この話を読むと、絶望は希望かもしれないと思う。

 「絶望」とは「望みが絶たれた」という意味ですが、しかしこの言葉はまずほとんどの場合、絶望していない時に使われているのです。「絶望」が使われるのは、ある望みを抱きつつもその望みが叶えられない、待ちぼうけの最終段階においてです。

 待ちぼうけは、人をある状態に縛り付けています。「絶望」を口にする時、「待っていても来ない」「期待しているのに得られない」といって嘆いているわけですが、その苦しみは、叶わないことによるのではなく、縛り付けられて不自由であることから来ているのです。つまり、これは「執着」の苦しみなのです。そのことに本人は気づいていません。

 わずかに望みを残しながら、人は「絶望」を口にするのですが、もし待っている対象が決して現れないものであるとわかった場合には、その人は一体どうするでしょうか。

 渋谷行きのバス停で新宿行きのバスを待ち続けている人がいます。まてどもまてども、渋谷行きしか来ません。もう何時間も待ちぼうけを食らって、「絶望だ!」と嘆く。そのとき通りがかった人が、「ここは,渋谷行きのバス停だよ」と彼に告げます。彼は、すぐにそこで待つことをやめ、別の行動に移ることでしょう。

 これこそが、本当に望みを絶った「絶望」の姿なのです。つまり、本当に「絶望」した時、人は「執着」を去り、「自由」になるのです。それはもはや、そこで当てにして待たなくてもよい「自由」です。そして本当に必要な行動を,主体的に自分が行なっていけるのです。

 このように「絶望」の苦しみは、残していた一抹の期待をきちんと捨てること、つまりそこからさらに一歩を推し進め、しっかり「執着」を断つことによって、真の「絶望」が訪れ、「自由」に解放されていくものなのです。

「普通がいい」という病~「自分を取りもどす」10講 泉谷閑示



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