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前回の記事の最後のところの補足です。

映画は子を奪われた母親側からの視点で描かれていますから、観る側の私たちもそちらの視点で判断しがちです。

けれども修道院の人たちの視点から観れば、彼女らはまちがったことをしたとは思っていないわけで、多分、正しい行為をしたと思っているのだと思います。
「多分」と書いたのは、証拠隠滅のために書類を燃やしたりしているので、していることが見つかったら困ることになるとは思ったのでしょう。


映画がもし修道院側のストーリーとして描かれていたら、主人公の女性も彼女を手助けする人たちも悪人として登場していたでしょう。

あんな人たちがいるから世が乱れるということになって、それを見ている私たちも「子供が引き離されるのも、修道女たちが厳しくしたのも当然」と思ってしまっているかもしれません。

実際、メディアやテレビ、インターネットなどによって私たちはいろいろ刷り込まれていますから、鵜呑みにする前に、どの視点から物事を見させられているかを見極めるようにしたいものです。

時代や地域、集団によっても価値観は変わりますから、常にそこのところ吟味する必要があると思います。


罪を犯した人は罰せられるべき、一生罪を背負って生きるべきという考えを持ち、神に仕える人間はその処罰をする役割を担っていると思えば、その任務に忠実になるでしょう。

表向きは「神に忠実に」と信仰心が厚いようで、そういう人たちの心の根底には「神の望む通りにしていれば私は救われる」「全能なる神に従うべき」という神への依存があるのではないでしょうか? 
神の意に背いたらどんな目にあうかという怖さも。

また、神という名のもとに権力を握ろうとしたり、あるいは、なんかおかしいと感じながらもすでに自分の心や人道に外れることをしていたら、それを認めたくないので、ますますその行為と神を正当化強化していく場合も少なくないです。

そうなると、そうであることが正しい、自分は正しいのだとかたくなに固執し、本気でそれを信じてしまいます。

絶対的な神がいると、視野が偏り、思考停止になってしまうのがなによりも問題かもしれません。
その神の世界(といっても人間の思考の世界)ではOKなのですが、それ以外の世界は邪教であり、魔とされてしまいます。

その根底には自分の罪や間違いを認めたくないという怖れだったり、自分を許してほしい、認めてほしいという思いがあるかもしれないですが、それにふたをしてしまって見ようとはしません。


どちらが正しい、正しくないというところに立つと、果ては戦争となってしまいます。

より高い視点を持てば、どちらもありです。
意見が違うことで、私たちはそこから新しいアイデアを導き出し、成長することができます。

私たちは肉体を持って毎日生活しているわけですから常に何かを選択しています。
「どっちもありだよねー」ですまされないことも多々ありますので、その時はどういう選択をするかに気をつけたいですね。

そのためには俯瞰的視野を養うようにしたいです。


ちょっと話がずれますが、「ハンナ・アーレント」の映画。

何百万ものユダヤ人を収容所へ移送したナチス戦犯アドルフ・アイヒマンが実は職務に忠実な公務員でしかなかったというハンナの主張。

ユダヤ人への憎しみから行なったわけでも極悪非道な人間でもない。
いのちの大切さや人を殺めることへの疑問も抱かず、ただ単に事務的機械的に上からの命令を行なっていただけ。

『彼が20世紀最悪の犯罪者となったのは思考不能だったからだ。』

ハンナ・アーレントはそれを<悪の凡庸さ>と名付けましたが、考えなくなることの怖さがここにありますね。



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