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日本神話では天津神、国津神があり、天津神が大陸からやって来て、国津神は土着の神様というようにいわれています。
日本の天皇家のルーツはユダヤとか宇宙から来た龍族だとかいわれていますが、私の中ではまだわかっていません。
日本の自然精霊界や国津神と言われるような霊的存在たちは、今の皇室を日本の皇室として認め、たいへん敬意を払っていると思います。
日本の自然界がなぜよそから来たと言われる天皇家をそのように受け入れていれるのかがずっと疑問でした。
神話で国譲りをすんなりしたんだからそういうことさ、と言われてもなんだか納得がいきません。
天皇陛下が日本国のために常に心を尽くされていることももちろんありますが。
先日紹介した「八咫烏(ヤタガラス)の「超」日本史」を読んで納得したのは藤原氏という存在。
大昔、大陸から来た人々と土着民は(といってもいろんな人が来ただろうし、地域や時代によっても違うでしょうが)、案外すんなり和合したんじゃないかと思います。
神話でも、高天原から使者として送られてきた神様たちがそのまま住み着いてしまい、戻らなかったという話が書かれています。
いわゆる天津神系と国津神系は,縄文時代の頃かもっと以前は争うことなく、共に暮らしていたのではないでしょうか?
だから本当はわざわざ天津神、国津神と分け隔てる必要はなかったんだと思います。
話をずいぶんはしょりますが、時代が経ち、藤原氏が現れ、自分たちが権力を握りたいがために、天津神、国津神を分けた歴史を新たに作り出したのかも?と思いました。
藤原氏が権力を握るために、天津神が国津神を制圧したという歴史を作りあげてしまった。
その後、その二分化、勝者と敗者というパターンが引きずられていき、溝を深くしていったような?
人種差別はその時の文化背景や教育によって身につくものだから、教育により敵対心や優越感、差別感を植えつけておけば、その軋轢はなかなか消えません。今の韓国の日本についての教育みたいに。
とはいえ、藤原氏以前の弥生時代にも大陸から来た人たちと土着民の間で熾烈な戦いはあったみたいなので、歴史やこういうことに詳しい人に突っ込まれたらこの話は一網打尽にされる気がします(笑)
私がすんなり腑に落ちたのは、大昔、天津神系と国津神系は和合していたということ。
二つを敵対させ、優劣をつけることで、権力を握ったのが藤原氏。
天津神と国津神や先住民と渡来民が争ったという話は、私たちの心に無意識に、二元性や敵対心、敵/味方,優越感や劣等感という概念を生みだしていると思います。
天津神と国津神は実は仲良かったんだーと思った時、私自身がすごく癒されたと言うか、ほっとしたと言うか、統合された気がしました。
そう思うと、自分の内面の話かもしれませんけど。
歴史上の事実はともかく、この話を象徴として受けとってほしいのですが、この構図/パターンは私たちの中に埋め込まれ、ずっとくり返されてきたと思います。
それが今の状況に似てるなーと、昨日「憲法改正に仕掛けられた4つのワナ」を読んで思ったのです。
いうなれば、官僚が藤原氏。
自分たちが権力を握るために憲法改正をしようとしている。
「憲法改正に仕掛けられた4つのワナ」で、官僚が自分たちの思うように国を動かせるようにしたがっていて、その後ろには多国籍企業が控えていると。
だから国民にとっても政治家にとっても本当の敵は官僚。
『彼ら政治家、官僚」たちが「日本」ではない。私たち国民こそが「日本」である。』
では天皇は?という疑問が起こりました。
ここに天皇と政治と国民という図式が出てきます。
山本太郎氏の一件で、とくに気に求めていなかった天皇陛下のお立場や権限に疑問が出てきました。
天皇陛下が日本の象徴だというのはいいですが、その象徴ってどういうこと?
天皇と国民の間に、政にたずさわる人たちが入って壁を作ってしまっているように感じました。
そうしたらこの文章に出会ったので、部分を転載します。
今回の件で見えてきたのが、「象徴としての天皇」というのが、実は公務や海外訪問や祭祀を行うことになってしまっていないか?
その本質であるべき『「国民の総意」の象徴』や『正しい統治の理念を具象化』を天皇陛下が示す機会はいったいどこにあるのでしょうか?
もし前者のみになっているとしたら、これこそ不敬なことと思います。
天皇陛下をかたちだけの象徴として国民とのつながりが断つのであれば、そこには巧みに日本国を操ろうとしている人たちの影が見え隠れするように思います。
『天皇は、今、わたしたち国民に国家倫理の体現者として必要とされている。』
意図はしてなかったとは思いますが、山本太郎氏の行動はそこをダイレクトについたんだと思います。
現在の天皇制は、天皇の本来の宇宙に通じる空なる柱となるところを表舞台から取り去ってしまったと思います。
それは密かに受け継がれているのでしょうが、国民とその部分が断絶されたことが日本国民の荒廃の大きな原因のひとつであり、アメリカがそれがつながることをとても恐れた結果だと思います。
でも完全に断たれているわけではないので、これからそれがまた復活していく方向に向かうのでしょうね。
とんでもない話になってきたなあ。
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日本神話では天津神、国津神があり、天津神が大陸からやって来て、国津神は土着の神様というようにいわれています。
日本の天皇家のルーツはユダヤとか宇宙から来た龍族だとかいわれていますが、私の中ではまだわかっていません。
日本の自然精霊界や国津神と言われるような霊的存在たちは、今の皇室を日本の皇室として認め、たいへん敬意を払っていると思います。
日本の自然界がなぜよそから来たと言われる天皇家をそのように受け入れていれるのかがずっと疑問でした。
神話で国譲りをすんなりしたんだからそういうことさ、と言われてもなんだか納得がいきません。
天皇陛下が日本国のために常に心を尽くされていることももちろんありますが。
先日紹介した「八咫烏(ヤタガラス)の「超」日本史」を読んで納得したのは藤原氏という存在。
大昔、大陸から来た人々と土着民は(といってもいろんな人が来ただろうし、地域や時代によっても違うでしょうが)、案外すんなり和合したんじゃないかと思います。
神話でも、高天原から使者として送られてきた神様たちがそのまま住み着いてしまい、戻らなかったという話が書かれています。
いわゆる天津神系と国津神系は,縄文時代の頃かもっと以前は争うことなく、共に暮らしていたのではないでしょうか?
だから本当はわざわざ天津神、国津神と分け隔てる必要はなかったんだと思います。
話をずいぶんはしょりますが、時代が経ち、藤原氏が現れ、自分たちが権力を握りたいがために、天津神、国津神を分けた歴史を新たに作り出したのかも?と思いました。
藤原氏が権力を握るために、天津神が国津神を制圧したという歴史を作りあげてしまった。
その後、その二分化、勝者と敗者というパターンが引きずられていき、溝を深くしていったような?
人種差別はその時の文化背景や教育によって身につくものだから、教育により敵対心や優越感、差別感を植えつけておけば、その軋轢はなかなか消えません。今の韓国の日本についての教育みたいに。
とはいえ、藤原氏以前の弥生時代にも大陸から来た人たちと土着民の間で熾烈な戦いはあったみたいなので、歴史やこういうことに詳しい人に突っ込まれたらこの話は一網打尽にされる気がします(笑)
私がすんなり腑に落ちたのは、大昔、天津神系と国津神系は和合していたということ。
二つを敵対させ、優劣をつけることで、権力を握ったのが藤原氏。
天津神と国津神や先住民と渡来民が争ったという話は、私たちの心に無意識に、二元性や敵対心、敵/味方,優越感や劣等感という概念を生みだしていると思います。
天津神と国津神は実は仲良かったんだーと思った時、私自身がすごく癒されたと言うか、ほっとしたと言うか、統合された気がしました。
そう思うと、自分の内面の話かもしれませんけど。
歴史上の事実はともかく、この話を象徴として受けとってほしいのですが、この構図/パターンは私たちの中に埋め込まれ、ずっとくり返されてきたと思います。
それが今の状況に似てるなーと、昨日「憲法改正に仕掛けられた4つのワナ」を読んで思ったのです。
いうなれば、官僚が藤原氏。
自分たちが権力を握るために憲法改正をしようとしている。
「憲法改正に仕掛けられた4つのワナ」で、官僚が自分たちの思うように国を動かせるようにしたがっていて、その後ろには多国籍企業が控えていると。
だから国民にとっても政治家にとっても本当の敵は官僚。
『彼ら政治家、官僚」たちが「日本」ではない。私たち国民こそが「日本」である。』
では天皇は?という疑問が起こりました。
ここに天皇と政治と国民という図式が出てきます。
山本太郎氏の一件で、とくに気に求めていなかった天皇陛下のお立場や権限に疑問が出てきました。
天皇陛下が日本の象徴だというのはいいですが、その象徴ってどういうこと?
天皇と国民の間に、政にたずさわる人たちが入って壁を作ってしまっているように感じました。
そうしたらこの文章に出会ったので、部分を転載します。
国民主権主義と天皇制を調和させることこそ、新憲法をめぐる解釈論上の最大の問題
いかなる多数も何ごとをもなしうる絶対の力ではなくて、正しい政治の理念には従わねばならず、そのような多数の意志が国民主権主義の下で「国民の総意」、国民全体の意志と意味づけられるのである。そして、この「国民の総意」を象徴するのが天皇である。日本の伝統によれば、天皇は「常に正しい統治の理念」を具象化してきた。その天皇の立場を純化したものが「象徴としての天皇」である。
象徴天皇制の象徴するものは国家の倫理である −山本太郎議員支持の表明に変えて
今回の件で見えてきたのが、「象徴としての天皇」というのが、実は公務や海外訪問や祭祀を行うことになってしまっていないか?
その本質であるべき『「国民の総意」の象徴』や『正しい統治の理念を具象化』を天皇陛下が示す機会はいったいどこにあるのでしょうか?
もし前者のみになっているとしたら、これこそ不敬なことと思います。
天皇陛下をかたちだけの象徴として国民とのつながりが断つのであれば、そこには巧みに日本国を操ろうとしている人たちの影が見え隠れするように思います。
象徴天皇制における天皇は、国民の儀礼の単なる対象ではなく、国民の倫理の体現者であると考える。国家の倫理がゆらぐとき、その地位を国民の総意に基づいている天皇は、倫理の体現を迫られる。
天皇は、今、わたしたち国民に国家倫理の体現者として必要とされている。
(上記サイトより)
『天皇は、今、わたしたち国民に国家倫理の体現者として必要とされている。』
意図はしてなかったとは思いますが、山本太郎氏の行動はそこをダイレクトについたんだと思います。
現在の天皇制は、天皇の本来の宇宙に通じる空なる柱となるところを表舞台から取り去ってしまったと思います。
それは密かに受け継がれているのでしょうが、国民とその部分が断絶されたことが日本国民の荒廃の大きな原因のひとつであり、アメリカがそれがつながることをとても恐れた結果だと思います。
でも完全に断たれているわけではないので、これからそれがまた復活していく方向に向かうのでしょうね。
とんでもない話になってきたなあ。
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