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高尾山の食事会とその次に高尾山に行く間に、もうひとつ天皇つながりでの出来事がありました。

昨年お世話になった方が京都に来られるというので、会いましょうということになりました。
嫁ぎ先の家系が清和天皇にご縁のあるところだそうで、京都の水尾の里にある清和天皇陵に行ってみたいと言われたので、ご一緒することになりました。

清和天皇って全然知らなかったので、どういう方だろうとググってみたら〜〜、なんと!

9歳で即位した日本史上初の幼帝で、政治の実権を握ったのは母方の祖父、藤原良房(よしふさ)。

摂政や関白など、藤原氏が好き勝手に振る舞う「摂関政治」は、このときが始まりで、この先、時代の中心となるのが藤原氏なのだそうです。

そして在位中に、富士山、阿蘇山、出羽鳥海山、開聞岳の噴火、多数の地震と大干ばつ。

876年は平安京の中枢部が火災で焼失。
この年、清和天皇は陽成天皇に跡を譲り、出家してしまったそうです。


850年 誕生
858年 即位(9才)
864年 富士山噴火
866年 応天門の変。大干ばつ
867年 別府鶴見岳、阿蘇山の噴火
868年 京都で有感地震(21回)
869年 肥後津波地震、貞観大地震
871年 出羽鳥海山の噴火
872年 京都で有感地震(15回)
873年 京都で有感地震(12回)
874年 京都で有感地震(13回)。開聞岳噴火
876年 大極殿が火災で焼失。譲位
878年 関東で相模・武蔵地震
879年 出家。京都で有感地震(12回)
880年 京都で地震が多発(31回)。死去(享年31)

 「ハザード・ラボ」より

相当、心が痛んだ人生だったろうなあと思います。

即位したけど、実権は藤原氏に握られ、自然界が大暴れ。

藤原氏が実権を握った時にこのように天災が起きていたとは知りませんでしたが、日本の自然界の精霊たちも納得がいかなかったのかもしれないですね。

天皇でなければ、天災が多くても自分事のようには思わないでしょうが、在位中の話ですから、自分のいたらなさを嘆き、心を痛め、日々を過ごされていたことと思います。
出家も当然の成り行きかと。


この流れを見ると最近の日本の状況を彷彿させますね。

実際に富士噴火や大地震の誘発は起きてないですけど、起こり得た状況ではあったと思います。
このような最悪の事態はもうすでに免れたと思いますが、これからの権力者の行動如何ではまだありえないことではないでしょう。


大昔は天津神系と国津神系(という言い方がいいかはともかく)は仲良く暮らしていたけど、何者かが権力を握るために対立構造を作り出してわざと争うように仕向けてしてしまったということを感じ得た話は以前書きました。

藤原氏もまさにその仕掛人です。

時代をさかのぼると他にもそういう仕掛人がいるでしょうが、天皇家と土着民を対立構造にしたのは藤原氏なのかもしれません。歴史は詳しくないのでわかりませんが。

今も権力者たちが天皇と国民がつながらないようにしていると思います。
(精神的に中空構造にならないように)


そういうことを考えていた矢先に、清和天皇陵に行くことになるのもおもしろいです。

京都市内の嵯峨野の北の山奥の水尾というとことにあるのですが、クネクネとした山道をけっこう走ります。
初めて水尾に行ったのですが、京都市内にこんな隠れ里があったとは!と驚きました。

柚で有名なところで、たくさん柚の木が実をつけていました。
私は柚は大好きなので買って帰りました^^


清和天皇陵はそんな山奥のそのまた山道を少しあがったところにあります。
若いうちからたいへんな人生だったでしょうから、人と会いたくなくなったんでしょうね。
心を休めるためにこの地を選ばれたんだと思います。

権力からも名誉や地位など人間臭いものから離れて、ひっそりと心休めたい、そんな気持ちだったんだろうと思います。


御陵はとても気持ちの良い山の中にあるのですが、お参りして思ったことはとても安らかにいらっしゃるということでした。

出家してからの数年、色々と思うところあったでしょうが、人間的なところや俗世から離れ、自然に触れ、静かに過ごすことでご自身の心を癒し、浄化し、自然界と通じることができたのではないかと思われました。

藤原氏に政権を握られ、天皇としての自分の存在を常に問うておられたでしょう。
数多くの天災はそのせいでだとして自分の無力さを嘆いておられたとしてもおかしくないです。
権力に対しても、自然界に対して何とも言えない思いを抱いておられたでしょう。


けれども出家後、自然界とはなにか?というところで開眼されたのではないかと感じました。
言い方を変えれば、自然界が彼に心を開いたことを彼が感知したということです。

つまり彼は自然と一体化したのだと思います。

それゆえ人間の地を避け、めったに人が来ないような山奥にお墓を望み、自然界とともに過ごしたかったのかなと。


人生のほぼ全部を地震や噴火などとともに過ごした方ですが、それ故に深く自然と通じることになったのかもしれません。

また別の言い方をすれば、もともと自然界と深いつながりがあったからこそ、そのような境遇のもと天災続きになったのかもしれません。

自分がそれほど自然界と深いつながりがあるのを知って、その本質とつながり、すべてはなるべくしてなったと最期には心安らかになられたのだと思います。

感慨深い人生だなあと思います。



そして、、、

即位を譲られた清和天皇の第一皇子の陽成天皇の時はどうだったんだろう?と調べてみると、天変地異のことは出てこないのですが、ご本人が天災的な暴君だったとされています。

が、そのようになるに至ったいきさつを思いやると心痛みます。


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