
前回の話の続きです。
映画の「R100」を見たというところまで書きました。
この映画は酷評されているそうですが、映画としてはともかく、私は松本人志氏がこの映画の中で試みていることを評価したいなと思います。
この映画は精神的にドキドキさせられます。
ごく普通の日常生活のくり返しから、とりかえしのつかないタブーの一線を越えるか越えないかというあたりのハラハラドキドキ感と怖さを主人公とともに感じます。
だんだんと出来事はエスカレートしていき、主人公は最後には一線をすっかり越え、境地に達して非現実が現実になってしまいます。
自我がタブーの一線を越えてしまえば、とてつもない恐怖はとてつもない快感に変わる可能性があります。
そうなれる人となれない人がいると思います。
その違いは何かというと、その部分に対する興味と好みの違いかなと思います。
なれない人は自我崩壊して気がふれてしまうか、悔い改めて社会的に罪を償う方向にいくでしょう。
私の見た夢もこれらの映画もその一線の際を表現しているところがあるなあと思いました。
また最近の傾向で、行き着くところまでいきたいんだろうか?と思われる表現が少なくないようにも思います。
人間の想像しうる極限を体験したいかのように。
人間は飽くなき欲望を持っている動物なのだと思います。
夢での体感が一番強いのですが、先日の白山登拝もけっこう体感的にその部分揺さぶられてました。
こうも立て続けにエグいものやタブーの境界を体験するのはなるほど白山の影響が来てるなーとR100の映画を観てから思いました。
いつぞやのネコがスズメを捕まえてバリバリと食べてしまった話は序章だったのかもしれません。
あのネコはうしろの世界からの使者ですからねー(笑)
私が今関わっている白山のパートはタブーと関係ある部分なので。
エグさの話ではなく、これらが私に示してきたのは、崇高な神聖なる境地も、タブーの一線を越えた境地もその感覚は同じものであるということだと思います。
ここに性と聖の話がつながっていくのですが。
簡単にいえば、神々しい神様と感応してエクスタシーを感じるのも、大量殺人を犯してエクスタシーを感じるのもその純粋な体感覚は同じものであるだろうということ。
ただ、殺人を犯してエクスタシーを感じるときはすでにエゴの恐怖は通り越してないといけないです。
でないと、警察につかまったらどうしよう?とか、人を殺した罪悪感などに苛まされますので、その段階はまだ現実を突き抜けてませんからエクスタシーは感じられません。
非日常的、非現実的、理性の限界を超えるもの。
タブーの極地と聖の極地は、思考を超えたところにある感覚という意味では同じものの裏表なのだと思います。
ということで、また次回に。

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