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令和について書き下ろしてみました。


令和。
新しい元号は新しい流れの始まりです。

すべてのことは連動して起きています。
元号が変わる、天皇が代わられることは、時代の流れ的にリンクしています。

令和という響きは「れいわ」、柔らかい響きですが、
同時に「令」は「冷」を想起させ、「冷たい」「冷静」というイメージもあります。

また「令」は「礼」「零」「霊」も思い出させます。

「和」は「輪」「8」でしょうか。
「和」は「輪」ですから、円 → 0、ゼロ、零に繋がります。

ゼロと和。
「和」は和合、大和、和む、輪、ひとつになる、ハーモニー。
そのような意味合いがあります。

「令」は「礼」「令」となると、律令、礼儀、法令など、
人が作った決め事、ルール、という見方。

そして、零、霊につながるような、人智を超えたルール、
つまりは宇宙や自然の法則的なところ、とみることができます。

理性と感性、政治と人としてのあり方、
これらのバランスが問われる時代となるでしょう。

良い方向に進めば、政と人の暮らしが良い感じに和合していき、
悪い方向に進めば、政が和を仕切るかたちとなります。

令和の時代は、その融合の始まり、つまりは過渡期。

零、ゼロとなって、その後、和が訪れる。

臨界点に達して一越えする。
脱皮して新生するようなものですね。
国全体のそれと、一人一人のそれと。

表面上は「冷」でクールな感じかもしれません。

和はあったかい。令はクール。
変化は淡々と進んでいくでしょう。

今はまだ令と和の間の亀裂が埋まってませんが、
人々が二元性の枠にとらわれず、その向こうを見るようになった時、
次の時代がやってくるでしょう。


霊性の時代となり、人々が自分の魂に沿った生き方を求めるようになります。
「律」に関係している人たちが、その流れに一番出遅れるでしょう。

その頃には、和の精神が強くなっていて、自分の利益のためだけの行動はすぐにバレて、
人はその人を支持しなくなります。

「霊和」、霊性同士での和合、同じ価値観、世界観、ビジョンを持った人たちが、
自分たちの世界を創造し始めます。

各コミュニティ、グループがそれで成り立ち、自分らしい生き方を求めます。


今の価値観とずいぶんと変わっていきます。
自由を求める人には生きやすくなります。

令和は別な言い方をすれば、「ゼロになって和する」。
「和する」は「忘る」にも通じます。

自分が本来の状態、自分に立ち返って(ゼロになる)、自分を再統合する。

その過渡期の時代になると言えます。

外の話のようで、実は自分の内側の世界の話です。

自分の中のルールをいったん見直すというか、白紙に戻して新たなゲシュタルトを構築する、
新しい自分というか、本来のあり方に戻る、

その流れに合わせて、外の事象も起こっていきます。

意識レベルの話で言えば、個々であった自我がいったん解体に近い状態となり、
集合意識として再統合されます。

個という存在が、集合知の中のひとつのネットワークの中の点という認識に変わっていきます。

点が自分というより、そのネットワーク自体も自分であり、ミクロとマクロの視点を兼ね備えつつ、全体を創造していく共同創造の世界が待っています。

そのためには今までの古い意識体はいったん解体され、再構築されることになります。

しかしそれは淡々と進んでいくでしょう。

冷静に、感情的にならず、達観して対応していれば、何の問題もありません。

「和音」2019.4.17


ということでした。

「令」をコントロールのためのルールを敷く側、「和」を心のつながりとすると、
国と国民、理性と感性、エゴと無意識、男性と女性のせめぎ合いになるのかなと。

国側は「令を持って和する」にしたいのだろうと思いますが、
令和時代の後半には「霊を持って和する」になるだろうと思われます。

その前に「零となって忘る」過程があるでしょう。

いったんリセットして、新しく始める、ということですね。

震災による破壊も考えられますし、そうでなくても、
個人個人のレベルで、価値観や生き方がガラリと変わる人も多いでしょう。


白川静氏の「字統」によると、
「令」は、「礼冠を着けて、跪いて神意を聞く神職のものの形」だそうです。

政事(まつりごと)と祭り事(まつりごと)は同じ語源だと言われます。

本来、神意に従って政が進められるべきところが、
権力者の我欲によるところが大きくなってしまってますから、
そこもまた正されるべきところなのでしょう。

「令和」と聞いて私が最初に思ったのは、
令によって和したいんだろうな、ということでした。
法令に従うことが和すること、みたいな。

実際はどうかはわかりません。
私の偏見ということも考えられます。


どちらにしろ、すでに神意は働いているようです。

本来の意味が「礼冠を着けて、跪いて神意を聞く神職のものの形」であると、
本来の形に戻っていく方向に向かうと思われます。

それこそ万葉集から取ったという話につながります。

出典:「万葉集」巻五、梅花歌三十二首并せて序

[引用部分]
初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香

[書き下し文]
初春の令月にして、気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫らす。

[全体の文の現代文]
天平二年正月十三日に、長官の旅人宅に集まって宴会を開いた。
時あたかも新春の好き月、空気は美しく風はやわらかに、梅は美女の鏡の前に装う白粉の如きかおりをただよわせている。
のみならず明け方の山頂には雲が動き、松は薄絹のような雲をかずいてきぬがさを傾ける風情を示し、山のくぼみには霧がわだかまって、鳥は薄霧にこめられては林に迷い鳴いている。
庭には新たに蝶の姿を見かけ、空には年をこした雁が飛び去ろうとしている。
ここに天をきぬがさとし地を座として、人々は膝を近づけて酒杯をくみかわしている。
すでに一座はことばをかけ合う必要もなく睦(むつ)み、大自然に向かって胸襟を開きあっている。
淡々とそれぞれが心のおもむくままに振舞い、快くおのおのがみち足りている。
この心中を、筆にするのでなければ、どうしていい現しえよう。
中国でも多く落梅の詩篇がある。
古今異るはずとてなく、よろしく庭の梅をよんで、いささかの歌を作ろうではないか。

    万葉集とは?歴史と意味解説、有名な和歌一覧!|新元号「令和」の由来も


この情景は、これから私たちが目指すべきところというか、
向かっているところのように思えます。

とくにこの部分。
ここに天をきぬがさとし地を座として、人々は膝を近づけて酒杯をくみかわしている。
すでに一座はことばをかけ合う必要もなく睦(むつ)み、大自然に向かって胸襟を開きあっている。
淡々とそれぞれが心のおもむくままに振舞い、快くおのおのがみち足りている。


これからは、もっと好きなように生きる人が増え、
自由にやりたいことをする人が増えていくでしょうし、

男性原理の、頂点に向かうために争ったり競争し合う傾向が、
女性原理の、みんな一緒に仲良く円満に、という方向に変わっていきます。

多様性が当たり前になっていくので、
人は人、自分は自分と分けることができるようになります。

とくに日本は、人の顔色を見て振る舞いがちですが、そこも変わっていくでしょう。

自分の好きなことができていて、精神も安定していたら、
人のことにいちいち文句言いません。

「快くおのおのがみち足りている」です。

まだまだ変化の最中です。
過渡期にはいろんなことが起きやすいです。


「令和」は、音は柔らかいけど、冷めた響きもあります。

切り離され、冷めてしまった人々の心が、
和して心の豊かさを取り戻すまでのプロセスも
この言葉には含まれているでしょう。

一人一人がもっと自立して和するようになっていきます。

人は人、自分は自分、とその部分はクール。

別々な存在だから、ともにあることで創発が起きることも知っている。
相手も自分も尊重しながら、必要以上に関わらない距離感。

結婚や家族というシステムが大きく変わる可能性もあります。



「和」を「字統」で見ると、
「軍門で盟誓し、和議を行う意である。ゆえに和平の意となる。」

と意外にも、最初っから「和」なわけではないです。

考えてみると当たり前なのですが、
「和」を考えれば、同時に「不和」も出てきます。
「わ」であれば、「把、別、分、我、割」などもあります。

つまり、別々なものがあるから、和することができるわけです。

また、ひとつになることだけが和することではなく、
分かつことによって和することもあります。

コミュニティの時代と言われてますから、和という言葉が合うのでしょうね。

しかし「大和(大きな和)」として統合されるのではなく、
小さな和がたくさん、つまりネットワーク状につながって影響し合うかたちの和。

だから「霊和」。
響き合う時代ともいえるでしょう。


「令和」という漢字の形を見ると、バランスが「和」寄りで、少々落ち着きません。
縦書きなら悪くないですが。

「和」は安定した形です。
「令」は一本足で立っていて、左右アンバランスで右側に比重がかかります。
つまり、和に若干寄りかかる形となります。

「令」が先にあるので、令が先導するような印象を受けますが、
令は和に腕を差し出している。和と手をつなごうとしている図に見えます。

ここにも「跪いて神意を聞く神職」の姿が見て取れます。
男性原理が女性原理に耳を傾ける、助けを求めるかたちとも言えるでしょう。


一人一人が、自分自身で神意を聞いて行動する時代。

自分が自分の令であり、自分を律する人であり、
自分自身を忘る(エゴの自分を忘れる)ことで、自分自身を統合する(和する)。

多くの人々の精神性、霊性が高まる時代となるでしょう。

見えないもの、スピリチュアルなことへの関心も増すでしょう。
スピリチュアルというと世俗的な印象を受けますが、
全体的に霊性が高まっていく、魂レベルで行動する人が増えていきます。

つまりは、自分の本質的なところで生きる人が増えていくということ。

これまた、そこに至るまでは、自分がわからないとか、今の生活が、、、とか、
いろんな試行錯誤は行われるでしょう。


結論、なるべくしてなった元号なのかなと。
この元号になったこと自体が、霊和(神意が動いている)であると言えます。

時代の移行期には、まだしばらくはいろんなことが起きるでしょうが、
向かうは、先ほどの万葉集の文章に現れているところ。

「れいわ」という響きは、私にはつるっとしたゆで卵や、
何も置いてない白い皿みたいな印象です。

一皮むけるんでしょうね。脱皮というか、パラダイムシフト。

新時代の始まりはまもなくです。




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