いのちおりblog - 本来の自分に還るために

人生をよりクリエイティブに生きたいあなたに贈る
   悦月(えつき)のブログ(旧ブログタイトル:たまむすひ)
                                    

カテゴリ: 人生、生き方

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メルマガ「いのちおり通信」に載せた文章の一部を少し変更して載せています。


私たちは自分のために生きていると思いがちですが、
本当は「自分以外」のために生きているのではないでしょうか?

ほとんどの人はそれに気づかず、自分のために生きていると思っているので、
より自分の望み通りになろう、しようとがんばります。

自分のためなので、不安と怖れが原動力のエゴが大きく作用しますから、
なかなかうまくいかずにあきらめたり、苦しんだりします。


自然界は個々の存在で考えると、弱肉強食の残酷な世界に見えますが、
全体で見ると、上手いぐあいにバランスをとっていて、
滅びるものもあれば、生き残るものもあります。

その循環のなかで、全体の「自然」は持ちつ持たれつで保たれています。

森の中では生と死が共存しています。

宇宙のエネルギーの総量は変わらないそうですが、
その中に苦しみという体験も楽しみという体験もあります。


あなたが

「自分のために生きる」から
「他のために生きている、生かされている」

にシフトしていくと、生き方がとても楽になると思います。


全体の中で、自分は一体どういう役割を担っているだろうか?
と考えてみるといいと思います。

その役割は自分次第で変えることができます。


「自分を受け入れたい」、つまり「自分を受け入れられない」と思っている人は多いです。

自分で自分を過小評価しないことです。

「他のために生きている、生かされている」のなら、
どんな自分でも、それは「自分以外」にとって意味あることですから、
自分では自分の価値を判断しようがないです。

あなたが今、そのように存在しているのは、その必要があってのことでしょう。

そして、あなたが変化することで世界も変化していきますから、全体のダイナミックな流れの中で、その必要性は常に変化しています。


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1ヶ月の集中コースを受けておられる方に送ったメールの一部を少し書き換えてシェアします。

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

もしかして自分に厳しすぎるんじゃないでしょうか?

自分のできないところ、よくないと思うところばかり見ていても
自信はつきません。

例えば、ひとりで電車に乗る自信はありますよね?
ご飯を食べる時に箸を使う自信もありますね?
朝ちゃんと起きて会社に行きますよね?

でも普通、それについて「私は自信がある」とは言わないです。
なぜなら誰にでもできる当たり前のことだと思っているから。

人はあたりまえに自信のあることは、いちいち「自信がある」と考えません。


呼吸できること、朝、目が覚めたことに感謝できる人は
毎日感謝できることだらけになります。

それと同じで、靴を左右まちがえずに履くことに自信がある人なら、
ほかのたくさんのことにも自信が持てます。

その人は自分にたくさんのことができるのを知って
「私は自分に自信がある」と言うでしょう。


自信なんてそんなものです。
どこに基準をおくかは自分です。

中卒で自分に自信がある人もいれば、
東大卒でも自分に自信がない人もいます。

自信というのはまったくもって主観です。


自信をもちたいならその基準を変えればいいです。

その基準でなければならないと思うなら、
そこにどういう思い込みが潜んでいるかチェックしてみましょう。


自分に自信をもって毎日を過ごしたいのなら、できてない自分を思うより、
できたことに対して「やった!すごい!できるじゃん!」と思いましょう。

「できた!やった!」体験がたくさんあると、
それがどんな些細なことでも脳は成功体験として記憶します。

小さな成功体験はいずれ大きな成功体験に成長しますから、
今できないこともいずれできるようになるか、どうでもよくなるか、、、です。


目の前にハードルを置くのではなく、
ハードルを越えてしまったあとの自分を感じてみましょう。

ハードルを飛び越える前の自分を見て「飛び越えなきゃ、やらなきゃ」と思うのはしんどいですし、難しくなります。

ハードルを越えて、両手を上げてゴールインしている自分を思うほうが楽しいですし、そちらをイメージしているほうが叶いやすいです。


自信をつけたい?

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もしあなたが
自分をイケてない人だと思っているのなら、
イケてない人として行動しているだろう。

もしあなたが
自分をちょっとイケていると思うのなら、
ちょっとイケている人として行動するだろう。

もしあなたが
自分をイケている!と思っているなら
イケている人としてふるまうだろう。

もしあなたが
「イケてる人になりたい」と思うのなら、
「イケてる人になりたい人」として行動するだろう。



あなたがあなたをどう評価しているのか?

イケてる? イケてない?

どっちでもいいんだけど、その根拠は何?


誰かに言われたから?
自分がそうだと思うから?


どちらにしろ自分が思っているようにふるまうんだから、
どうせなら「イケてる!」と思えるほうが楽しいと思う。


自分の思考と行動をよくよく見つめてほしい。

「イケてる人」として行動しているのか?
「イケてない人」として行動しているのか?


あなたはあなたが思うような人になる。

今のあなたは過去のあなたの思った結果。

ならば、今、思い描く自分の姿は、未来のあなたの姿。


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 昔々、動物たちは、新しい世界の様々な社会問題を解決するために、何かしなければならないと考えて、学校を設立することにした。 科目は、かけっこ、木登り、水泳、飛行であった。学校を円滑に運営するために、すべての動物にこれら四科目の履修が義務づけられた。
 
 アヒルは、水泳の成績は優秀だった。先生よりもうまかった。飛行もいい成績だったが、かけっこは苦手だった。それを補うために、放課後居残りをさせられ、そのうえ水泳の授業時間まで削って、
かけっこの練習をさせられた。やがて、足の水かきが磨り減り、水泳も平凡な成績に落ちた。しかし、学校は平均的な成績でいいとされていたので、アヒル本人以外は、誰もこのことを気にかけなかった。
 
 ウサギは、かけっこにかけては最初から優等生だったが、水泳が苦手で居残り授業ばかりさせられているうちに、神経衰弱を起こしてしまった。
 
 リスは木登り上手だったが、飛行の授業では、木の上からではなく、どうしても地上から飛べと先生に強制され、ストレスがたまる一方だった。疲労困憊の末、肉離れを起こし、やがて木登りもC,かけっこもDにまで落ちた。
 
 ワシは問題児で、厳しく更生する必要があった。木登りの授業では、いつも一番早く木の上に到着したが、先生の指示する方法にどうしても従おうとしなかった。
 
 結局、学年末には、泳ぎが得意でかけっこもまあまあ、木登りも飛行もそこそこという少々風変わりなウナギが、一番高い平均点を獲得して卒業生総代に選ばれた。
 
 学校側が穴掘りを授業に取り入れてくれなかったことを理由に、モグラたちは登校を拒否し、その親たちは税金を納めることに反対した。そして子どもを穴グマのところに修行にだすと、後はタヌキたちと一緒に私立学校を設立し成功を収めた。


この話は、R.H.リブス著の 『動物学校』 という本に書かれているそうですが、私は『7つの習慣』で読みました。
すごくわかりやすいと思いました。

アヒルにはアヒルの良さ、ウサギにはウサギの良さ、
リスにはリスの、ワシにはワシの良さがあります。
ウナギ、モグラ、穴グマ、タヌキも同じ。

良い悪いは、誰かが決めた基準。
でもその「良い悪い」はすべてが豊かな個性。

「みんなちがってみんないい」と金子みすゞは言いました。

自然界は多種多様だからこそうまく循環して豊かになります。

私たちも「みんなちがってみんないい」のです。



あなたの中に眠る才能を目覚めさせませんか?
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メルマガ「コンシャス・アウェアネス ∞ conscious awareness ∞ 無限なる可能性へ!」より要約。
 ↓ ↓ ↓

「〜になりたい」「〜したい」と思っている時、
『「〜になりたい、〜したい」がしたい』状態になっていませんか?

「〜になりたい、〜したい」状態を実は楽しんでいるので、無意識に達成できない自分を演じてその状態を続けます(楽しんでしまいます)。

「達成した状態」よりも「達成する状態」を考えて、ワクワクしたり、悩んだり、それに向かって行動している自分を楽しんでいるわけです。

「どうしたらいいだろう?」「なぜ自分はこうなんだろう?」と悩むことも楽しんでいます。

そうやって「何かに向かっている自分」やその問題をクリアできた時に、「やった!」と自分のことが誇らしく思えます。


ゲームみたいなものですね。
そういうことを楽しむために今の状況を作り出しています。


何かに悩んでいる人を見ると、好きでやっているように見えることもあります。
「イヤならやめたら?」と言ってしまえば身も蓋もないのですが、実際そんな感じです。


何かにこだわって、くり返しくり返し同じことを言っている。

「それは好きでしているでしょ?」と言われてもしょうがない。


なかなか次の展開に行けなくて同じ状況がくり返されるのであれば、そのような思考のワナにはまっているのかも?

その観念に気づき、捨てれば、簡単に一歩外に踏み出せます。

既存のブリーフシステムが変わると自然に流れも変わります。


悦月(えつき)のセッションは、3月20日から金額がかわります。
3月19日までのお申し込みは旧料金です。
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遠隔エネルギーワーク
ネームリーディング


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私は長いこと自己否定感が抜けなくてもがいた人間ですが、しばらく前にあることがあり、私は思いました。

自己否定や自己卑下、セルフメージが低いこと、自分を下げることなど、本来の自分の価値よりも自分を低く扱ってしまうことがどれほど無益であり、バカらしくなんのためにもならないか!

ということをとことん思いました。


冗談抜きでマジ、ムダ。
本当に本当に、それをすることで当人が得をすることはありません。

それどころか相当たくさんのチャンスをみすみす見捨てています。
それも根拠のない自己否定感のせいで。

根拠がないと書きましたが、ほとんど元は親子関係の問題でしょう。

でももうあなたは大人です。
自分の人生の手綱は自分で持つべき。

親や兄弟、他人に預けてはいけません。


私が自分を愛せないのは親に愛されなかったから、と原因を親にみるかもしれないけれど、ものすごーく冷静に客観的になってみると、自分を愛することと、親に愛されることとなんか関係ある?

親に愛されなかったと感じたことがトラウマになり、自分を愛せない、自分には価値がないと感じるのは自然な流れだけど、いつまでもそのストーリーにはまっていては、いつまでたっても自立できません。


親は親なりにあなたのことを愛しているかもしれないよ?

それはあなたの望んだ愛し方ではないかもしれないけど。

私なんてまさにそうでした。気づくまでに何十年もかかったけど。
今でも「そのやり方はやめてよね」といいたくなるような接し方です^^;


世間では愛が美化されすぎているから特別なもののように感じたがるようだけど、空気のようなもの、大地のようなものが本当の無償の愛なんじゃないの?

あんまりにも無償過ぎるから、私たちはその恩恵をすっかり忘れ、普段はその存在すら忘れてません?

でも何も言わずに私たちを生かしてくれててます。


私は愛される価値がない、私はつまらない人間だと決めたのは誰?

そう、それに同意した自分。


まだ、それ、続けるの?

もう、やめようよ。


本当に本当に、せっかく持って生まれてきた自分の可能性をつぶしてしまってます。


私は自己否定感から抜け出るのに何年もかかった人間だから、すごくよくわかります。否定され続けて育つことの弊害は骨身に沁みてます。

そこから抜け出るのは早いに越したことはないです。
もしわたしがもっと以前に自己否定感を手放せていたら、もっと自分の才能を活かした人生を送っていただろうなと思います。

それはそれで貴重な体験、通るべき道だったのかもしれず、その過程を経たがため、今、人を応援する仕事をしているので、人生ムダはないと思いますけど。


もしあなたが自分で自分の価値を下げるようなことをしているのならすぐにやめましょう。

なんの益にもならない。自分の生殺しです。


メルマガ「プチ奇跡」にも関連した話を書きました。
(第422号)(最新号のみ公開です)



3月20日からセッションの料金が変わります。
19日までにお申し込みの方は旧料金となります。

本来の自分を取り戻したい方、お待ちしております。
全力でサポートさせていただきます!
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「慈悲慈愛の世界」の補足&続きです。


私たちは二元性の世界のメンタリティを超えて新しい段階に来ました。
それにより二元性の捉え方が変わってきました。

個の世界の終焉と、関係性の世界の始まり。
そこにあるのは慈悲。


生まれてからこのかた、私たちはこの不条理の中で生きていると思います。

生があれば死がある。
自分の中にも善もあれば悪もある。

思い通りにいかない、だまされた、裏切られた、殺し殺され、戦争も差別もなくならない、、、、

自分の中で納得がいかないことをいろいろと経験してきたと思います。
それを自分に納得させるためにいろいろな心理作用がおきます。

その過程を経て、私たちはエゴの思考が自分や現実のすべてではないと知りました。

エゴの視点からもっと広い視点となり、それがますます俯瞰的視野になってくると、敵味方もなくなり、抽象度の高い視点となります。そうなると人間万事塞翁が馬ではないですが、多角的に見るようになってきて、二者択一的な判断では済まなくなってきます。

どちらの言い分も痛みもそれなりにわかり、なぜそのようなことが起こったかの背景を知り、、、ということをしていくと、「誰も悪くない」というところにたどり着くと思います。

どうしてこの世界はそのようなのだろうか?と考えたところでどうしようもない。それに対して何もできない自分のやるせなさもあり。

でもそもそもそれが本当に悪いことか、不幸なことかと言うとそこはまた別な議論ができるわけで、、、。


この世の中がいかに無常かを知る、、、。

といっても無常と感じているのは自分なので、自分が作り出してる世界ではあるわけですが。


「あるがまま」という状態が美化されてしまっている感がありますが、実際のあるがままはそんなきれいごとではなく、まずは「無常」ではないかと思います。

しかし、その無常の向こうにあるのは慈悲。
どちらも知ってこそ自然であり、あるがままなのだと思います。


エゴ的視点から抜け出し、エゴを越えた自分が常在になった時、もう一度、二元論的世界にある矛盾に戻っていくのかもしれません。

その過程で、自分や世界の矛盾や不条理を見つめ直し、自分の中で折り合いをつけていくことになると思います。

その世界にあるすべてを受けとめることができるようになった時、その世界やその自分をもっと愛し始めます。

最終的には、この不条理の世界を生みだしている自分を愛すということになると思います。

そこでやっと「あるがまま」に到達するのではないでしょうか?


この世界を理解していくということは自分を理解していくということです。
自分の認識が広がり深まるほど世界もそのようになっていきます。

真理は一見シンプルですが、その奥ゆきは果てしないです。
私たちは再びその扉を開け、新たな世界に進み出しています。

慈悲慈愛の世界が始まり出しています。



メルマガでも書いています。最新号のみ表示ですので、号が変わる前にどうぞ。→ 「プチ奇跡」


コーチングイベントあります!

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前回からの続きです。
本当はこれを書きたかっただけなのですが、なぜか長々と違うことを書いてしまいました。


この世界で生きていると不条理なこと、矛盾することは多々あります。

私たちがエゴの近視的視点からもっと離れて俯瞰的に世界を見渡すようになると、「これはこうであらねばならない」というのが減っていき、「それもありだよね」が増えていきます。

自分がかけている色眼鏡の色がだんだんと無色透明に近くなっていくのを想像するとわかりやすいでしょう。

その時、すべてを内包するケースと、切り離すケースがあると思います。


深い瞑想のときのように意識が遠のいていて、遠くで起こっているかのようにただ見る場合、
ニュースでも見るように、自分と出来事を別なものとして切り離して客観的に見る場合、
出来事を自分ごとのように感じながらも俯瞰的に受けとめる場合、

とあると思います。

最後のは、そこで起こっていること、ひとりひとりが感じていること、体験していること、すべてを感じて包含しながら俯瞰する状態です。

世界や自分を知れば知るほど、すべては自分の中にあるとわかりますから、矛盾した世界も理不尽な世界も極悪非道な自分も自分の世界の一部です。

エゴが中心で思考していたときは、「自分が、、、」というところが大事で、認めてほしい、愛されたい欲求などが根底にあったと思います。

でもそこを卒業すると、認めてもらう必要も愛してもらう必要もなくなります。

その度合いが進んでいくと、すべての存在を認めざるを得なくなっていくと思います。


なぜ生老病死があるのか?
苦しみ、悲しみがあるのか?
もめごとがあるのか?
不条理なことがあるのか?


そういうことを突き詰めていくと、最後に到達するのは「慈悲」なんだと思います。


「慈悲」は「慈しみ」と「悲しみ」と書くように、矛盾している自分や世界を受け入れた時、理解した時にわき起こってくる感情ではないかと思います。

例えば、良いものを生み出しても、その行為自体が悪しきものをも生み出してしまうような、、、。


俯瞰的視野になるにつれ、抽象度が上がって全体的視野となっていきます。

「すべては幻想」としてみるにしても、現象世界と自分を切り離して、ガラス一枚はさんだかのように他人事として見るのか、すべての立場や気持ちを受けとめながらも巻き込まれずに俯瞰するのか。

どちらを選ぶかは個人の自由だと思いますが、前者は「幻想だからなにをしてもいい」ととんでもない方向にいく場合もありますので気をつけたいですね。

慈悲慈愛の世界は準備ができてない人によってはけっこうきついと思います。

なぜならすべてを受容する世界だから。

あらゆることが起こりうるこの世界において、すべてを受けとめる、受けとめられるのはなかなかタフな作業だと思います。
だからこそ慈悲、慈愛も生まれるのでしょうが。

そこを超えてしまうと(極)楽になると思います。


慈悲自体は辛いものでも悲しいものでもなく、愛おしく慈しむ心だと思います。

この世界で起こるどんなことも受け入れることができた時、世界は慈悲、慈愛の世界に変わっていくのではないでしょうか?

今の荒んだ世の中は私たちがそれに気づくことを待っているように思います。


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前回からの続きです。

自分も世界も矛盾した存在である。
どんなに善人になろうと、その人の中の潜在的悪は消えないし、どんなに悪人になろうと、その人の中に良心はあると思います。

人間に限らずすべてのものは両方を兼ね備えています。
その時の環境により、善になったり悪になったりします。

善悪は人間が作り出したもので、本来、善も悪もないのですけど。


生があれば死がある。
世の中、不条理なことがたくさんある。
自分の中にも善もあれば悪もある。

それを知ってどう生きるか?


自分が楽になったとしても、たくさんの人たちや世界はまだ苦しんでいます。

自分がそのように世界を感じるわけですから、それは「自分が世界をどのように見ているか?」というところで納得できてないのでしょう。

エゴは二元的世界に住んでますが、抽象度が高くなり、より俯瞰的に物事が見れるようになると多様性を受け入れ、多角的に物事が見れます。

なぜそのようなことが起こったかの背景を知り、またその背景を探り、、ということをどんどんとしていくと、きっと「誰も悪くない」というところにたどり着くんだと思います。

とはいえ、人道に外れることや不条理なことも多々あるわけで、それに対して何もできない自分のやるせなさもあります。

そもそもそれが本当に悪いことか、不幸なことかと言うと、そこはまた別な議論がでてきます。

つづく、、、。


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☆8月のセッションのお知らせ☆

対面セッションは、リーディングセッションか、トライアルコーチングとなります。

東京 8/29、30
京都 8/12、16、25、28

遠隔ワークは上記以外の日時も可能です。お問い合わせください。
ネームリーディングは8月後半に結果が出ます。

コーチングコースは、東京は金曜、土曜(午前)となります。
京都は相談のうえ、日程を決めていきます。

セッション詳細

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メルマガ更新しました。(最新号のみ公開です)
その追記です。

今までの世界は、善悪、陰陽、プラスマイナスなどあると、どちらが正しいか、優れているか、という対応の仕方がほとんどでした。
だから競争や争いとなり、ほとんどがこの基準ですから、優劣がついて、今の自分ではいけないと苦しむ人も増えました。

ブスより美人、貧乏より金持ち、良いとされる経歴や仕事、偏差値、etc.

人の好みはそれぞれですし、気にしない人はもちろんいますが、全体的な基準があり、常に比べられるわけですから、「もっとがんばれ」と言われたり、勝ち組負け組があったり、社会適応者と脱落者が生まれたり。

支配派と多数派にあわせないとはみ出し者になるので、みんなそれに沿うようにがんばってきました。

いつもまわりからいわれるので、いつのまにか自分で自分をそのように扱うようになり、「今の自分ではダメだ」「もっと○○にならなくては」と自分を責めたてます。

「それが正しい」という価値観に基づいて、私たちは生きてきたわけです。

それが正しいと言われる世界にいると、それ以外は正しくないことになります。
なので、私たちは正しいほうに合わせようと努力を続けてきました。


でももう私たちは気づいてますね。

その「正しい」って誰が決めたの?

ここに気づき出すと、いろんな疑問がわいてきます。

その世界でそのように生きるしかないのか?
もっと自由に楽しく生きる方法はないのか?
なんで自分は盲目的にそれに従っているのか?


その世界から出てしまえば(といっても実は自分のマインドの話なので、外の世界は関係ないのですが)、そういうことが気にならなくなり、「ヘンな人でオッケ〜」と気楽になれます。

自分の基準や価値観は自分で決めればいいわけなので。

すると自分が関わる世界もそのように変化していき、ヘンな人であることが個性となり、まわりにもヘンな人が集まります。

そうなってくると、まわりにあわせないと生きていけないという、そういう世界がいかに窮屈でなのかに気づき始めます。


メルマガの追記で書きたかったこととはちょっとずれてしましたが、それは次回に書こうと思います。

コーチングコース、始めてます。

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<個人セッションのお知らせ>

5/29日から一部メニューと料金変更があります。
5/28日までのお申し込みは従来の料金となります。

手相リーディングセッションはメニューからなくなりますので、
手相を見てほしい人はこの機会にどうぞ。

東京での個人セッションは5/25(日)10:30~、18:30~
京都での個人セッションは5/27(火)13:00~、14:30~

詳細はこちら

お申し込みフォーム



最近は、思ったこと、気づいたことに関連することをその日や翌日ぐらいに本で見ることが増えてきましたが、今回も「二元性を超える」を書いたあとですぐに「おお!」と思う文章に出会いました。

知ることのできないものを知るのが最上である。

そして、それを知らないのが欠点である。

欠点を欠点として知れば欠点とはならない。

賢人には欠点がない。

彼は欠点を欠点として理解する。

だから、彼は欠点をもたない。

老子の思想」張鍾元著


この本はずいぶん昔に購入して、おもしろくない〜とほとんど読まずに放置していたんですが、数ヶ月前ぐらいから読み始めたら、めっちゃ、かっこいい文章がたくさんあって、「老子、かっこええー!」と一人、悦に入ってます

このブログにも載せようといくつか保存しているので、そのうち載せますね。


矛盾を矛盾として理解したら、欠点をもたなくなります。
だって両方あっていいんだもんー。

というより、どちらもあったほうがいいんだもんー。

ということになりますから。


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前回、自分の言動の矛盾を感じるということを書きましたが、そのことについて今日思ったこと。

地球上では男女、太陽と月、生と死など二つの両極と思われるものが存在しています。

言語は全体から部分を切り取ってそれに名前を付けているものなので、二元性は免れられません。

唯一、言葉を用いないアート的な表現のもの、詩や短歌、俳句みたいに言葉を用いても、それを越えた何かを現そうとしたもの(小説などもはいるのかもしれませんが)、その他、思考が媒介とならないものが理屈を越えたところでのなにかを伝えることができるのかなと思います。


今までももちろんこの矛盾はあったと思いますが、あんまり気づいていなかった。
言葉を使う時に必要外はいちいち意識してなかったし。そういう知識はあったにしろ。

今までは白と黒があったら、思考的にどちらかに偏りがちだったんだと思います。
グレーゾーンもあれど、そのグレーゾーンはどっちでもないか、どちらもありの、なんというのかな、固定した状態とでもいいましょうか、、、そういう感じだったのではないかと思います。

つまり、自分の視点からしか物事が見えない状態ですね。


今起きている矛盾は、両極の両サイドに行ったり来たりみたいな動的なもののように思います。

つまり以前は、Aか、Bか、ABどちらでもないか、3つの選択。

今はAの視点に立ったりBの視点になったりと視点が移動している状態。


ということは、これから男性は女性の、女性は男性の視点に立って物事が見えたりするんだろうか?とふと思いましたが、はてさて?


それはともかく、、、
なるほどこの動きは進歩だなと思います。

多分、二元性を越えていこうという時、どちらもありということを知る必要があるのかもしれませんね。

3次元、5次元の話でいえば、3が黒、5が白で、4がグレーということになります。
でも私たちにはもう次の流れがきていますから、6、六芒星ということになるんでしょう。
上下の三角が合わさったカタチ(二極の和合)。

その時にはグレーの代わりに7、中心から新しい扉が開く。


今はきっと振り子のように右に左に揺れながら、ちょうどいい案配の中心を見つけていく段階じゃないかなと思います。

だから揺れていいんです。
というか、両極に揺れたほうがどちらもの視点からみれるからいいんだと思います。


この世は矛盾しているところですから、それを生みだしていることに気づいていく段階が今なんじゃないかな。

実際は、この世界が矛盾しているのではなく、私たちの思考が矛盾を生みだしている。

それは自我が生まれた時、言語が生まれた時から始まっているんだと思います。
私たちの大いなる意識はもうそろそろそれを越えていこうとしているのでしょう。


矛盾を受け入れた時に何が起きるのか?

自分が矛盾する存在、両極を持つものであるなら、あなたはどうしますか?



そのもやもやの解消に
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東京都内での対面セッション 25日(日)
京都市内での対面セッション 17日(日)、27日(火)

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*5/29日からメニューと料金改訂となります。
 28日までのお申し込みは従来の料金で。


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前回の記事の最後のところの補足です。

映画は子を奪われた母親側からの視点で描かれていますから、観る側の私たちもそちらの視点で判断しがちです。

けれども修道院の人たちの視点から観れば、彼女らはまちがったことをしたとは思っていないわけで、多分、正しい行為をしたと思っているのだと思います。
「多分」と書いたのは、証拠隠滅のために書類を燃やしたりしているので、していることが見つかったら困ることになるとは思ったのでしょう。


映画がもし修道院側のストーリーとして描かれていたら、主人公の女性も彼女を手助けする人たちも悪人として登場していたでしょう。

あんな人たちがいるから世が乱れるということになって、それを見ている私たちも「子供が引き離されるのも、修道女たちが厳しくしたのも当然」と思ってしまっているかもしれません。

実際、メディアやテレビ、インターネットなどによって私たちはいろいろ刷り込まれていますから、鵜呑みにする前に、どの視点から物事を見させられているかを見極めるようにしたいものです。

時代や地域、集団によっても価値観は変わりますから、常にそこのところ吟味する必要があると思います。


罪を犯した人は罰せられるべき、一生罪を背負って生きるべきという考えを持ち、神に仕える人間はその処罰をする役割を担っていると思えば、その任務に忠実になるでしょう。

表向きは「神に忠実に」と信仰心が厚いようで、そういう人たちの心の根底には「神の望む通りにしていれば私は救われる」「全能なる神に従うべき」という神への依存があるのではないでしょうか? 
神の意に背いたらどんな目にあうかという怖さも。

また、神という名のもとに権力を握ろうとしたり、あるいは、なんかおかしいと感じながらもすでに自分の心や人道に外れることをしていたら、それを認めたくないので、ますますその行為と神を正当化強化していく場合も少なくないです。

そうなると、そうであることが正しい、自分は正しいのだとかたくなに固執し、本気でそれを信じてしまいます。

絶対的な神がいると、視野が偏り、思考停止になってしまうのがなによりも問題かもしれません。
その神の世界(といっても人間の思考の世界)ではOKなのですが、それ以外の世界は邪教であり、魔とされてしまいます。

その根底には自分の罪や間違いを認めたくないという怖れだったり、自分を許してほしい、認めてほしいという思いがあるかもしれないですが、それにふたをしてしまって見ようとはしません。


どちらが正しい、正しくないというところに立つと、果ては戦争となってしまいます。

より高い視点を持てば、どちらもありです。
意見が違うことで、私たちはそこから新しいアイデアを導き出し、成長することができます。

私たちは肉体を持って毎日生活しているわけですから常に何かを選択しています。
「どっちもありだよねー」ですまされないことも多々ありますので、その時はどういう選択をするかに気をつけたいですね。

そのためには俯瞰的視野を養うようにしたいです。


ちょっと話がずれますが、「ハンナ・アーレント」の映画。

何百万ものユダヤ人を収容所へ移送したナチス戦犯アドルフ・アイヒマンが実は職務に忠実な公務員でしかなかったというハンナの主張。

ユダヤ人への憎しみから行なったわけでも極悪非道な人間でもない。
いのちの大切さや人を殺めることへの疑問も抱かず、ただ単に事務的機械的に上からの命令を行なっていただけ。

『彼が20世紀最悪の犯罪者となったのは思考不能だったからだ。』

ハンナ・アーレントはそれを<悪の凡庸さ>と名付けましたが、考えなくなることの怖さがここにありますね。



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3月23日までの限定公開です。

映画「フタバから遠く離れて」第一部本篇


「いま」この映画を見てほしい理由は三つあります。簡単にいいます。

一つ目は、福島の原発事故が収束もしておらず、事故の反省・原因究明も出来ていない中で、日本という国がまだ原発を使い続けようとしているからで す。我々はなんとなく「良くないんじゃないか」と思いながら原発の電気を使い続けてよいのでしょうか。今の生活のために将来の子孫に核のゴミを残して良い のでしょうか。これについてちゃんと考える必要があります。

二つ目は、福島第一原発の電力は100%東京首都圏へ送られていたように、原子力発電は不公平に地方に事故のリスクを押し付ける犠牲のシステムであ り、我々日本人はそんな犠牲のシステムにずっと長く依存して来たからです。いったん事故が起きれば、どんな悲劇が起きるのか、原発避難を強いられた方々の 姿を直視していただきたいと思います。

三つ目は、原発避難の時間は一枚の新聞記事や5分のニュース報道では語ることができないからです。ジャーナリズムは言葉で情報を伝えるものであり、 ドキュメンタリーは言葉にならぬもの、時間の重みや人の感情を伝えるものです。事故直後の混乱時は、いつかこの混乱も治まり、いつか町への帰還のメドも立 つだろうと思われていました。しかし、放射線量はずっと高く、国は帰還のメドを示されないまま、時がどんどんと経過してゆきました。置いてきぼりにされた ごく普通の人々の苦しみ、時間の重みを経験していただきたいのです。

フェイスブックページより 舩橋監督のことば

原発はもういらないね。


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現在、ホームページが見れなくなっているようです。
私のパソコンでは見れないけど、スマホでは見れるのですが。
メールも届いていないと思いますので、なにかあれば、ツイッターか、フェイスブックのメールにてご連絡ください。数日内で戻るとは思いますが、ご迷惑おかけします。

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この動画を見て恐いなーと思った。



建物が画一的になり、どの町も似たような様相になり、学校では社会に適応するように教育され、良い大学、職に就くことが幸せだからと競争社会に組み入れられ、大量生産で作られた物を使い、合理化と利益だけを考えられた食べ物を食べて、毎日テレビを見て洗脳され、ただひたすら生きながらえている。
すなわち家畜化。

私たち自身も機械的に飼育され,殺されていく家畜とそう変わりがない。

以前はそこからはみ出る人は異端視,問題視されがちだったが、今は違う。
だんだんと無思考、無感覚になっていた自分に気づいて、規格化された生き方から出ようとする人が増えている。

機械的な世界に住みながらも、私たちは心の中に素晴らしい世界を創造できる。
それを忘れないようにしたい。




私たちはすでにその素晴らしい世界に住んでいるかのごとくふるまうことができる。
それも忘れないようにしたい。


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メリークリスマス!
慈悲と慈愛が満ちあふれますように☆



まず あなたが、愛してください。

あなた自身と、
人がこの村に生きているということを。

もしもたくさんの私たちが
この地球と自分自身をもっと愛することを知ったなら

きっと間にあいます。


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最近、天皇の話が多くなってますが、高尾山の精進懐石の会を主催してくださるゆみさんのブログに的を得た話が書かれていましたので、一部転載!


私にとって、というか
古来の日本人
本来の日本の在り方において

天皇は
自然ないのちの親様であり

形式的なことではなく
日本人の細胞の奥深くに息づく
DNAであり…


無私のみこころで
世界の平和を祈ることを
いのちがけて為されている
その生き様が
その祈りが

わたしたちを影で
どんなにか
支えてくださっているかを…
私の細胞は思い出したので

奇跡、
普通ありえないだろ!と
思われるようなコトが
いとも容易く起きたのですよね〜
(^_^)
と思いました。
マントラと同じよね、って。


私は恩師から聞いて知ったけど
今時代は
まさにその方向へと
流れ出しているようですね


本来の天皇の在り方
日本が
日本人が
本当の姿に目覚めるとき

きっと
わたしたちひとりひとりの
細胞が目覚めて
とてつもないパワーになって

それが全世界へ
地球へ
宇宙へと

同時に拡がってゆくのだろうな、と…
私は信じています
(^_^)


でもそれは
特別なことではなく
普通の道です。
目立つことでなくてもいいこと。


みんなが
それぞれの持ち場で
自分軸で
生かされている感謝に気付けば
いいだけのことで

比叡山チックに言うなら
一隅を照らすこと、だし

自分の周り
ご縁
持ち場(役割)だけに
安心して

受け切って
生かされればいいダケの道でもある。


華々しいことは
案外エゴの声だったりもするので

そういう役割の方もいるかもだけど
比べなくていいことなのですよね〜
(^_^)

   


そういうことなんだろうなと思います。


高尾山の精進懐石の会 満席近し!


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前回からの続きです。

誤解のないように書いておきますが、

『神々しい神様と感応してエクスタシーを感じるのも、大量殺人を犯してエクスタシーを感じるのもその純粋な体感覚は同じものであるだろう』といってもいろんな感じ方があるので一概に言えません。

例えば、ひれ伏して頭も上げられないような畏れ多い大きなエネルギー(存在)に出会ったときは、ただもう頭を下げて、自分の卑小さや傲慢さを省みて、ごめんなさいごめんなさいという感じです。

とても神聖なエネルギーに出会ったときは、しんと静かにそこに座し、清々しい気持ちになるでしょう。
慈愛のエネルギーは許された感覚を得て、自然と涙があふれてくるかもしれません。

でもこれらの感覚は、あるものに接して生じた反応としての感覚だからちょっと違うかな?と書いてみて思ったりもしますが、こういう感覚と殺人のエクスタシーの感覚は全然違うでしょう。

殺人を犯して優越感に浸るとか、残酷感を楽しむとかいうのも今言っている感覚とは違います。


今回のは、理性で考えても解決法がない、不条理、非現実的、超現実的なことなど、自分の力ではどうしようもないことに出会った時、常識の一線を越えた(越えそうな)時の感覚かもしれません。

殺人を犯している時に神に遇ったような感覚を得るとしたらそういうことかな?

映画で,そういう風なシーンに荘厳な神を感じさせるようなクラシック音楽が流れたりするのは私たちの中にそういう感覚があるからだと思います。


今まではそのような感覚は神の領域となるか、鬼やタブーの領域となるかだったと思います。
どちらにしろ通常の人間の領域ではないんですが、もともとこれらはひとつで、分けたのは人間なんだろうなと思います。


ここ数年の流れで、自我(エゴ)支配からの解放というのが一つのテーマになっていました。
なので、「手放す」「浄化」「脱洗脳」「本当の自分」などいわれてきました。

エゴの恐れにとらわれた自分から自由になったとしても、それはあくまで自我の許容範囲内。
エゴから自由になったつもりでいたけど、なんだ、まだ自我の領域内なんだね。
(私の勝手な区別で、エゴは「小さい頃から自分だと思っている顕在意識の部分」で、自我は「個としての自分を認識している自分」という感じです。心理学的に用語があるんでしょうけど)

エゴ支配から解放された自分は心理的には「本当の自分」というかたちでいいんだろうけど、それはまだ表面的なんだなーどわかりました。

実生活を営む分、それぐらいの段階でとまっているほうが楽だし、幸せだし、楽しいと思います。

今までの自我崩壊はしがみついていたものを手放す作業で、手放したところでまだ地に足がついています。

今度は、自我意識がゼロになった領域でもまだ保っている一線、つまり自分の存在や正気を保っている一線を越えて、また新しい自我を形成するという感じでしょうか?

これは今までよりはるかに大きな意識のシフトだなと思いますが、そこに向かうのは一部の人間だけでしょう。かなり境界ですからね。

その人が優れているとか、選ばれたとかいうんではなく、ただその人がそれを望んでいるかどうかというところだと思います。

一握りの人が実感としてその領域を体験することにより、集合意識に変化が起き、全体がもう一つ統合に向かい、変化し始めると思います。

人が悟りや覚醒と言う時、どういう段階を指しているのかはわかりませんが、私自身はまだまだ悟ってもいないし、覚醒してもいないなあと思いました。

やっとこういう段階にこれたと気づいたことで、意識の世界の果てしなさを感じることができました。(でもだいぶん前に「和音」でこういう話出てたんだよね。ブログ記事にもしたけど、どこだったかなあ?)

常識的な自我と論理は介入できない。
前に書いてた「うしろの世界」と私が呼ぶものなんだけど、やっと実感できるぐらいに迫ってきたんだなーと思います。

まあ、私の意識が私の好みと成長に合わせて、そういう流れを作ってくれているというだけなのかもしれませんから、そう思うとこれも自分が作り出しているんだなーと思います。

自分が作り出しているからその世界が現れてくると思うと、自分自身も無限だなあと思います。

  

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前回の話の続きです。

映画の「R100」を見たというところまで書きました。

この映画は酷評されているそうですが、映画としてはともかく、私は松本人志氏がこの映画の中で試みていることを評価したいなと思います。

この映画は精神的にドキドキさせられます。

ごく普通の日常生活のくり返しから、とりかえしのつかないタブーの一線を越えるか越えないかというあたりのハラハラドキドキ感と怖さを主人公とともに感じます。

だんだんと出来事はエスカレートしていき、主人公は最後には一線をすっかり越え、境地に達して非現実が現実になってしまいます。


自我がタブーの一線を越えてしまえば、とてつもない恐怖はとてつもない快感に変わる可能性があります。

そうなれる人となれない人がいると思います。
その違いは何かというと、その部分に対する興味と好みの違いかなと思います。

なれない人は自我崩壊して気がふれてしまうか、悔い改めて社会的に罪を償う方向にいくでしょう。


私の見た夢もこれらの映画もその一線の際を表現しているところがあるなあと思いました。

また最近の傾向で、行き着くところまでいきたいんだろうか?と思われる表現が少なくないようにも思います。
人間の想像しうる極限を体験したいかのように。

人間は飽くなき欲望を持っている動物なのだと思います。


夢での体感が一番強いのですが、先日の白山登拝もけっこう体感的にその部分揺さぶられてました。
こうも立て続けにエグいものやタブーの境界を体験するのはなるほど白山の影響が来てるなーとR100の映画を観てから思いました。

いつぞやのネコがスズメを捕まえてバリバリと食べてしまった話は序章だったのかもしれません。
あのネコはうしろの世界からの使者ですからねー(笑)

私が今関わっている白山のパートはタブーと関係ある部分なので。

エグさの話ではなく、これらが私に示してきたのは、崇高な神聖なる境地も、タブーの一線を越えた境地もその感覚は同じものであるということだと思います。

ここに性と聖の話がつながっていくのですが。


簡単にいえば、神々しい神様と感応してエクスタシーを感じるのも、大量殺人を犯してエクスタシーを感じるのもその純粋な体感覚は同じものであるだろうということ。

ただ、殺人を犯してエクスタシーを感じるときはすでにエゴの恐怖は通り越してないといけないです。

でないと、警察につかまったらどうしよう?とか、人を殺した罪悪感などに苛まされますので、その段階はまだ現実を突き抜けてませんからエクスタシーは感じられません。


非日常的、非現実的、理性の限界を超えるもの。

タブーの極地と聖の極地は、思考を超えたところにある感覚という意味では同じものの裏表なのだと思います。


ということで、また次回に。


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東京都内でのセッションが10/28にあります。
17:30 〜で残り1名様です。

お申し込みはこちらから〜。

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

やっとこさ、先日白山に登ってきました。
15日が山の上の山荘の閉山最終日でしたので、ぎりぎりとなりました。

今回は美濃禅定道を行くことに意味があったので、別山経由で行ってきました。
白山に関してはいろんなことが深くつながっていて、それをどう文章化していけばいいかわかりませんが、大きな転換期ですので、書けるところから書いていきたいと思います。

その前に、先日エグい夢を見ました。
わざわざ載せるので、そういうものが嫌いな人は飛ばして読んでください。

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9日朝、夢を見た。

横断歩道で知人3人と信号が変わるのを待っていると,変なおじさんがやってきてからんできた。無視していると、落ちてたガラスボトルを手にもって割った。

殴れるかも!と思ったら、おじさんはそのボトルの割れた側を口に入れたんで、「ウワー、口切れるで〜」と思ったけど、信号が変わったので渡り出したら、知人らが「からまれたら大変だ」と走って逃げ出したので私も逃げる。

近くの大きなショップに入り、2階に上がっていくと停電となり、真っ暗になる。
全く何も見えなくて、知人らもどこへやら。
あまり動かないほうがいいかな?と、変なおじさんに見つからないことを祈りながら、そこらでじっとしているとそのうちライトがついた。

私は1階のホールが見える階段の踊り場にいたのだけれど、ホールで女の子が人を刺してぐりぐりしている。

すぐ近くにも一人倒れていて、どんどんと血が流れている。
すると一人の女の子がそこへ行って寝転んでゴロゴロ転がるので、そこら中が血の海になり、彼女は全身血だらけになって喜んでいる。

「さっきのおじさんより壮絶だな」と思ったところで目が覚めた。

今も映像でしっかりと覚えていますが、恐怖や気持ち悪さはなく、感情も揺れず、私はけっこうクールでした。
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で、その翌日10日に半日がかりで石徹白まで行って一泊して、白山に向けての登山となりました。

この夢を見る少し前に「エリジウム」を観ましたが、こちらもなんであそこまでエグい描写をしなければならないのだろうか?と思いました。

エンターテインなのか、極端を演出することで何かを感じてほしいのか?


夢を見た翌日、白山に登りましたので、血まみれの壮絶な感覚は残っていました。
今回は濃霧と風と小雨の中を歩き、この天候では精神力が要されるなーと思いましたが、登山の話はまた後日に。


そして「凶悪」の映画を見ました。
これは実話に基づいた話だそうです。

これも残酷なシーンや人殺しを何とも思わない人たちがでてきますが、問題提起している内容はおもしろいと思います。

でも正直いって、答えがない。

人それぞれいろんな意見があると思いますが、「これが正しい」と言えるものがないというのが私の見解。
どんなに考えても普遍の真理なんてないという気がしました。


「あのような凶悪人は死刑にすべきだ」を正しいと思う時、その人の中にある「誰かを(死刑という名において)殺そう」という気持ちは殺人者のそれと大差ないかもしれない。

本人にとっては善や正義という名のもとにあるものかもしれないけど、殺人者にとってもそのときは自分の価値観による何らかの基準において成されているでしょう。

死刑にされるべき極悪人が牢獄で生きる希望を持ち始め、改心し始めると(ふりかもしれないが)、人々の中には「心を改め始めたんだから」と生きる道を与えようとするかもしれません。

でも被害者の家族などは「なぜあいつが死刑にならないんだ?」と思うでしょう。

これらのことは相手のことや正義の制裁をいっているようで、実は自分自身の悪や弱さを見たくないだけだったり、投影していたりしているかもしれません。

デリケートな問題なので、考えれば考えるほど袋小路に入っていくようで、正しい答えなどないように思います。


放射性物質に苦しめられている人たちも理不尽以外のなにものでもないと思います。
普通に暮らしていて突然の被害を被って。自分たちは何も悪くないのだから。
原発マネーで潤ったというところはあるかもしれないけど。


世の中の数々の理不尽なこと、不条理なこと、それらはどうしようもなく、答えもなく、解決法もなく、、、。

自分の観た血まみれの夢と相まって、そのどうしようもなく不条理で理不尽で無力で、理性では解決できない、どうするすべもない感覚をしばらく感じていました。

そういう感覚に陥ったときは、なんの判断もせずにすべてをそのまま受け入れて達観するしかないと思いました。

自分ではどうしようもない。
いくら考えても答えがない、解決法がない袋小路。

それについて一生をかけて取り組んでみることもできるけど、多分答えはない。

それを判断しようとしているのは理性をもったエゴですから、もうそういうところを脱して達観してしまえば,善悪の判断もなく、そのままあるがままを受け入れることができ、かつそれにとらわれずにすみます。

一歩まちがえれば、逃げのように見えるかもしれませんが、ここでは善悪や正義を問いたいのではなく、タブーを超えた時に何が起きるか?というところの話なんだと思います。


なんて思って、次に観たのが「R100」。
松本人志さんの映画を観たのは初めてですが、この人はすごいなーと思いました。


続く、、、


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