いのちおりblog - 本来の自分に還るために

人生をよりクリエイティブに生きたいあなたに贈る
   悦月(えつき)のブログ(旧ブログタイトル:たまむすひ)
                                    

カテゴリ: 自己表現、自己実現

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私はよく「すべては自己責任」と言います。

確かにそうなんですが、それは言い換えれば、
自分の状態が外の世界に反映する」からです。

同じ時刻、同じ場にいたとしても、
何を体験しているかは人それぞれ違います。
まったく同じ現実であることはあり得ません。


自分が体験する現実は、言い換えれば、
自分にはその現実以外は見えていない
ことになります。

でも人は違う現実を体験しています。

違う現実の可能性も山ほどあります。


自分が考えることは非常に限られた
自分の知識と体験の中での話です。

その中で私たちは必死に悩み、
「どうにかしなくては」と思います。


もしストレス多い人生なら、何かをする以前に、
なにを根拠にそれをしているか? そう思うのか?
の前提を見つめ直した方がいいです。

そこは見ずにやり方だけを変えて
どうにかしようとしても、

元を成すところがそのままであれば、
見えるものもそのままです。


錆び付いた水道管を使っていたら、
茶色の水が出ます。

いくら蛇口をきれいに磨いても、
水はきれいになりません。

それと同じです。


蛇口はすぐに磨けますが、土の中に
埋まっている水道管は簡単には掃除できません。

それなりの手間と時間がかかります。

だからよっぽど水が汚くならない限りは
後回しにしてしまいます。


自分の信念体系を変えるのも同じです。


例えば、

「私は悪い子。だからいい子にならなくては」
という前提のもとに、いい子になろうと
努力したとしても、そもそも

「あなたは本当に悪い子ですか?
”悪い子”ってどういうことですか?」

というところを問う必要があります。


誰かの影響を受けたか、そう思う方が
自分にとって楽だったり処世術だったりしたのでしょう。

しかし今もそうである必要があるのか?

客観的に見れば、デメリットのほうが多いです。


エゴの自分だけで考えようとすると、
どうしてもそれまで自分を支配してきた
感情や思いにとらわれやすくなります。

そこが自分にとってのコンフォートゾーン
なので、そこにとどまりたくなります。


「本当にそこから脱出する」と決める
ことができた人は出れます。

決断できるまでが長いんですね。

「決断」とは、決めて断つ。
決めたつもりでも、なかなか断てない。


しかし、そんなに気張らなくても、

「ちゃんとしなければいけない」と
思いがちなエゴ意識以外にも、

大きな視野を持ち、信頼に足る意識が
自分の中にあるのだと知ると気持ちが楽になります。

そちらがまっとうなことを言ってくれると、

「あれ?自分の中にそんなことを
 言ってくれる存在があるの?」

と不思議な気分です。


エゴががんばってがんばって
どうにかしようとしなくても、

なぜか私たちはその愛ある”内なる声”を
聞くと安心し、従いたくなります。


自分の中のその「何か、誰か」は
エゴにとっては未知の存在。

理解できないんです。
自分の外にあるから。
(いや、内だけど、笑)


主体だと思っているエゴ意識が弱まると、
もっと大きな存在を感じることができます。

それはエゴにとっては羊水の中にいた頃の
安堵感を秘めています。


昨年は「オートマティックライティング講座」
と称して自動書記の講座を開催しました。

自動で文章が書けることも素敵なことですが、

普段のエゴ中心の意識から解き放たれて、
自分の中にも神様みたいな存在やアドバイザーが
いるのだと気づけて良かった

「自分が頑張らなくては」という思いが
抜けて楽になった

という感想が多かったです。


右脳は無邪気です。

水道管を直さなくても、裏庭を掘ったら
飲料可能な美味しい湧き水が湧いてきたわー

なんてことが人生に起こりやすくなります。

そんな笑える奇跡を
人生に起こしていきたいですね。


エゴ支配から解放されたい人、
自分の想像力、発想力を鍛えたい人、
自分の内的世界を豊かにしたい人、

ゆる〜く楽しみながら
脱皮していきたい人はぜひどうぞ〜!
 ↓
マインド&アート・レッスン

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スクリーンショット 2018-12-15 23.51.19思った以上に良かった展覧会。
 
いい書は「今ここ」を感じさせる。
 
それ以外はあり得ないと感じるほどに
絶妙な形と位置でそこに存在する。
 
墨で書かれた文字や線は、
瞬間を生きている証。
 
研ぎ澄まされた緊張感。
有無を言わさぬ説得力。
 
生の極致が現れてくる。

紙の白紙の部分は
決してバックグラウンドではなく、
墨と同列な存在。
 
文字は絵と化し、象徴と化し、
言葉でない言葉を響き渡らせる。

こちらに書家さんのインタビュー動画もあります。
 ↓
見る、知る、感じる 現代の書


ムンク展もしていますが、
私にはこちらの書の展覧会の方がインパクトが強かった。

ムンクが死を見つめた生であったなら、
書は死を超越した生なのかもしれない。

「死を超越」とは、死を思い起こさせないほど「生」を感じさせるから。

ムンクもかなりすごい。
基礎がすごくできているのには関心。
色と筆使いが天才的。

若い頃の絵は、自分と外の世界の境界がかなり曖昧でヤバい印象を得た。
イっちゃってる人が描いたような境界を超えた感のある絵もいくつかあった。
精神的にだけど。
実際、ムンクは精神疾患を抱えていた時期もある。

後年の絵は、光が入ってきて、自分が実在感を感じていたようなので良かった。

この二つの展覧会、見ているものは同じかもしれないけど、
それが光として見ているのか、闇として見ているのかの違いなのかもしれない。

どちらも私たちの意識が到達し難い領域を表現しようとしているように思える。


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夢を持ちなさい。
目標を持ちなさい。
ゴールを見つけなさい。

と言われます。

私もコーチをしているので、そのようなことを言いますが、
ここで気をつけることがあります。

それらを持つのはいいですが、
小さなところにとどまらないこと。

小さな夢に自分を固定してしまえば、
それは夢ではなく、縛りです。

私たちが普段使っている脳は
全体の3%にも満たないと言います。

その3%で自分の未来を制限してしまう
のはもったいないことです。

自分の可能性を制限することではなく、
解放すること。

97%の可能性に自分を開くこと。

そちらの方が大事です。

ではどうするのか?

となると、

夢を持ちなさい。
目標を持ちなさい。
ゴールを見つけなさい。

という話になるのですが。

ただ、その夢や目標やゴールは97%に任せたい。
そこが発動するように3%を使う。

3%の脳が設定する夢や目標やゴールが、
自分がまだ知らない97%の可能性をちょっとでも
発現させるためのものになれば、それでいいです。

それはあなたがするのではなく、
あなたの無意識がやってくれること。

その邪魔をしないことが大事です。

でもそのアクセスへの道を開くのはあなたです。

あなたが本当にすべきことは
あなたの97%はすでに知っています。

でも3%が邪魔をして、
ちっちゃな自分に収めておこう
としてしまいます。

それは習慣化されています。
そのように教育されてきてしまったのですから。

少しでもそこを開いていきたいのなら、
自分の範疇内の3%に留まろうとしないこと。

常識に縛られない。
やりたいことをやってみる。
人の目を気にしない。
バカになる。
今の自分を壊す。

あなたの”本部”から無意識に飛ばされている”信号”は
確実にあなたに必要なものをキャッチしています。

しかし顕在意識という検閲に引っかかって、
ほとんどその門をくぐることができません。

自分の頭がゆるく解放されていると、
必要な情報が来た時にキャッチし、

複数の情報がピピーンとつながって、
「あ、これだ!」とわかります。

それに抗わず、その道筋に落ちているサインを
拾い上げながら進んでいくと、

「これだよ、これが欲しかったんだよ!」
というもののカタチがだんだんと見えてきます。

最初はそれはわかりません。
けっこう見当違いも多いです。

だからまずはアタリをつける。
しかし3%を超えたところに設定する。
そして、そこに向かって進んでみる。

違うと思えば、軌道修正をする。

そうやって進んでいけば、だんだんと
あなたの行く道が見えてきます。


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「自信を持つ」というと、何かができる、
達成できる自信のことを多くの人は思います。

つまり何らかの結果を出す自信です。

しかしそれはやってみないことにはわかりません。

「自信がない」は、できるかどうかに確信が持てない。
「自信がある」は、できる確信がある。

しかし本当に自信があることに対しては、
「自信がある」とはいちいち思いません。

明日朝、目覚めることに自信がある。
服を着ることに自信がある。

とは言いません。

それは自信云々に関係なく、できると思っています。

「自信がある」も「自信がない」もまだやっていないことに対して、
結果が出ていないことに対しての感情的、主観的な思いです。

ならば、自信を持つところを変えてみましょう。

自分にできる自信がないとしたら、
どこまでなら自信が持てるのか?

達成することに自信がないなら、
挑戦することには自信が持てるのか?

やり続けることには自信が持てるのか?

やろうと思う自分に自信が持てるのか?

結果を出すことに自信がなくても、先がどうなるかわからなくても
それに向かって進むことには自信が持てれるのか?

それはあなたがそうすることを覚悟できるかどうか?
という話であり、自信があるないの話ではありません。

だから何かをするのに自信はいりません。

やりたいか、やりたくないか?

やると決めるか、決めないか。

自分自身との対話です。

自分に自信があるとは、どれほどのことを
成し遂げたかの結果ではなく、

自分がやることに誇りと誠意を
持ってやっているのか?やれるのか?

ということではないでしょうか?

結果重視の世の中ですが、そこばかりを見ると
殺伐とした競争に巻き込まれてしまいます。

すでにある結果は、過去の出来事です。
それを基準にする必要はありません。

過去の自分のデータから、できる/できないと思うのではなく、
未来の自分ができていることを信じて、ゴーサインを出しましょう。

あなたがやり遂げたいことが実現している未来では、
当然ながらそれは実現しています。

だから今自信がなくても大丈夫です。

そちらに進んでいくうちに自信がついてきます。

「自信があるからする」というのはしょぼいのです。

「自信がないけどする」という人が、
現状の枠を超えて成長していけます。


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「本当の自分」というと、世間では、
なんだかきれいにラップされたような雰囲気があります。


本当の自分になれば、やりたいことができる。

我慢せず、自分らしくあれる。

能力発揮して成功できる。

人に気兼ねせず、自由に好きなことをしている。

毎日が楽しく過ごせる。

こんなことを思い描いている人が多いと思います。


「本当の自分」と「今のあなた」の違いはなんでしょうか?

考えてみてください。


本当の自分になったらどんな風だと思っているのか?
今の自分はどんな風なのか?

理想の自分と本当の自分は、同じなのか?違うのか?


赤ちゃんの頃は、”本来”のそのままの自分です。

まだ自我が芽生えてません。

自分のことを認識しておらず、
周りの世界と自分と区別してません。

屈託のない純粋な赤ちゃんは天使のようです。


あなたはそうなりたいのでしょうか?


本当の自分、本来の自分になりたいと思いながら、
「じゃあ、どんな自分?」と聞かれても、

悩み事がなくって、
自分のことが大好きで、
人とうまくコミュニケーションとれて、
やりたいことがやれて、、、

と自分のことなのに、
一般的な答え止まりなことが多々あります。


私は「本当の自分」なんてないと思っていますが、
「本来の自分」であれば、

生まれてこのかた身につけてきた後天的なものを
すべて取っていったあとで残るもの。

その自分が基盤となり、その上に、
後天的に学んだこと、身につけたことが付加され、
成長の糧となり、強化され、

あなたが持つ可能性と役割に生かすことができる
ことが本来のあり方でしょう。


経験してきたことはすべて無駄ではありません。

しかし、あなたの才能を制限してしまう考えや価値観などは
早めに取り去ってしまう方がいいでしょう。


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最近、内向的な人たちのことを考えています。
私自身も内向タイプなのですが、彼らが秘める内なる世界。

表にあまり出さないので、その人の内に秘められることが多かったです。
これからはその部分が ”クリエイティビティ” として、クローズアップされていくようになると思います。

今までの時代は外向タイプの人に向いていて、理路整然と意見が言えるとか、明るくハキハキしているとか、周りの人たちとすぐ友達になるとか、一緒にいて面白いとか、すぐ行動に移すとか、そのように表に向かって行動できる人たちが良いという傾向がありました。

外に向かうエネルギーですね。

自分を出さない人たちは意見は言わないし、何を考えているかもわからないし、大勢の中に埋もれてしまい、朱に交われば赤くなって目立ちません。

その中でも強い個性を持つ人たちは、その才能を発揮していきます。
研究者やアート系には内向タイプは多いです。

多くの内向的な人たちは、幼い頃に自分の内的世界を表に出すことは良くないことだと学んでしまいます。
うまく言葉で表現できなかったり、人といると疲れたり、引っ込み思案になったり。
親にはもっと外で遊びなさいとか、もっとはっきり言いなさいと言われます。

自分はダメなんだ、なんで積極的になれないんだろう、友達がなかなかできない、、など自分についていろいろ悩み、ネガティブに陥りやすいのは残念な事実。


明るく楽しい人には、人が集まやすいです。
facebookを見ていてもそうですが、元気よく楽しそうな記事をアップしている人たちの元にはたくさん人が集まります。

もちろん内向的な人の記事でもたくさんの人に読まれているものはありますから、一概に言えないですが、外向的な人たちは目立ちますし、楽しそう、幸せそうに見える人が多いです。

まあ、そんな感じで、内向タイプの人たちの内的世界は放置されてきたように思います。
しかしながら世の中で成功している人たちの中には内向タイプも多いです。

なので、外向がいい、内向が悪いという話ではないです。
が、世間的にはそのきらいはありますね。

日本は周りに合わせる文化、人と同じことが良しとされる風潮があります。
内向的な人たちは、自分を出すことに躊躇してしまって、無難な自分を演出してしまいます。


今回言いたいのは、内向タイプの人たちの内面は、想像以上に豊かなのではないか?ということです。

彼らはそれをあまり表に出さないので、人知れず消えていっていたのですが、これからはそういうところがクローズアップされるようになるのではないでしょうか?

内向的というわけではないですが、知的障害の方々のアートなどもその一つですね。


外向的な人たちのエネルギーは外に向かうので、外の世界で表現します。

内向的な人のエネルギーは内に向かうので、内的世界が人知れず養われています。
が、多くは表に出ることなく、言葉にもされないままに、気づかれずになんとなくある状態。

今、引きこもりやうつの人が多いのも、内的世界がないがしろにされてきたことへの警鐘なのかもしれません。

内向型の人たちがネガティブな内的世界を繰り広げるのではなく、その創造性豊かな世界を勇気を持って外の世界に表現していけるようになっていったらいいなと思います。

というか、そういう流れにこれからはなっていくんだろうなと私は考えています。

例えば、今はインターネットの発達で、個人の表現がいくらでもできる時代になってきています。そういうものもどんどんと活用していってほしいなと思います。


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日本では、モノに魂が宿るとします。
年数を経たものはとくに神聖視されるか、妖怪と化すか。

日本の家は、昔は木と土と紙だったから、実際、生きていました。
良い素材で作られた昔の家は、実際、生き物みたいです。

植物は根っこで連絡を取り合ってると言います。

家も長年の時が過ぎれば、魂を得ていてもおかしくありません。
通常は、住んでいる人の気が移っていくのでしようが。

もしあなたの家が下に根を張ってるとしたら?
あなたがどんな気持ちでその家に住むのか、それが彼らの栄養素かも?

あなたの毎日を見守り、観察し、どこかに報告しているかもしれません。


レアンドロ・エルリッヒ展に行ってきました。
この展覧会は、普段の視覚、感覚がいかにあいまいかを教えてくれます。

私たちは、ある限定された知覚、認識によって現実を認識しています。
あなたが体験している現実はあなたがそう知覚しているからにすぎません。

例えば、ハエはあなたとはまったく違う世界を体験しています。

今あなたが見ている世界は、あるお約束ごとに則って、
その前提に従って認識をしています。

その前提が崩れてしまうと、
絶対だと思った世界はいとも簡単に崩れていきます。

現実の曖昧さに気づいていくと、創り出すことの大事さに気づきます。

あなたの認識があなたの現実を見せてくれています。

あなたの認識が変われば、現実も変わります。
意図的に認識を変えるなら、あなたの世界もそれに応じて変容します。


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人間の能力はすごいと思う。

「犬」を犬として区別するものはなんだろうか?と思う。

ひらがなで「いぬ」と書いても、カタカナで「イヌ」と書いても、
犬のイラストを見せても、写真を見せても、「いぬ」と音で発音しても、
実物の犬を見ても犬だと思える能力はすごい。

「そんなの当たり前じゃん」と思うかもしれないけど、
何を根拠にそうやってひとくくりにできるのか?

犬といっても、チワワもいれば、チャウチャウもいるし、
柴犬やドーベルマンやセントバーナードもいる。

毛が長いのもいれば、短いのもいるし、大きさもまちまち。

四つ足動物は犬以外にもたくさんいる。

その中から、これは犬、これは猫、これは狐、これはタヌキと
区別できているのはすごい能力だと思う。

字で書いた「犬」と、実物の犬が同じだと認識できる力は相当抽象度が高い。

鏡を見て、そこに自分が写っていると認識できる動物はそう多くないらしい。

そして、この能力は、10年前の私と、今日の私と、未来の私を
同じ人物と認識する能力を持っている。

60日?ぐらいで身体の細胞は全部入れ替わるらしいから、
肉体的にはすっかり変わっているわけだ。

でも同じ自分だと思っている。

過去の自分を目の前に出せと言われても、それは記憶の中にあるから出せない。
でもそれをしっかりと自分だと思っている。

小学校に通っていた自分と、子育てしている自分が同一人物だと意識することは
過去から未来へという時間軸の中で、一つの人物が継続して変化しているという、
自分という存在を認識しているから起こること。

過去の記憶がなくなれば、自分のアイデンティティがわからなくなるように、
私たちは過去の記憶によって自分を認識している。

でもその記憶が本当に自分が経験したものか、
いろんなものをつなげて、「自分」というフレームに入れて、
後付けで作られたものか、それはわからない。

犬を犬と認識するように、自分を自分と認識しているその基盤となっているルールが壊れれば、自分という存在の境界が曖昧になるか、新しい定義がなされるだろう。
猫か犬かわからない動物が出てくるかもしれない。

その一線を超えないように、意識が「これはこれ」「あれはあれ」としていることによって
個の認識があるのだろうが、今、そこが変わりつつある。

「自分は何者か?」と悩むより、「自分は何者になるのか?」と決めるほうがいい。

そうすることにより、新しいゲシュタルトが作られて、
自分という存在の組み換えが起きる。


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前々回からの話の続きです。
まだ読んでない人はそちらを先にお読みください。
 →「パラレルワールドをはしごする技術」「希望が生み出すスコトーマ

前回の記事で、
「何かを求めることは、その他をシャットアウトし、盲点を作り出す」
と書きました。

救いを外にばかり探し求めて、何かが自分を変えてくれるんじゃないか?
どこかに自分の求めているものがあるのではないか?

といろんなセミナーやワークショップに出て、
そういうものに参加してないと不安になったり、
参加していたら自分は進化しているんだと勘違いしていたり、

何か自分が打ち込めることを見つけたいと、いろんなセミナーや講座に参加し、
この資格、あの認定とたくさんの肩書きを得て、自分はがんばってると思っていたり、

いろいろ関わってはみたけれど、なにひとつ続かなかったり、、、

これらはみな、外に救いの糸を探しているから。

探すのはいいですが、やればやるほど
「救いの糸は外にはない」と気づいていくでしょう。


「自分の何がいけないのだろうか、、、?」

「何も悪いことないよ。その考え、やめたら?」

ってだけだったりするかも?

それに気づくまでに何十年、何百万と、
時とお金をかけることになるかもしれません。

その経験は価値あるものだし、宝ですが、
ずっと救いの糸を探しつづけていたいかどうか? ですね。


人によっては「探しつづけること」をしたい人もいます。

その場合は見つかってしまったら困りますから、
「救いの糸が見つけたい」と言いつつ、
本当に見つかることや救われることにすごく恐怖を抱いています。

だけど見つからないことは、それはそれでストレスになってます。

矛盾していますね。


違う角度からの同じ話ですが、

料理で、自分の一番好きな食べ物は最後に食べようと
とっておくワクワク感みたいなもので、

「手に入るまでのプロセスを自分は楽しんでいるんだ」と気づけば、
見つからないことはストレスにはなりません。

「見つけなければ」が「見つける楽しさ」に変わって、ワクワクします。

「見つけること」がゴール達成ではなく、見つかったらまた次の展開があると知れば、
早く手に入れて、次の段階に行きたいと思います。

手に入れることを恐れなくなるどころか、ワクワクし始めます。

自分がいったいどういう「救いの糸」を求めているのか?
注意してみてください。

その糸を求めている限り、他の方法や解決法は見えない
と頭の隅に置いておきましょう。

外に救いを求めることをやめたとたんに、
実は自分がすでに欲しい状況を手に入れていた、すでに叶っていたと気づいたり、
自分はこのままでいいと思えたり、自分に変えていく力があると気づいたり。

気づけば、状況が変わりだします。
スコトーマが外れますから。

それに気づくまで、私たちは長い時をかけて試行錯誤していきます。
それもまた経験値となっていきます。

救いの糸を求めるのも経験、内なる自分の光に気づくも良し。

結局は、自分が真に欲するものを選択しているか?なのでしょうね。

みんな、実は選択しているけど、
「自分が欲しているものがそれだ」と気づくまで求めつづけるんでしょうね。

それは往々にして、自分が本当に手に入れたいものとは違っています。
だからこそ自分を内観する必要があります。


(記事整理に伴い、過去記事を加筆訂正後、アップしています)

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「すきなことをすればいいんだよ」
「自分を喜ばすことをしようよ」といわれても、
何をすると楽しいのか、うれしいのか、心地よいのか、
わからない人がけっこういます。

そういう人は、自分で自分が幸せになるのに
ブレーキをかけているのかもしれませんし、

情報に翻弄され、本当に自分が欲しているものが
見えなくなってしまっているのかもしれません。


そもそも自分ってなに?

生まれたときから一緒にいる自分なのに、
自分のことがわからない。

純粋無垢で生まれてきたのに、
どんどんいらぬものを身にまとい始め、
気がついたら素の自分がわからない。

それでかまいません。
そんな自分を受け入れてください。

人生って自分のことを知っていく旅ですから。
知ろうとする過程が大事です。

まずは身にまとってしまったいらないものを捨てましょう。

いらないものを捨てていくと、
本当に自分が欲しているものが残っていきます。

心を落ち着けて、耳を澄ませて自分に聞いてみましょう。

「これは本当の自分に必要なもの?」
「これは本当に欲しているもの?」

部屋にある物、心の中にある物、、、、。

まずは物から捨てる方がやりやすいでしょう。

違和感を感じるものがあれば、
捨てるなり人にあげるなりしてしまいましょう。

なかなか捨てられないなら、
とりあえず箱の中にしまっておきましょう。

3ヶ月経っても開けて使ってないようなら、
そのまま開けずに捨ててしまいましょう。


「本当に自分が欲しているものは何?」

問いかけ続けていると
だんだんとその答えが見えてきます。 (061217)


(記事整理に伴い、過去記事を加筆訂正後、アップしています)


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10月のメッセージに出た「ぽっかり空いた穴」から始まり、闇の話に進んでいるのですが、
これがどんどんと変化しているのが面白いです。

「闇は鏡のようなものだ」と書きました。

何にしても、ある出来事に対してそれをどう受け取るかはその本人次第です。
楽しいと感じる人もいれば、怖いと感じる人もいます。

「穴」「闇」が、私たちが理性でタッチできない無意識領域と捉えるのと、
心の闇、ネガティブな思いと見る場合とあります。

向き合ってみれば、怖いと思っていたものは全然怖くなく、
母親の胎内にいた頃の闇のように心地よく優しい。

怖い闇から優しい闇になってきました。

そして、次に現れてきたのは闇のパワー。闇に潜む力。
私たちの潜在能力とか、自然の力と思えばいいでしょう。

人は誰しも自分の中に眠る無限のパワーを感じています。
でもそれを解放すると、とんでもないことが起きるんじゃないか
と恐れてそれを封じています。

そのうえ、たくさんの人が育ちの過程で、才能を伸ばす方向より
抑えて型にはめさせられる教育を受けています。

自分の中にスゴい力が眠っているのを感じながら、
大人になってからはそれをどう発揮していいかもわからなくなっています。

そして、それを発揮したいという思いと、
それを発揮したらとんでもないことになるんじゃないかという恐れとを持ち、

結局のところ、無難にして荒波を立てず、その他大勢の一人の中に紛れ込んで生きていきます。

多くの人がその他大勢となり、みんなと一緒だし、と安心して成長をストップしてしまいます。

でもその中で、自分の中に眠る力をどうにかして発揮したいともがく人たちもいます。

闇のパワー。

これがもうそろそろ解放される時期になって来たのかな?

でも、黒魔術とか、悪の力とか、
そういう意味での闇ではなく、先ほども書いたように 

”優しい闇”

自分とともにあるような、だからこそパワーを発揮できる、
マザーアースのような闇に変化しつつあるのを感じます。

この1週間でこんなに刻々と変化していて面白いなと思います。


最初、心の闇と出た時に、そこはもうやらないんでいいんじゃないの?
と感じました。

掘ればどんどん出てくるところではあるし、ある程度の整合性が自分の中で取れたなら、
そこを完全にクリーンにしようとするより、未来創造に進むほうがいいです。

完全にクリーンになんてできないし、する必要もない。

闇はあったほうがパワフル。
味方につければスゴい力になってくれます。

スゴい力といっても、人を思うように動かせるとか、
欲しいものがバンバン手に入るとか、そういう話ではありません。

人生の洞察がより深い認識を得て豊かになる、という意味合いでのすばらしさです。


そんなことについてお話しするセミナーです。(早割は今日までです)
 
■セミナー詳細■

日時:10月15日(日)14:00〜16:00

場所:秋葉原駅から徒歩5分
(お申し込みされた方にお知らせします)

料金:早割:8000円(10/8までのお申込み)
   9日以降:1万円

定員:7名(残4名)

お申し込みフォーム

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前回の記事で、

『女性の内的集合宇宙、宮的育み、、つまりは内面で育てていく作業。
 孵化作業みたいなもんですね。』

と書きましたが、今日はそれについて。

もしかすると以前もどこかに書いたかもしれませんが、
女性の質のひとつとして「育む」ことがあると思います。
男性は、外側に構築していくことにたけてますね。

一番のそれは「子を育てる」ことでしょう。
一人の人間を育てていくのですからたいへんなことです。

父親や他の家族、その他環境などの影響ももちろんありますけど、
やはり生まれてしばらくは母子間のつながりが一番強いでしょう。

十月十日自分の体内で育んできた生命が生まれ出ても、
母子が共有している内的世界は目に見えるかたちでは現れません。

言葉では説明しがたいけれどもそこには育まれたものがあり、
生まれ出てからも「つながり感」や「一緒感」があるでしょう。

「場」を共有しているわけですが、いつもどこかでつながっている感じ。
一緒にいなくても多少離れていても感じる共有している「場」。

ここでいう「場」は、実際にある特定の場所ではないので「ここだ」と限定されません。
共有されているエネルギー場のことです。

母子でなくても、心が繋がっている人同士であれば、感じ得ますね。


女性はもともと共感力のある人が多いですから、ことばにならなくても
なんとなく察知することに長けています。
ずっと昔はもっとその部分が発達していたんだろうなと思います。


縄文時代は、「円」社会でした。
家の造りも円形。村の造りも円形。
円は循環であり、自然の循環した流れに沿って暮らす。

とんがったところがないから戦争が起こらず、1万年以上も続くことができたのでしょう。

火を焚いてそれを囲んで話をすれば、穏やかに腹を割って話せそうだし。

縄文時代に寺子屋みたいなのがあったかどうかわかりませんが、
子供達に何かを教えるのも円になって教えていたかもしれません。

集う時は円形が基本だったのではないでしょうか?


女性たちが手作業や子育てをする時は、今と変わらず、ぺちゃくちゃ楽しくおしゃべりをしたり、歌を歌ったりしながらそれをしていたでしょう。

以前、あるイベント準備で女性たちで手作業をしていましたが、
自然と歌が始まって、みんなで歌いながらやってたことありました。


女性は共感力が強いと思いますが、そういう環境において、
自然と彼女らが育んでいたものがあったと思います。

彼女らが時をかけて作るものは、今なら「祈り」や「願い」という意味合いで解釈されそうですが、織物に込められた思いや、胎児がお腹の中にいる時など、自分が育んでいるものに対する思いを育んでいたと思います。

アーティストや職人さんが作る作品なども同じようなものかもしれません。
魂が込められたものはやはり見た感じからして違います。

心を込めるという意味では、男性女性は関係ないと思いますが、それをその場で共有するという意味では、男性より女性の方がはるかにその方面、強かったと思います。


長い間、男性原理社会だったので、そういうところがおなざりにされ、
統制側にとっては不都合なことなので徹底的に弾圧されてしまいました。

女性の集合無意識は傷つき、今その復活で少しずつ変化していっていますが、これから女性性の時代になっていくにつれ、今一度、女性たちの内的豊かさを取り戻すことが大事だなと思います。


男性の女性性が豊かになることも大事ですが、まずは女性がもう一度、
その集合意識的な「情報場」に気づき、アクセスできるようになることが大事かと思います。

それはふわふわスピ系的なものではなく、あえて言えば、すごく土着な感覚。
大地に根ざしてて、大地につながった女性なら当たり前のごとくしていたこと。

たくさんの魚がひとつの生き物のごとくになって泳いでいるような、
あんな感性が備わっていると思います。

長い間、そのバイパスが遮断されていた感ありますが、再びゲートが開き始めたようです。
言い方を変えると、天体の影響や人々の意識の変化がその情報場の存在を知らしめてくれているということでしょう。

その集合意識のラジオ局にあたる部分は地球の意識なのかもしれません。

これからその感覚、ゆっくりと強まっていくと思います。

女性の精神性を高めることが大事ですね。

男性の精神性は、「神」に向かうというか、直線状に上に行く感じありますが、
女性の精神性は、広がる感じ。共鳴共感して響き合ってその場から四方八方に広がっていく。

この両方がバランスよく混ざり合うと、進化と内的成長と一体感がうまく融合しそうです。



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今日の遠隔ヒーリングで気づいたことのシェアです。

コーチングコースを受けておられるHさんにさせていただきました。

彼女の内的世界はとても豊かです。
けれども、今までの社会ではそのようなことは、

現実的になれ、
遊んでばかりいるな、
それでどうやって稼ぐねん?
いらんことばかり考えるな、

と言われるようなことです。
実際に言われていたと思います。


意識内でイメージされたものが物質界に現れてくるとすると、
豊かな内的世界(それは夢に見るような非現実なものかもしれませんが)が
育まれることはとても大切ではないでしょうか?

私たちは「現実に稼げてなんぼ」というお金教に洗脳されていますから、
お金に直結しないことは無駄、余計なこと、怠けている、などと思いがちです。


最近、女性のあり方についてよく考えています。

男性は目標に向かって現実化していくのに長けていると思います。

女性はあまり理性的でなく、感覚的だったり、もっと自然とつながったところがあります。

彼女らの自由な発想や想像力は、現実的ではないことがたくさんありますから、無駄なこととしてないがしろにされてきました。

直接に収入につながらないことなので役に立たないこととされてましたが、
彼女らが描く(感じる)内的な世界の情緒、感性などが豊かになれば、
現実の物質界にもよい影響をもたらすように思います。
これからはそこをもっと解き放っていくべきと思います。

イメージしたことは現実になっていきます。

女性たちの内的世界が豊かになれば、
それはいずれ男性陣がこの物質界に現実化させてくれるでしょう。

男女の役割として分ける必要はなく、男性性、女性性としてみればいいと思います。女性性の強い男性、男性性の強い女性もいますし。


今までは、外側の世界(物質的世界)を充実させることに力を注ぎ続け、
それはお金で判断されるようになりました。

その分、すぐにはお金をもたらさない内的な想像の世界は
おなざりにさせてきました。

今一度そちらの方面を見直して、
クリエイティブに生きる術を身につけていきたいですね。


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共感覚は動的だと思いました。
 
共感覚でない人が共感覚を研究してもずれてしまうんじゃないかな?と思います。
  
数字に色がついて見える、
文字に色が見える、
音、色、形が見える、
 
など言われます。
そういう風にパターン化されると、私は共感覚じゃないのかも?
と思えてしまいます。
 
でもこの動画の4:30あたりからの話で、
 
数字に色と形があり、それが動きを伴って、合体して違う形になり、
という映像にはものすごく納得。


数字が風景に見える、
数字の2は右から左へと動き、揺れているような感じ、
6は滑らかで何かが足りないような、穴、かけているもの、ブラックホールのような、

というダニエルさんの動的な数字の表現の仕方がすごくすんなりと受け入れられます。
 
やっぱ私は共感覚者か〜と思いました。
数字は見たままの数字に見えますが。
 
私にとっての共感覚は静的ではなく、動的です。
共感覚は静止画ではないんですね。
 
ということで、今日は共感覚のワークショップを行ってきます。


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私が「共感覚」という言葉を知ったのはそう昔の話ではありません。
といっても6〜7年前かな?

その頃は、数字に色がついて見える人が共感覚だと思っていたので、
私は関係ないわと思っていました。

が、実際は、一つの感覚刺激(五感)を、それと違う感覚で
感じることができる知覚現象のことをいうそうです。

つまり、音楽を聴きながら色や映像が見えたり、触覚を得たりというように、
聴覚を視覚で感じたり、視覚を聴覚や触覚、嗅覚で感じたりという感覚です。

私は視覚と触覚、聴覚がわりとごっちゃになっているところがあります。

また長年、美術分野で立体アート作品を作っていたので、
たくさんの形を見てきたせいか、形による共感覚がとくに強いようです。

形やシンボルから得る情報が多いです。
音を聞くと、その音の形や触感を感じますし、形にも音がありますね。

誰もが持っている感覚ですが、
それが意識に上がってくる人はほんの一握りの人のようです。


私たちは他の人が感じているものを感じることができないので、
人がどんな世界を見ているのかわかりません。

自分と同じものを見ているのだと思い込んでいますが、
実際はどうなんだかわかりません。


共感覚は、一つの感覚を他の感覚で感じますから、
その分、世界は広がりますね。

想像が広がります。


1/31(日)に共感覚のワークショップをすることにしました。

時間:14:30〜16:00(開場 14:20)
場所:京都駅から徒歩2分(申し込まれた方にお伝えします)
料金:5000円

日が近いので、ピンときた方は今すぐお申し込みを!
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私たちは自分が体験している現実を絶対唯一なものとして見がちです。
つまりそれしかないと思います。

「今、体験している現実」を違う視点から見ることができると、全く違う現実が現れることを何度か体験していくと、「現実」はすごく曖昧だと気づきます。

自分の過去の体験も、違う角度から見たら全然違う解釈ができます。

現実は、受け取り方や解釈の仕方でいかようにもなり得ます。

自分の見えていない、気づいていない領域は計りしれません。

あなたの前には無限の可能性が広がっています。

あなたは、あなたが思っているよりはるかにすばらしい可能性を秘めています。

自己否定や自分を過小評価している限りはそれは見つかりません。

そこに気づいたとしても、行動するかしないか、それが違いを生んでいきます。



メルマガ「コンシャス・アウェアネス」より一部抜粋&加筆。


無限の可能性を見つけたい方へ
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メルマガ『コンシャス・アウェアネス」より要約。


自分が自分にどんな問いかけをしているかは大事です。

質問をする時に、その質問がすでに答えを求めていることがあります。


以前、「私はまだまだできないしー」と自己否定的な言葉を発したあとに、
「そんなことないよ」と言ってもらえるのを期待している自分に気づいたことあります。

言い換えれば、その時は「そんなことないよ」と言ってほしいがために
自己卑下していたんです。
そのことにハッと気がついて、バカらしくなって、それをやめました。


例えば、

「私、きれいじゃないし、性格も悪いし。」

「そんなことないよ。けっこうイケるじゃん」

というように、「そんなことないよ」をいってもらえることを期待して
自己否定するんです。


「私、きれいじゃないし、性格も悪いし」と言った時、
「そうだね、あなた、顔も性格も不細工だよね」といわれると
いい気持ちはしないでしょう。

ならば、自分が言わなければいいんです


これは自分の傷のかさぶたをはがして

「また血が出ちゃった〜」

「まあたいへん、手当てしなきゃ」

と手当をしてもらうという自虐的甘えです。
そこで安心感を得るんです。

不健康ですね(笑)


私たちは気づかずしてこういうことをよくしています。

私たちは他人の価値観や判断に自分の存在の価値を決めてもらおうとしがちです。人それぞれ価値観も欲求も違いますから、他人に自分の存在価値をゆだねるのはよくよく考えてみるとヘンですよね。

人に依存した生き方をするとしんどくなりますから、
「自分のことは自分で決める」と決めましょう。


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私たちは環境に左右される生き物です。
植物と同じで、環境に合わせて大きく成長もできるし、小さく留まることもできます。

自分の才能はこれぐらい、、、と考える前に、自分の可能性を発揮できる環境に自分を置いているか?考えてみてください。

一番の環境は当然のことながら、自分自身です。

自分が自分を発展成長させられる心構えを持っているのか?
そのように自分に働きかけているのか?

何もしなければ、私たちは何も考えず、惰性で毎日を過ごし、そのまま死んでいきます。

どういう人生を歩みたいのか?を決めるのは自分自身ですから、そこにまず制限をかけないことです。


逆上がりができない子に、「お前は運動神経が悪いからできないのだ」とくり返せば、その子は自分に「私は運動神経が悪い」というレッテルを貼り、以後、運動が苦手となるでしょう。

「大丈夫、コツをつかんたらできよ!」と言われれば、きっとできるようになります。


それほど、

何を自分に語りかけるか?
何を信じるのか?

は自分のあり方を左右します。


自分が自分に何を語りかけているのか?
自分が人にどういうことを言っているのか?
周りの人が自分に何を言っているのか?

これらはほとんどイコールです。


人に言うことも言われることも、自分が自分に言っていることと大差ないです。
そこで変えられるのは、自分が自分に言っている言葉、セルフトークですから、まずはそこから変えていきましょう。


あなたはいつもあなたとともにいますから、あなたのことを一番気遣ってあげられるのもあなたです。

自分にはよい言葉を捧げてくださいね。


「自分に捧げる言葉」メッセージは日々のあなたの言動を省みて、日々の気づきを促してくれるでしょう。

受付は31日で終了します。〆切間近です。

「自分に捧げる言葉 2015 後半期メッセージ」

リピートされる方がとても多いメッセージです。
2015年の残りを有意義に過ごしたい方へ。


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あなたは自分に何らかの才能があると思いますか?
 
あなたはその才能が開花する環境にいますか?
  
春に蒔くべき種を今頃撒いても芽は出ないでしょう。
水の中にいる魚を陸に揚げたら死んでしまうでしょう。
 
もしあなたが自分の才能を発揮できてないと思うなら、環境を見直してみましょう。
 
まわりの人たちはどんな感じでしょうか?
 
周りの人の言うことはたいていあなた自身が自分に言っていることなので、まずの自分の内面のおしゃべりを見直してみましょう。
  
環境に影響された今なのか、
自分がそうだから今の環境にいるのか、、、
 
卵が先か、鶏が先かはわかりませんが、自分の内面環境を整えていくと、自ずと外の環境も変わり出します。 
 
自分の可能性を阻む環境にいると思うならそれはとても悲しいことです。 
 
すぐに環境を変えられない場合は、まず自分が望む生き方をしている人たちがいるところに足を運びましょう。
 
そういう人たちと一緒にいることでだんだんと感化されます。
 
そうなると、自分のいる環境が変わっていくか、自分が別な環境に移るかになるでしょう。
 
私たちはみな、豊かな才能を持っています。
 
人それぞれ得意分野やできることは違います。
あなたの中に眠っている才能を発掘しましょう。

「わたしはすごい!わたしはできる!」と根拠なく、思いましょう!


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なぜ私たちは夢を叶えたいと思うのか?
 
マズローの欲求の5段階の生理欲求と安全欲求が満たされていたら、
たいていの人は次の3つの欲求、
 
・外的に満たされてたい「社会的欲求」
・内的に満たされたい「承認欲求」(他者から認められたい)
・自己実現欲求
 
へと続く。
 
しかしながら私たちは夢を叶える方法を学校では学ばない。
 
カリキュラムとしてはなくても、
いい先生に出会えば、教えてもらえるかもしれない。
 
が、たいていの先生も本当のところはそれを知らないだろう。
 
みんなが叶えたいと思うのに、それをちゃんと教えられる人がいない。

まずそもそも最近までは夢を叶えようとすることはヘンな人のすることだったのかもしれない。

今だって「小説家になりたい」などというものなら、「趣味にしておきなさい」と言われるのがおち。
 
大人になってから、哲学や宗教、自己啓発やスピリチュアルなど、
いろいろなものを読み、いろいろ体験し、そうすることで身につけていく。
 
みんなが知りたいことなのに、不思議と言えば不思議だけど、
簡単に叶わないのがいいのかもしれない。
 
夢を叶える方法にも流行があるのもおもしろい。
 
どんどん私たちの意識も進化しているから、
その探求も進んでいき、いろんな方法が編み出される。
 
自分にあった方法を見つけるといいと思うけど、
究極のところは同じだろう。
 
枝葉を学ぶことにはきりがない。
 
それより根っこをしっかりおさえたら
あとは自分の中から自然と現れる。


・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・


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