
私たちは物質界に意識をおきすぎて、一昔前までは見えないものは存在しないもののように思われてきました。
けれども今は見えない世界のほうが本質であり、広大であり、物質的な世界はその一部でしかないと感じられてきています。
情報空間が主流になりつつあり、私たちが体験しているこの世界は実は映写機から映されている映像のようなもので実体がないことを体感し始めている人が増えていると思います。
今年に入ってから、目の前の向こうのほうに銀河のようなものが見えていて、あれは情報空間で、私たちの本体でもあり、なるほど、宇宙の惑星やその他すべてのかたちあるものは、それぞれの情報がかたちになったものなんだなー、つまり宇宙ってのは情報がかたちとなって表現されているものなんだなと思ってみていました。
つまり情報が先でかたちがあとなんですね。
私は先日、とある空(くう)体験をしました。
それはとてつもないエネルギー空間に充ち満ちているキラキラと輝く情報の中にどっぷりと浸かるという体験でした。
いわば、キラキラのカラフルなラメがたくさん入ったマニキュアみたいな感じです。それが空間一杯に広がり、その中に浸っている感覚で、すき間なくいろんな色のつぶつぶ粒子がキラキラ輝いているんですね。
それひとつひとつがいのちでもあり、それらが常に流動的にうごめいてつながり離れ,変化しているから、ものすごくダイナミックなエネルギーなんです。
響きだらけキラキラ粒だらけの空間であり、それゆえに静寂でもある。
しばらくその中に浸っていて、「ああ、これは空(くう)だ!」とふっと気づいたわけです。
今年になってから見えていた銀河空間のようなものの中にどっぷりと入ってしまったわけです。
詳しいことは「いのちおり通信」に書いたのでこちらでは省きますので、あしからず。
前回書いたイザナミの混沌とした空間もそれに近いかもしれません。
氷は形を変えようと思うと力を加えないとできないですが、水も水蒸気もそれそのものの形はなく、流動的に周りにあわせることができます。

固体の世界を唯一の真実と思っているとなかなか変えられないですが、気、情報の世界を主体と思うと、こちらの世界は印象派のつぶつぶの絵みたいなものです。
つぶつぶの集合であり、私たちの本質はその集合体であるわけで、それがいろいろと結びついた時に意思なり目的なりを持った存在として個別化していく、つまり、ひとつのいのちとして生じるということなんだなと思います。
印象派の人たちがそこまで意識していたとは思いませんが、ゴッホなどは案外、色彩レベルだけでなく、宇宙の本質に気づいていたかもしれないですね。
草間弥生さんはその中に住んでいる人というか、そのものなんでしょうね。
アヤワスカのアーティストなどの絵もそれを喚起させられます。
曼荼羅画やイスラム模様もその類いですね。

この最後のイスラム模様など、うるさすぎて静寂、静であり動というのがよくわかります。砂漠で夜空を見上げているとこんな感じで、それと神という概念がくっついていくというのは容易に考えられますが、この状態であれば、一神教と多神教が同じというのもよくわかります。
このイスラム模様を星空といっても通じるし、森といっても通じると思います。
空(天)か地上かの違いが、その後、一神教と多神教を別物にする方向に向かったんだと思います。中沢新一氏の男性原理と女性原理の話が思い出されます。
静寂の無っぽいのも空であれば、密に埋め尽くされたのも空なんだろうなと思います。
人によって感じ方が違うと思いますが、ただ世間一般ではこういうのが「空」というのがあるように思います。それを体験しないと空体験をしていないと思うのは、すでに「空とはこういうものである」という限定された思考領域での体験で、自我の自己満足の疑似体験になってしまう可能性がありますので、それには気をつけたいですね。
実際の話、私はその時「あ、これは空だ!」とひらめいたわけですが、そうなのかどうかは知りません。自分がそう思っただけで。
でもそれが空なのかどうかは私にとっては重要でなく、それにより私の認識が広がったのが楽しいです。その先もまだあるので、これから楽しみです。
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