち」でなくてはならない。
それこそが、我々現代人が縄文人に学ぶべき最大のものであろう。

これからの時代、深刻な世界恐慌となり、景気の回復も見込めないであろう。
だからといって、落ち込む必要があるだろうか。
しかし、マネーという共同幻想から離脱し、人間として自立した生き方を歩み始めれば、怖いものなどない。
お金を「目的」ではなく、「手段」としてわが手に取り戻せばいいだけなのだ。

人間とその欲望がつくりだしてきた「マネー万能」の共同幻想と、マネーが極大化したグローバリズムの正体を見極めて、そこから脱し、私たちが生きてゆく上で本当に大事なものが何かに気付き、そして、昇ってゆく時代の終焉を迎えた現代日本人が、下っていく時代のための新しい生き方を発見してゆく。

そういう物語を描き出すために、私たちは映画「降りてゆく生き方」をつくりました。
この映画を見終わった後に、あなたの中で希望の灯がともったとしたら、私たちにとってそれ以上のしあわせはありません。

「降りてゆく生き方|映画&総合情報 公式サイト」


一昔前に私がたてた最大の目標は「森をつくる」でした。

そのためにはお金持ちになって土地を買って、、、と思っていたので、実現しないだろうけど実現できたらいいなあという程度のものでした。

が、今年になってパーマカルチャーを学び出して、その一回目の講習の時に「パーマカルチャーとは一言で言えば、『世界を森にする』ことです。」と聞き、あれ?そういえば、私が昔たてた夢は、、と思い出し、こんなところでつながるなんて潜在意識すごいなーと思ったのでした。

やっぱり私は森をつくりたいと思います。
まずは身近なところから、自分の庭で、自分の心の中で森をつくり始めようと思います。

でも本当のところは、私自身が森になりたいんだと思います。
森のような人でも、人間やめて森と化してしまうのもあこがれるなあ〜。

死んだら墓の中ではなく、森に屍を放置か土に埋めてほしいなあと山に登るようになってから思うようになりました。倒木が朽ちて苔むしていくさまは美しいです。

森さんという人と結婚したら森になれるけど〜〜ちょっと意味が違う〜〜


「あなたは何になりたいですか?」 
「はい、森になりたいです。」の一言にすべて集約される

これは私にとってわかりやすくていいな。

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今までの私たちの世界は理想に向かって進んでいく世界だったと思います。
いろんなことにおいてピラミッド構造が成り立っていて、頂点をめざすのがいいことであり、頂点に近いところにいる人がより豊かで幸せであるというような考え方ですね。

アセンションがとやかく言われるこの時期も、列車に乗れるか乗り遅れるか,覚醒するしないいうことをこのピラミッド構造のように認識している人も少なくないと思います。

これがなかなかトリッキーで、エゴでもって意識を高めよう/波動をあげよう/覚醒しようとしていると、結局、このピラミッド構造の上をめざしていると何も変わらないです。


この宇宙や精神世界はヒエラルキーで説明されるのが主流のようですが、そうだと信じればそのような世界が出現する世界ですから、そうだと信じればそういう世界が現れてくるんだろうし、そうでないと感じればそうでない世界が現れてくるのでしょう。

私はそうじゃないのでは?と感じています。


優劣や段階を設定しているのは人間で、実際そのような階層があったとしても、まったく並列だろうと思います。

地球と太陽と比べてどちらがより優れているかとか、石ころと人間の価値はどちらが重いか?、三次元より五次元が上か、という質問は宇宙の視点から見たらナンセンスな気がします。

人間からみたら石ころよりは人間が大事となるでしょうけど、宇宙からみたらどちらも同格だと思います。

だけども私たちは優劣、順序、適合不適合などをつけたがります。
ピラミッド型三角構造ではどうしてもそうなります。
そして私たちはそれに振り回されてきました。


理想や目的にそぐわないものを私たちは変えようとするか、排除しようとしがちです。
そのまま放置していたら思うように事が運びませんから、ある程度の統制が必要となってきます。

今の社会はまさにそうですね。学校教育も。
ありとあらゆるものがその構造をふくんでおり、それに沿わないと社会不適合者となりがちです。

上をめざすのが良いことと洗脳されて、虫が光に向かうようにただただ光に向かって進んでいって「飛んで火にいる夏の虫」、光になることが幸せと思い込まされます。


悪者が自分の利益ばかりを重んじてそれをなす時、まだ人々は気づきやすいですが、世のため人のためと良心によってなされる善行でも同じことが生じます。

実は後者のほうがやっかいかもしれません。
なぜならその光の裏で作り出される闇は同じところに現れないから、その関係性がなかなか見えません。

光を強くすれば闇も深くなるというのが私たちが生きているこの宇宙の原理のひとつです。


しばらく前に、原作のコミックの「風の谷のナウシカ」が気になっていたのですが、その後、それと同じようなことが実際に起こったのを感じました。

「ナウシカと墓所」を書いたときは、どちらでもないその中間を観ることが次の世界を開くのに大切だと思いました。


ナウシカは、ひそかに用意されていた来るべき時の邪のない清浄なる未来世界より、毒にまみれたこの世界に生きることを選択しました。

今の争いだらけの世界を愛の世界に変えようと何度も何度も人間は同じことを試み、失敗し、それでもまた試みる。


どちらを選ぶかは自由だと思いますが、白の世界が作り出されたら必ず黒の世界も作り出されると思います。

その世界は必ずしも共存するとは限りませんので、白の世界では白だけで黒が存在しないように感じるかもしれません。

が、実際はどこかで違う領域で、その反対の黒だけの世界も作り出されています。


より善きをめざしたがゆえにそこからこぼれ落ちるものがあり、それが自分の知らぬところで一人歩きし、反対の要素の世界を形作っていく。

白の世界を作り出すがために黒の世界が作り出されることもあるでしょう。
その真実は気づく人は気づくでしょうが、決して表に現れることはないでしょう。


集合意識や潜象界で新しい世界の構築がどのように創造されるかによって、古い世界の崩壊の仕方が違うなあと感じてました。
できるだけ穏便に済ませるには、来るべき光の世界を強く願うのではなく、ニュートラル、無垢の心が大事だと思いました。


なんてことをつらつらと思っていたら、ある日、思わぬことが起きました!

劇的であれ穏便であれ、古い世界が崩壊していくであろうと思っていたら、なんと理想世界が崩壊してしまったのを感じました!
思ってもいなかったことが起きたので、これには驚きました。

集合意識で起こった話かもしれないし、私の世界の話かもしれませんが、ようするにナウシカが破壊したものと同じもの、形成されつつあった悪いことが何一つない楽園のような世界が崩壊してしまった、、と私は感じました。


ただ見方によっては、その世界が次元シフトしたので、しなかった私には崩壊したように思えるとか、こちらの世界がシフトしてその楽園次元にはいったので、理想世界が崩壊したように思えるということもできます。

逆から見たらこちらの世界が消滅してしまったとみえてるかもしれません。

周波数が変わっちゃって感知できなくなったんでしょうが、私には理想世界が崩壊してしまったように感じられました。

集合意識で起こったなにかを感じたのかな?


それはともかく、それが起きてなにが起こったか?

実は私たちの内なる楽園が急速に成長し始めました。
つまり人々が外に理想世界を求めなくなったかわりに、今ここにある幸せや豊かさに目を向け始め、気づき始めたということです。

外に向かっていた矢印が内に向かい出した感じです。


三角構造から円構造へ。

私が望んでいたかたちになったのでこの変化はありがたかったですが、毎回のことながら考えてもみなかったことが起きるので、顕在意識で考えている領域は狭いなあと思います。


阿波から始まったイザナミの穴の広がり、これは何一つ変えることなくそのまま受容するエネルギーでした。
それが世界を呑み込んでいったのですから、予期してなかったとはいえ、私が関わっている世界においてはこのような流れになるのも不思議ではないなあという感じです。

私は私の視点から見て感じ得る世界しかわかりませんので、これは私が感じた流れですけど。


より良きをめざして進展しようとするのは男性性。
あるがままを受け入れようとするのは女性性。

女性性の時代がやってくるといわれていますから、あるがまま、今ここを大切にする方向に向かうのも自然な流れなのでしょう。


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前回の記事を書いていたらとても興味深い記事を見つけました。

白山信仰と穢多

そこからの引用ですが、興味ひかれた人は全文読んでいただきたい。

代々の弾左衞門は、己の職業に「精神的ないやしさ」を感じるどころか、「誇りと自負心」を持っていたのです。
弾左衞門は、白山神社の神に「己の職業に与えられた精神的いやしさからの解放」を祈り求めたりはしなかった・・・、それが、『部落学序説』を提唱する筆者の見解です。
それでは、弾左衞門や東日本一円にある穢多村の住人たちは、白山神社の神に何を祈ったのでしょう。
『部落解放史熱と光を上巻』によると、民俗学者の折口信夫は、加賀白山神社が「ククリヒメ」(黄泉国へ行って穢れを被ったイザナギを淨化させた女神)を祀っていることから、「ケガレ淨化との関わりを指摘した」といいます。同じく民俗学者の宮田登は「これは職能祖神というべきもので、その職能の安全を保護する神霊といってもよかった」といいます。宮田登著『ケガレの民俗誌差別の文化的要因』の中で、「ケガレた状態を元に戻す」・「穢れを除去する」神と説明しています。


前回の記事で、「千蛇ヶ池の蛇」の蛇は制圧された人たちのことであると書きましたが、その人たちの一部が穢多・非人となったであろうことは予想されます。

昨日の記事を書きながら、もともと白山にあった土着の信仰について思いを馳せていましたが、この記事が参考になりました。

これから書こうと思っていたことともつながり、これからの女性性の時代に向けての意識変換にも必要なこと。
また、私が言うところの「悪役の愛」や「うしろの世界の愛」にもつながることです。

それが腑に落ちると世の中の見方が180度がらりと変わりさえしますので、その人に大きなブレイクスルーをひきおこすでしょうけど、けっこうここが岐路になる人もいるかもしれません。


「ククリヒメ」について『「ケガレた状態を元に戻す」・「穢れを除去する」神』と書かれてますが、私は菊理姫は第三の力、つまり、二つの対極を結び合わせ、循環させる役割を持っていると思います。

陰と陽は別々にあってはいのちを生みだしません。
循環することでいのちを生みだします。

陰と陽を循環させる力、それがくくることでもあり、菊理姫の役割だと思っています。


ケガレとはなにか?

それは循環が止まっている状態、詰まり滞って気が枯れている状態だと思います。
だから、「ケガレた状態を元に戻す」・「穢れを除去する」は「滞りをなくして循環させる」ということなのだと思います。

「ケガレ(気枯れ)」は「ケガレ(穢れ)」ではなかったけど、いつのまにやら不浄であり、忌み嫌うべきものにされてしまったのだと思います。

しかしながら、もう一つの観点からみたケガレとはなにか?
それはハレの別の姿にほかならないともいえます。

ウィキペディアの「穢れ」

私たちの観念の根源的なところで見直すべきことがあると思います。

今回の白山行きはこういうところと関わっているようですが、美濃の最後に行った御嶽山、、、そして昨日読み終えたゲド戦記3巻、、、つながっていくなあ。

しかしながら私が少し以前に思いうかべてたのは3巻ではなく、4巻のことだったようです。

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話は少し遡りますが、阿波に行った翌週、美濃方面に行きました。
「寝覚の床」という川に神殿のごとく巨石群があるところに連れて行ってもらいました。

ここに浦島太郎伝説があるのですが、妙に現実的で気に入ってしまいました。
寝覚之床 臨川寺のパンフに載っていた物語です。

浦島太郎の伝説

こんな山の中に、浦島太郎の伝説があるなんて、ちょっとおかしいことであるが、浦島太郎が龍宮へ行ったという話は、やはり海岸のことで、今の京都の天橋立である。この海岸で亀を助けてやり、その亀につれられて,龍宮へ行ったのであるが、龍宮での話や、龍宮から帰ってくるまでは、おとぎ話にある通りである。ところが帰ってみると、親兄弟はもちろんのこと、親族隣人誰一人として知っている人はなく、我が家もないので、そこに住むことができず、昔のことで何処をどう通ったともなく、この山の中にさまよいこんできた。この木曽路の風景に淋しい独りをなぐさめられながら、好きな釣りをしたり、或は村人に珍しい龍宮の話をしたりして暮らして居ったところ、或る日のこと、フッと思いついたように、土産にもらってきた玉手箱をあけて見たならば、一ぺんに三百歳のおじいさんになってしまい、ビックリして眼がさめた。眼をさましたというのでここを寝覚という。ところで、ただでさえ変わったこわい人だと思っていた村人は、この有様に驚いて近寄らないようになってしまったので、ここに住むこともできなくなり、その行方を消してしまったのである。その跡を見ると龍宮から授かってきた弁財天の尊像や遺品があったので、これを小祠に納め寺を建ててその菩提をとむらったといういう。約千二百年前のことである。今の寝覚山臨川寺がその始まりである。


おとぎ話の浦島伝説はご存知の通りです。
浦島伝説や龍宮にまつわるいろんな話はとりあえず今は横においておきます。

この話で面白かったなーと思うのはこちらの日常世界の観点から見て書かれているというところです。龍宮へ行ったからと英雄になるわけでもなく、戻ってきたら三百年も経っていて知る人がいないし、家もない。

実際の話、異国にひとり放り出されたようなものですから、普通に考えると大変なことです。
その時の太郎さんの心中やいかに?
それは想像するしかありません。

どうにか居場所を見つけ、そこで落ち着くことができたある日、フッと思いついたように玉手箱を開けました。『フッと思いついたように』というのがまた面白いです。

そうしたら一気に三百歳になってしまった!

そして『ビックリして眼がさめた。』そうです。

『ビックリして眼がさめた。』としか書いてないので、これもあとは想像するしかないのですが、『眼がさめた』とはどういうことか?
今までのことが夢だったということか? 覚醒したということか?はたまた、、、?

しかしながらその後の記述で、『ただでさえ変わったこわい人だと思っていた村人は、この有様に驚いて近寄らないようになってしまったので、ここに住むこともできなくなり、その行方を消してしまったのである。』と書かれています。

踏んだり蹴ったりの太郎さんです。

龍宮へ行ったというのは、今で言えば、宇宙船に乗ったとか、金星へ行ったと言うようなものなので、確かに一般人からしたらヘンな人でしょう。
そんな人が突然三百歳のおじいさんになったら、そりゃ、こわがっても当然かもしれないですね。

太郎さん、そのおかげでそこにもいれなくなってどこかに行ってしまった。
その後はどこでどう暮らしたか、、、?

亀を助けたばかりに波瀾万丈な人生です。

・・という見方はこちらの現世的な視点からみた見方ですが。


この物語を読むといったい何が現実なのだろうか?と思います。

太郎さんは龍宮ではきっと「これは現実だろうか?夢を見ているのだろうか?」と何度も疑ったと思います。

なぜ疑うのか?というと、現実ではあり得ないと思っていたことを実際に体験しているからです。

こちらの世界に戻ってきてからは、龍宮に本当に行っていたのだろうか?それとも今目の前にある世界が幻想だろうか?それとも両方、現実?幻想?現実っていったいなに?と思いあぐねることも少なくなかったと思います。
そしてそんなこんなで玉手箱を開けてみたら、突如三百歳になってしまいます。

そして、『ビックリして眼がさめた。』

いったいなにから眼がさめたのでしょう?


一気に年を取った太郎さんを見て、村人は非現実的なものを感じとり、近寄らなくなりました。
これは起こるべきことではないことが起こっていると理性がうけつけなかったのだと思います。

私たちは徐々に年をとっていくものだという信念をもっています。人によっては信念ではなく、知識、あるいはは現実だという人もいるでしょう。

確かに私たちは年をとっていきますが、私たちは年をとるものだという知識と経験があるから年をとっているとも言えます。
同年でも老けて見える人もいれば若く見える人もいます。

どこかのある部族では、年数で年齢を決めず、見えたままの年齢が実年齢だというところがあるそうです。

そういわれると、なんで何年生きたかが年齢となるんだろう?という素朴な疑問が起こります。
気も若く健康な人がいれば、それに見合う年齢が実際の年齢だといってもいいのではないか?と思います。
なぜならその人が経験している時間は必ずしも時計で刻まれる時間だとは限らないからです。


なんてことを考えながら、この物語を読むと、いったいどこまでが現実でどこまでがそうでないのか?と考えて、楽しくなりました。
これ全部作り話ということもできますし、全部、本当にあったことと言うこともできます。

それが事実かどうかはあまり重要ではないのですが、私たちが生きていると思っているこの世の中、はたしてどこまでが現実でどこまでが幻想かを吟味してみてもいいと思います。

自分が現実だと思ったことを私たちは現実だと思うんですけどね。
実際はどうか?と疑ってみるといいと思います。

太郎さんはいったいなにから眼をさましたのでしょうね?


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昨日、「究極のお茶会」でお世話になっているお茶屋さんに行ってました。
おそばが新しいメニューに加わり、それをいただくことに。

このお茶屋さんの品は本当にすばらしい物ばかりですが、今回は一杯のおそばですばらしい気づきをいただきました。

本当の食べ物とはどんなものか?
私たちがなぜ他の命あるものを食するのか?
なぜ地球がそのような仕組みになっているのか?

自分なりに理解しました。


さて、おそばを待っていると最初に出てきたのは薬味。
見ただけでなにやら気持ちよく、わさびさんと大根さんが薬味として出されるのを喜んでて、ウキウキと話しかけてきました。

これはただの物ではないとこの時すでに感じたのですが。
おそばが出てきて一口食べて、アッチョンブリケーーーー!!


私たちの感性がもっと研ぎすまされてきたら、食べ物を食べるだけで、そこに使われている食物の歴史がわかるんだろうなと思いました。

どこのどんなところでどのように育ち、どのような人たちの手を渡ってどのように扱われ、今の料理になったのか、、、食べているものの一生とその背景がわかるんだろうなと。

ここの紅茶をいただいたときもそれは思いましたが、今回のほうが強烈でした。


食べ物がもっている情報を感じとりながら自分の身体に取り込んでいく。

その食物が感じたこともさることながら、それに関わった物や人々、場所などの物理的情報のみならず、すべてが何を感じたかの情報がそこに盛り込まれているわけです。

究極は一口食べるだけで全宇宙を知ることになりますが、なかなかそこまで意識が届かないので、自分の意識や感覚が把握できる範囲内となります。


もともと食べ物はそういうものなんだろうけど、今はそのようなコミュニケーションをする人はあまりなく、食べ物は「食物」として扱われ、私たちは腹の足しにするだけです。栄養やエネルギー量などについては考えるかもしれないけど。


食べるということはその食物のいのちをいただくことであり、そのいのちとはどくどくと心臓が動いていたり息をしていたりということではなく、その一生で取り込んだ情報すべてを自分の中にありがたく取り入れさせていただくということ。

心を込めて作られた食物にはそのエネルギーがこもっていますから、それを食べればその思いが伝わってきます。


それを食べた(取り込んだ)ということはその思いを今度は自分が伝える側になったということだと思います。

そのいのちをいただいたのだから、そのいのちを伝えていくのは当然なことで、その連綿と続いていく「なにか」を「いのち」というのだと思いました。

「いのち」というのは一個の個体の命ではなく、たくさんの生き物がつながりあって生きていることであり、情報交換の場であり、全体の生命システムの生業すべての関わり合いなんだなあと実感しました。


で、食することはどういうことか?というと、「対話」。

食べることにより、その食物に秘められたそういう情報をいただきながら、その食べ物とコミュニケーションをとること。

ここでいう情報とは、例えば、どこでだれがどのようにというような情報だけではなく、どういう思いに関わってきたかというような情緒面での情報も含みます。

それを体内に取り込むことにより、自分もまたその食べ物に秘められた無数のいのちのことを知り、そのメッセージを聞き取り、それを生きている自分がいかに活かすか、伝えていくか、、、本当はそのために私たちは食するのだなと思いました。

自分が生きるために食するのではなく、この星とこの星の生き物がより豊かに生きていけるにはどうしたらいいかという情報を得るために食するのだと。

それを知ればそのように行動することになるでしょう。

いのちをつないでいく仕組みや、自分が分離した個ではなく、つながりあっている生命体の一部分であり、全体であることを知ると、個の認識が変わります。

そこまで大げさにならなくても、今自分が食べているものと対話しながら食べることが本当に食べることなのだと思います。
「おいしい〜」と味わうのとは違い、明らかに「対話」でした。


本当に大切に育てられてきたもの、あるいは本当にいい環境の自然の中で育ったものを食すれば、ありがたいたくさんの情報を得て心豊かになれますが、如何せん、今の時代、なかなかそういう物を得るのが難しい時代です。

もし食事が食物との対話となると、今一般的に食べられている食物の数々は対話するに耐えうるものではないかもしれません。

そう思うと、そのような感性にならないほうを選ぶ人もいるかもしれませんね。それもまた個人の選択にお任せしますが。


また食べ物に限らず、身の回りの物についても同じことが言えると思います。
物質だけでなく、そのものが含んでいる情報を読み取っていくようにすると、自分がどんな物に囲まれていたいか、またどういう扱いをしたいのかなどみえてくると思います。


食に関する概念が一気に変わってしまいました。
かといって、すぐにこのレベルの食生活ができるかというと、正直ムリ。。。
もっといい食材とスローライフにしていかないと難しいなと思います。
これを継続するのはかなり高い精神性が要求されると思います。

それでもこれからの価値観は少しずつそういう風に変わっていき、それが豊かさの本質となる時代となっていくと思います。
それが文化として浸透するのはまだ先のことだとは思いますが。


私はまだまだはるか後方にいるので、まず身近な身の回りから変え始めないといけません。

でも今回の気づきは本当にありがたかったです。
価値観ががらりと変わりました。

お金の豊かさよりがぜんこちらの豊かさを好みます。
どちらにしろこちらの豊かさに移行したらお金の問題はなくならざるを得ないことになるでしょうが。

いやはやすばらしい気づきをありがとうございました。感謝です


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私が「たまゆい(魂結)」と名付けた遠隔ワークをしているとき、いろいろな気づきや体験をすることがあります。
興味深い体験をした時には記事にしてシェアしたいと思うんですが、深い意識で感じていることなので、時間が経つと記憶が薄らいでしまいます。すぐに書ける時間がないと、その時の感覚を言葉で表しきれず、記事途中であきらめてしまいがちです。

下記は、セッションのあとに受けた方に送らせていただいたメールの一部です。

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この世界や人生において、すべての人が幸福になったり、
病気や死、悲しみ、苦しみがなくなったりしないのはなぜか?
人はなぜ幸せになれないのだろうか?

自分一人が幸福になるわけにはいかないという思い。
人のためにいままで生きてきたのに、という思い。

寂しさ、虚しさ、空虚さ。

人生は無情であるというところに立った時にも、
私たちには選択する機会が与えられています。

荒涼とした地であるからこそ花を植える。

「もし世界の終りが明日だとしても
私は今日林檎の種子をまくだろう。」といった人がいます。

空虚さの中に希望の種を植えること。
それが生きるということ。

その美しい行為に心うたれるとき、
この世界の真実を知り、
また新しい世界が生み出されていきます。

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空虚さの中に希望の種を植えること。
それが生きるということ。


このとき感じたことはとても文章では書き出せないのですが、、、

例えば、日本が今まで何度も経験してきた廃墟。
天災や原爆などで荒野と化したところに立ち、また生きることを決心し、再建に向けて進む。

絶望の淵に立った時に「それでも私は希望の種を植えるんだ」と動き出す。
この時、人の心にわき起こる思いはとても美しいものだなと思います。

わざわざ崖っぷちに立つ必要はないですが、生きるということはそういうことなのかな?と思いました。


「希望という種を植え続けること」

それはこの三次元で経験できる貴重な体験なんだろうなと思います。


セッションについてはこちらをご覧下さい。
悦月(えつき)のホームページ「いのちおり」


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さて、自分の想像以上に「クラウドアトラス」の影響を受けているようです。

映画の音楽はずっと頭の中でくり返し流れており、なにがどう?とはいえないんですが、サブリミナルでも入っていたのか?と思うほど、なにか影響を受けたみたいです。

でも,みんなに「ぜったい見に行ったがいいよ!」と薦めたい映画かというとそうでもなく、見たい人が見れば?というぐらいなんですね。

私自身、「おもしろい!」とか「感動した!」というわけもなく、でも、気になる,,,んです。

二つの記事に書いた内容とは別に、私の心の琴線に触れている何かがある、、ということが気になる理由なのだと思います。

もしかすると、自分の起源とか、なぜここに自分がいるのか?という疑問の答えを感じとっているのかもしれません? わからんけど、、、。


映画の原作はそれぞれのストーリーが時系列で書かれているらしいです。

映画では並行して構成されているので、パラレルワールド的に感じるのですが、私がそう勝手に受けとっただけだとしたら??

各時代が切り替わるので同時進行しているようだけど、実際はまったく無関係と見ることもできます。


そう思うと、なんだ、こりゃ?

私がそのように関連させていたからそう見えるまでで、実際は、各時代の登場人物はまったく関連がない、という見方もしようと思えばできます。

同じ俳優さんが何役もしているので、おのずと私たちは関連づけて輪廻転生してるんだなと思ってしまいますが、同じ俳優が同じ魂である必要はないわけですから。

ここで、自分がいかに自分が見たい世界を作り出しているかを知ってしまいます

でもだからこそ、これから私たちがどのような未来を創っていきたいかを想像(創造)することが大事なんだと思います。それが未来を形成するのだから。


時空を超えて、すべてのものが運命共同体としてあり、お互いが影響し合って全体のバランスをとっている。
そこにはいいも悪いもなく、、、それぞれがそれぞれの経験と成長をしていて、、、。

宇宙はそれをたのしんでいるのだろうな〜と。
何でもありだよなと思ってしまいます。

映画の中でも、つらいこと、裏切り、陰謀などでてきますが、そういうものがないとストーリー的にも面白くない。

みんな、役者なんだな。
あの世もこの世も。


以前、パラレルワールドのことを思った時に、今ここにいる自分ができなかったこと、成し遂げてないことを実現している自分がいるパワレルワールドもあるだろうと気づいたことあります。

その見方で見れば、全部叶っているんですね。
叶っていないことなど何一つない。

この世で私ができてないことは、他のパラレルワールドの私が実現させているわけです。

そうなると、あ、なんだ、この私ががんばってしようとしなくてもいいのかも? できなくてもへこむ必要はなく、私はこの世でできること、この世で与えられた役をしていけばいいじゃないか?という思いに至って、気が楽になったことあります。


そうなると、ありり?
私って何者かになろうとしてた? 成功しないといけないと思ってた? お金を稼がないといけないと思ってた? 愛に満ちないといけないと思ってた? と思い込みがぞろぞろと「思い込みホイホイ」にひっかかっていきます。

映画の中でも、必ずしも登場人物がみんな幸せに成功しているわけではなく、いろんなことがあり、無念の死を遂げる人もいますし、大変な苦労をする人もいます。


昔、あるところで、死ぬ体験のワークをしたことがあります。
その時に「肉体が死んでも思いが引き継がれていくことのすばらしさ」を知りました。

例えば、キリストやブッダのような偉大な宗教家。
肉体はなくなっても、その教えは受け継がれ、たくさんの人々に影響を与えています。

言い換えれば、その宗教家は「教え」という姿にとって代わり、たくさんの人々の中に生きていることになります。

身近な親しい人が亡くなって、その後、生きている頃よりそばにいて見守ってくれている感覚があるという人は少なくないようです。


肉体というのはひとつの形態にすぎないのです。

肉体よりも、その人が生前生みだしてきたなにかがいかにその後、人の間に浸透するか、、、それは大人数でも一人でもいいんだと思います。

自分が姿を変えて、世界でなんらかのかたちで受け継がれていく、、、それがいのちなのかな?

そしてそれらが交じり合い、反応し合うことで、いろんな様々な体験がなされるわけで、そうすることによって宇宙はまた新しい経験を得ることができます。


現代の私たちは自分個人の一生で区切って考えるので(子どもや孫の代ぐらいまでは考えますけど)、自分の生が何を形作っているのか、死んだ後,何が残っていくのか? あるいは、なにによって自分が形作られたのか?それをもっと考えてもいいのかもしれません。

受け継いできたもの、受け継いでいくもの、、、。
物質的だけでなく、もっと本質的なことも含め。


地球、宇宙全体の一要素である自分がその全体のために残していけるもの、生きている間にできること、そういうことを考えながら生きていく、、、すっかり忘れられていることかもしれませんが、そういう生き方ができる人はとても幸せだと思います。

私も死後、私がどういうかたちとなって残っていくのか?を考えながら、生きている間にできることをしていきたいなと書きながら思いました。


つらつらと書いてきたので、まだまとまってない文章ですが、こういう生き方をする人が増えると自然と社会はいいものになっていくだろうなあと思います。

なぜならみんなが、地球のため、宇宙のため、子孫のために自分が残していけるもの、いきたいものを考え、それが自分のいのちの別のかたち(証)として残っていくと考え、行動するようになるからです。

それは今の生き方よりもはるかに楽で楽しいものだと思います。

これから少しずつそういう価値観に変わっていくのかな?


ということで、いろんなことを考えさせられているから、気になる映画なんでしょうね。
どっか意識の奥深くをつつかれている感じなんですね。

今日はなにということもなく、つらつらと自分の考えを書きました。
書いたおかげでちょっと整理されたかも?


Cloud Atlas(クラウドアトラス)


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昨日、ブログ記事をアップしたすぐあとで、FBで見つけたバシャールの動画。
似た内容だったので、こちらにも。

やはりポジティブなエネルギーは高まっているようで、ネガティブを変えようとするより、ポジティブにフォーカスして、その波に乗って行くがいいようです。

ポジティブ、ネガティブと書くと、また二元性に陥って、ネガティブはダメで、ポジティブはOKだからポジティブに考えなきゃ〜いう作用が働きがちです。

ネガティブに考えやすい人は意図的にそうする必要はあると思いますが、「思おうとする」ではもう弱い気がします。

もうポジティブ、ネガティブも関係ないところで、「そうだ」とわかっている状態かな。これは昨日の記事で書いたことだけど。


『自分の思い込み、観念、疑いや恐れ、躊躇する思い、自分の存在価値の無さから現実を想像していく在り方を取り込まないということです。そのような考え方が高次のポジティブ意識に存在するスペースは無いのです。』(動画より)

違う人の言葉で同じことを聞く/読むと、また新たな気づきやひらめきがありますからどうぞご覧下さい。

下のバーのところに字幕ボタンあります。


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あなたは本当に生きていますか?
それとも生きたまま死んでいますか?

私たちはいつか死にます。
どうせなら死ぬまで生きていきたい。

どうぞ生きてください。
どうせ死はやってきます。
だから死ぬまで生きて下さい。

あなたもいつか死にます。
だから今、生きて下さい。



2007年以前のブログ記事のほとんどをいったん非公開にしました。
内容が古くなってきたものもあるので、時間のある時にチェックして、また公開するものは公開したいと思います。

その時にあった記事ですが、ちょっと書き直し,もう一度アップです。


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悦月のセッションはこちら

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2月のメッセージとその後の記事で、ギャップ修正というような内容が出てましたが、だんだんとわかってきました。

今はすでに新しい地に着いていますが、これから新地での開拓が始まろうとしているところ。
人が足を踏み入れたことのない地で、新たに世界を創っていこうとしています。

新しい地に移ることができたはいいけど、私たちの大半がまだ古いフィールドにとらわれたまま。
それを脱ぎ捨てる作業が始まっているんだなと思います。
先日はそれがドブ掃除という表現になったのかなと。

地球自身はもうすでに新しいエネルギーの世界になってきていますし、宇宙からもどんどんとそれを促すエネルギーがやって来ています。

もうすでに新しい世界に一歩踏み入れている段階ですので、そうなってくるとますます、今までのシステム、価値観、生き方などの古いエネルギー形態のものは手放して、今新しく始まっているエネルギーを取り入れていく必要があります。

そのため、まだ残っている未消化のエネルギー(思考パターン、トラウマ、心の傷等)はいったん浮上して表に現れてきます。

それが今月とくに顕著なんでしょう。

今回はタマネギの皮を剥ぐように自己を見つめ直し、、というよりは、一気にソフトを入れ替える作業だと思います。

古傷が浮き彫りになってきた人(それがわかる人)は、あなたが変われないからそれが起こっているのではなく、それを見直し,手放して、新しい段階に移るためのプロセスとして現れているのだと思って対処してください。

今までと同じように対応せず、今までと違う視点、一段階高い視点をこころがけましょう。

もうすでにあなたはその方法をわかっている、、と思います,本当は。
でもなかなか決断できない、、、。


山のてっぺんまで登ってきて、まだ行ったことのない(でも本当は馴染み深い)新しい道を降りようか? 登ってきた道を引き返そうかと思案している感じです。

新しい道は新しい世界へ。
登ってきた道は今までの世界へ。

新地で、新しく生き直すのか,今までのように生きるのかの選択肢が来ています。

それは段階的に変化を促しているありがたいこととも受けとれますし、もう一度、ふるいにかけられているともいえます。

その分岐点になるのが今月のようです。
来月も続くかもしれないけど、重要なターニングポイントみたいです。


長いこと自分が抱えてきたエゴの傷を癒すか固執するかという段階なのでしょうが、癒して手放すためには今までと違う視点からみないと、心は同じところをグルグルと回ります。

自分のエゴの主張と痛みを理解してあげることが大切だと思います。
その部分を周りに投影して見るので、他者のせいにしている限り、自分のことは見えない。

自分のことであれ、人のことであれ、社会のことであれ、気になることは自分から発信されています。
なんでそれが気になるのか?こだわるのか?というところを探ってみるといいと思います。

原因追及のために探るのではなく、新しい視点を見つけるためにそれに取り組んでください。

今思っていること、感じていることは自分がそう見ているからそうなのだと思って、そこ(特に感情)から離れてその物事がみれないか?

そのように思えないとしても、とりあえず違う設定を仮定してみてください。


問題(と自分が思うこと)の現れ自体がすでに愛のあらわれということがわかってくると、「出てきてくれてありがとう」ということになります。


人によっては、長年抱えてきた一番痛い部分やもうクリアしたのに、、、と思う部分かもしれません。
行きつ戻りつ、なかなかタフな作業になる人もいると思います。

今どっぷり来ている人は、自分を愛ある人と思えるかどうかがキモだと思います。

大きな膿だし(生み出し)なのでしょう。
この作業は春分ぐらいまでには完了すべきなのかなー?

10日は旧正月で新月ですから、また流れが変わっていくでしょうが、エネルギーは加速すると思うので、マイナスループに陥らないよう、気をつけたいものです。

エゴの痛みの噴出によって、たくさんの人が自分自身を抱えきれず、いろんなことが起こる可能性があります。

今はこういう時期だとわかっている人は、それを癒して新しい流れを生み出していける人だと思いますす。
またそれによってタイムラインも瞬時に変わりますので、地震やその他の天災、人災もそれに左右されそうに思います。

長くなったので、続きは次回に。


どんどんと事象が変化しているので、いったいどんな話となるやら?
「究極のお茶会」 2月14日開催です!


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