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先日、橿原神宮に行った時に感じたことについて書きました。
そのもっと前に阿波地方に行って、伊射奈美神社の元地での話を書きました。

このふたつの空間のエネルギーを比べてみるとおもしろいです。
それは橿原神宮の話のところで書いたことと似ていますが、空間のエネルギーが違うのです。

橿原神宮での「無」は本当に穢れなく、完璧なまでに神聖であり、清浄な空間を保とうとしていました。
厳粛、厳格,崇高、尊ぶもの、神聖空間,崇めるものというようなことばが似合います。

伊射奈美神社の元地も「無」と言えば無なんですが、混沌と言えば混沌で、どちらでもいいよ〜という感じ。
そのまんまで何も付け足す必要がないという感じでしたから、「無」というよりは「ゼロ」という感じかもしれないですね。ゼロなんだけど「ない」という意味のゼロではなくて、全ての始まり(の前)という意味でのゼロです。
とにかくあるがままでよかった。

『そのまんまでいい。何一つ変える必要はないし、何もする必要もない。』と前の記事に書いていますが、心地良く晴れた日の静寂な沈黙の時、すべてがそこにあり、そのままでよく、それゆえすべてが完璧だったという空間。

すべてがあり、ない空間。


似ているようで全く違うこのふたつの空間。

橿原神宮で感じたものはそこにそぐわないものは排除。
伊射奈美神社の元地はなんでもあり。そのまんま。

橿原神宮での時空は管理されないといけない。なぜならエントロピーの法則で、放っておいたらどんどん乱れていく。それなりの規律なりルールが必要になります。

伊射奈美神社の元地で感じた時空はそのまんまなので、そのまんまでなにもしなくてもいい。
なんでもありだからなにもしないままになってしまって動きがなくなる。つまり究極は静。

管理空間は意図的に分けるので、常に動。
ただそれが無意識下にはいれば、動でありながら静になるので、本当はその状態を目指していたのかもしれない。
「○○道」といわれるものはたいてい型があって、そうだものね。

このイザナミのあるがままのエネルギーは、自我が生じる前の混沌とした全ての可能性が眠っているエネルギー状態のことだと思いました。

私はこれが混沌とした目覚める以前の宇宙なのだと思っていましたが、実はそうではなかったかも?とある日思いました。(ブログ記事の流れでこの話がどこかにつながるはずだったのですが、今はもうそれが何だったか忘れてしまいました)

なぜなら神話ではイザナミ以前の神様がいます。
国之常立神から伊邪那岐神・伊邪那美神までを「神代七代」というそうです。
それ以前の神は天之御中主神から天之常立神まで五柱は「天神(アマツカミ)」で、これらの神は姿を見せず、配偶がない単独の神だそうです。(参考:神々の系図

イザナミの静たる可能性の海はイザナギの動により発動します。
それによりこの世界が現れてきます。だからその後、たくさんの子産みをします。

そこではたと気がつきました。

そこが宇宙の始まりではなかった。

全ての可能性が眠っている状態が原初の状態と思って、私の思考はそこどまりだったので、それ以前の世界に思いを馳せたことがなかったです。

とはいえ、すべては刹那なる一瞬のあってないくり返しですから、それ以前も以後も、全ての可能性が眠っている状態も発動している状態もあってないのですけどね。イザナギイザナミ以前の神様はこの部分に関わってくるのかもしれませんが。
それからそれ以前とはどういうものか?ということにも思いを馳せるようになりました。


イザナミの静とイザナギの動。

なるほど菊理姫の働き。
両極を動かし,循環させる力を私は菊理姫の働きだと思っていましたが、それだけではなかったんですね。

静と動が絶妙な均衡で保たれる時に起きること。
これが次なる世界への扉となるのですね。

今やっと、私が菊理姫が銀河(系?)のエネルギーと感じていた意味がわかりました。

この話はこの間「いのちおり通信」で書いた情報空間の銀河と空の話につながっていきます。
まだまだ知らないことばかりです。


神話で活躍する神様は私たちにわかりやすいエネルギーで身近なんだと思います。
名前だけ出て消える神様はみんながみんなそうではないかもしれないですが、もっと大きな宇宙の仕組みの働きの一環を担っているのでしょう。名前が出ない神様はもっとかもしれません。
それは言葉で説明できるものでなく感じることでしかわからないものだったり、私たちの理解を越えたものなのかもしれないです。

だから「おかげさま」なのでしょう。

これは消された神様うんぬんというのとはまた別な話ですが。

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