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「慈悲慈愛の世界」の補足&続きです。


私たちは二元性の世界のメンタリティを超えて新しい段階に来ました。
それにより二元性の捉え方が変わってきました。

個の世界の終焉と、関係性の世界の始まり。
そこにあるのは慈悲。


生まれてからこのかた、私たちはこの不条理の中で生きていると思います。

生があれば死がある。
自分の中にも善もあれば悪もある。

思い通りにいかない、だまされた、裏切られた、殺し殺され、戦争も差別もなくならない、、、、

自分の中で納得がいかないことをいろいろと経験してきたと思います。
それを自分に納得させるためにいろいろな心理作用がおきます。

その過程を経て、私たちはエゴの思考が自分や現実のすべてではないと知りました。

エゴの視点からもっと広い視点となり、それがますます俯瞰的視野になってくると、敵味方もなくなり、抽象度の高い視点となります。そうなると人間万事塞翁が馬ではないですが、多角的に見るようになってきて、二者択一的な判断では済まなくなってきます。

どちらの言い分も痛みもそれなりにわかり、なぜそのようなことが起こったかの背景を知り、、、ということをしていくと、「誰も悪くない」というところにたどり着くと思います。

どうしてこの世界はそのようなのだろうか?と考えたところでどうしようもない。それに対して何もできない自分のやるせなさもあり。

でもそもそもそれが本当に悪いことか、不幸なことかと言うとそこはまた別な議論ができるわけで、、、。


この世の中がいかに無常かを知る、、、。

といっても無常と感じているのは自分なので、自分が作り出してる世界ではあるわけですが。


「あるがまま」という状態が美化されてしまっている感がありますが、実際のあるがままはそんなきれいごとではなく、まずは「無常」ではないかと思います。

しかし、その無常の向こうにあるのは慈悲。
どちらも知ってこそ自然であり、あるがままなのだと思います。


エゴ的視点から抜け出し、エゴを越えた自分が常在になった時、もう一度、二元論的世界にある矛盾に戻っていくのかもしれません。

その過程で、自分や世界の矛盾や不条理を見つめ直し、自分の中で折り合いをつけていくことになると思います。

その世界にあるすべてを受けとめることができるようになった時、その世界やその自分をもっと愛し始めます。

最終的には、この不条理の世界を生みだしている自分を愛すということになると思います。

そこでやっと「あるがまま」に到達するのではないでしょうか?


この世界を理解していくということは自分を理解していくということです。
自分の認識が広がり深まるほど世界もそのようになっていきます。

真理は一見シンプルですが、その奥ゆきは果てしないです。
私たちは再びその扉を開け、新たな世界に進み出しています。

慈悲慈愛の世界が始まり出しています。



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