最近、あんまりブログを更新していなかったのですが、ブログ名を「たまむすひ」から
「いのちおり」に変えた理由がだんだんとわかってきました。
「たまむすひ」の「たま」は、魂、霊、玉、球
「むす」は、生す、産す、無す
「むすひ」は、産霊、結、
「ひ」は、霊、火、日、陽
というところでした。
「玉」は一番シンプルな個体の形だと思います。
「魂」は一人一人の魂というように、一般的には個体についての表現になると思います。
「結ぶ」「生まれる」は、二つ以上の存在がないと成り立ちません。
二つ以上のものがあるから結べるし、何かが生まれるには何かが派生しなければなりません。
「たまむすひ」で書いていた頃は、意識していたわけではないですが、そのような次元をベースに、個人の精神的成長を促し、それが全体とつながっていくプロセスというところで書いていたように思います。
個の視点から全体を見て、いかにそこと関わっていくか?を探求していたような?
なんとなくもうこの名前じゃないな〜と思って、違う名前を考え他のですが、
自分のホームページにつけていた「いのちおり」が一番しっくりきたので、その名前に変えました。
最近、「いのち」について何度か思うことがありました。
前の記事「「生き物としてのコミュニティ」の話の「コレクティブ・エフィカシー」と「いのちの活動」のところにつながっていきますが、、、
「いのち」は個々の生き物が持っているもののようで、
実際は全部でひとつの「いのち」です。
つまりは分けられないもの。
自分の勝手な感覚ですが、漢字の「命」は、個別の肉体の生命としての命のように感じます。
ひらがなの「いのち」は連綿と流れるすべてのものを含んだいのちの営みすべてを指すように思います。
宇宙の法則、宇宙の意思、創造主、、、言い方はいろいろありますが、成長し続けている大いなる意思とそこから生み出されるあらゆるものと、そのつながりのなかで影響しあい、変化し続けるもの。
私たちは「いのち」の一粒であり、そのものであり、
その「いのち」は死ぬことはありません。
一個の肉体としての自分ではなく、
その背景に流れ続けている「いのち」があなた自身であり、私であり、すべてです。
なんてことを思いながら、だから「いのちおり」かーと改めて納得した次第です。
「いのちおり」は、私の活動の総称としての名前と自分では位置付けていましたが、
これからはもっと「いのちおり」になっていくんだなーと思うこの頃です。
森羅万象がいのちを織りまぜながら、世界をつむいでいく・・・
それが「いのちおり」であり、その次元から物事が観れるようになるなら、
あなたは織り手としての視点を持つことになります。
女性が織物を作るとき、以前はそのような呪術的意味合いも含まれていたんだろうと思います。
今はインターネットがwebとして、見えない情報の織物として紡がれていっています。
私たちの思いや経験ももちろん織物を構成する要素のひとつです。
これからはそういう視点を持つ人がもっと増えていくと思いますし、
自分視点だけになると、守りに入るので苦しくなるんだろうなと思います。
ここの意識のシフトが大事ですね。
この二つはほぼ両極です。
自分から解き放たれるか、自分を後生大事に守るか。
「たまむすひ」から「いのちおり」にブログ名が変わったのは、自分も時代ももっと抽象度高く、すべてのものをつなぐ「いのち」である自分に気づく段階に至ったからなんだなーと改めて思うのでした。
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「いのちおり」に変えた理由がだんだんとわかってきました。
「たまむすひ」の「たま」は、魂、霊、玉、球
「むす」は、生す、産す、無す
「むすひ」は、産霊、結、
「ひ」は、霊、火、日、陽
というところでした。
「玉」は一番シンプルな個体の形だと思います。
「魂」は一人一人の魂というように、一般的には個体についての表現になると思います。
「結ぶ」「生まれる」は、二つ以上の存在がないと成り立ちません。
二つ以上のものがあるから結べるし、何かが生まれるには何かが派生しなければなりません。
「たまむすひ」で書いていた頃は、意識していたわけではないですが、そのような次元をベースに、個人の精神的成長を促し、それが全体とつながっていくプロセスというところで書いていたように思います。
個の視点から全体を見て、いかにそこと関わっていくか?を探求していたような?
なんとなくもうこの名前じゃないな〜と思って、違う名前を考え他のですが、
自分のホームページにつけていた「いのちおり」が一番しっくりきたので、その名前に変えました。
最近、「いのち」について何度か思うことがありました。
前の記事「「生き物としてのコミュニティ」の話の「コレクティブ・エフィカシー」と「いのちの活動」のところにつながっていきますが、、、
「いのち」は個々の生き物が持っているもののようで、
実際は全部でひとつの「いのち」です。
つまりは分けられないもの。
自分の勝手な感覚ですが、漢字の「命」は、個別の肉体の生命としての命のように感じます。
ひらがなの「いのち」は連綿と流れるすべてのものを含んだいのちの営みすべてを指すように思います。
宇宙の法則、宇宙の意思、創造主、、、言い方はいろいろありますが、成長し続けている大いなる意思とそこから生み出されるあらゆるものと、そのつながりのなかで影響しあい、変化し続けるもの。
私たちは「いのち」の一粒であり、そのものであり、
その「いのち」は死ぬことはありません。
一個の肉体としての自分ではなく、
その背景に流れ続けている「いのち」があなた自身であり、私であり、すべてです。
なんてことを思いながら、だから「いのちおり」かーと改めて納得した次第です。
「いのちおり」は、私の活動の総称としての名前と自分では位置付けていましたが、
これからはもっと「いのちおり」になっていくんだなーと思うこの頃です。
森羅万象がいのちを織りまぜながら、世界をつむいでいく・・・
それが「いのちおり」であり、その次元から物事が観れるようになるなら、
あなたは織り手としての視点を持つことになります。
女性が織物を作るとき、以前はそのような呪術的意味合いも含まれていたんだろうと思います。
今はインターネットがwebとして、見えない情報の織物として紡がれていっています。
私たちの思いや経験ももちろん織物を構成する要素のひとつです。
これからはそういう視点を持つ人がもっと増えていくと思いますし、
自分視点だけになると、守りに入るので苦しくなるんだろうなと思います。
ここの意識のシフトが大事ですね。
この二つはほぼ両極です。
自分から解き放たれるか、自分を後生大事に守るか。
「たまむすひ」から「いのちおり」にブログ名が変わったのは、自分も時代ももっと抽象度高く、すべてのものをつなぐ「いのち」である自分に気づく段階に至ったからなんだなーと改めて思うのでした。
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