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前回からの続きです。

誤解のないように書いておきますが、

『神々しい神様と感応してエクスタシーを感じるのも、大量殺人を犯してエクスタシーを感じるのもその純粋な体感覚は同じものであるだろう』といってもいろんな感じ方があるので一概に言えません。

例えば、ひれ伏して頭も上げられないような畏れ多い大きなエネルギー(存在)に出会ったときは、ただもう頭を下げて、自分の卑小さや傲慢さを省みて、ごめんなさいごめんなさいという感じです。

とても神聖なエネルギーに出会ったときは、しんと静かにそこに座し、清々しい気持ちになるでしょう。
慈愛のエネルギーは許された感覚を得て、自然と涙があふれてくるかもしれません。

でもこれらの感覚は、あるものに接して生じた反応としての感覚だからちょっと違うかな?と書いてみて思ったりもしますが、こういう感覚と殺人のエクスタシーの感覚は全然違うでしょう。

殺人を犯して優越感に浸るとか、残酷感を楽しむとかいうのも今言っている感覚とは違います。


今回のは、理性で考えても解決法がない、不条理、非現実的、超現実的なことなど、自分の力ではどうしようもないことに出会った時、常識の一線を越えた(越えそうな)時の感覚かもしれません。

殺人を犯している時に神に遇ったような感覚を得るとしたらそういうことかな?

映画で,そういう風なシーンに荘厳な神を感じさせるようなクラシック音楽が流れたりするのは私たちの中にそういう感覚があるからだと思います。


今まではそのような感覚は神の領域となるか、鬼やタブーの領域となるかだったと思います。
どちらにしろ通常の人間の領域ではないんですが、もともとこれらはひとつで、分けたのは人間なんだろうなと思います。


ここ数年の流れで、自我(エゴ)支配からの解放というのが一つのテーマになっていました。
なので、「手放す」「浄化」「脱洗脳」「本当の自分」などいわれてきました。

エゴの恐れにとらわれた自分から自由になったとしても、それはあくまで自我の許容範囲内。
エゴから自由になったつもりでいたけど、なんだ、まだ自我の領域内なんだね。
(私の勝手な区別で、エゴは「小さい頃から自分だと思っている顕在意識の部分」で、自我は「個としての自分を認識している自分」という感じです。心理学的に用語があるんでしょうけど)

エゴ支配から解放された自分は心理的には「本当の自分」というかたちでいいんだろうけど、それはまだ表面的なんだなーどわかりました。

実生活を営む分、それぐらいの段階でとまっているほうが楽だし、幸せだし、楽しいと思います。

今までの自我崩壊はしがみついていたものを手放す作業で、手放したところでまだ地に足がついています。

今度は、自我意識がゼロになった領域でもまだ保っている一線、つまり自分の存在や正気を保っている一線を越えて、また新しい自我を形成するという感じでしょうか?

これは今までよりはるかに大きな意識のシフトだなと思いますが、そこに向かうのは一部の人間だけでしょう。かなり境界ですからね。

その人が優れているとか、選ばれたとかいうんではなく、ただその人がそれを望んでいるかどうかというところだと思います。

一握りの人が実感としてその領域を体験することにより、集合意識に変化が起き、全体がもう一つ統合に向かい、変化し始めると思います。

人が悟りや覚醒と言う時、どういう段階を指しているのかはわかりませんが、私自身はまだまだ悟ってもいないし、覚醒してもいないなあと思いました。

やっとこういう段階にこれたと気づいたことで、意識の世界の果てしなさを感じることができました。(でもだいぶん前に「和音」でこういう話出てたんだよね。ブログ記事にもしたけど、どこだったかなあ?)

常識的な自我と論理は介入できない。
前に書いてた「うしろの世界」と私が呼ぶものなんだけど、やっと実感できるぐらいに迫ってきたんだなーと思います。

まあ、私の意識が私の好みと成長に合わせて、そういう流れを作ってくれているというだけなのかもしれませんから、そう思うとこれも自分が作り出しているんだなーと思います。

自分が作り出しているからその世界が現れてくると思うと、自分自身も無限だなあと思います。

  

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