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東京都内でのセッション、10月28日です。
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昨日の記事についてですが、一番言いたかったことが書けてないことに気づきました。

私が一番言いたかったことは、観念や価値観が変わると常識も変わるってことかな。


今の時代は、すでに正論となっているものに照らし合わせて、それに合っているかいないかで真実か否かが決められていることが多いように思います。
これはすでに認められている情報をもとに判断しています。


中世はあらゆる人が異界や神仏の世界とつながれると思われていた時代だったらしいので、そうなると、基準は「あらゆる人が異界と交流できる」ということだったようです。

だから個々人が内的世界につながっておろしてくる情報はすべてオーケー。

正しいかどうか照合する基準などなく、その人にとってはすべて真実だったというレベルで受け入れられていたようです。

私はその本に書いてあった文章で「そんな時代だったんだー」と想像しているから、けっこう勝手な解釈で、これが本当かどうかは知りませんけど。


すでに事実とされていることを基準にするのか、
個々人が事実だと思うことがそれぞれの基準となるのか。


後者の場合はたくさんの現実が現れてくるわけですが、本人が体験したこと(夢の中やイメージかもしれないけど)はその人にとっては事実であると尊重する姿勢なわけです。


ここで「事実、現実」の尺度が違ってきます。

過去のデータから導き出されたものによって判断されるか、
個人の主観的判断によるか。

個人の主観的判断が社会的に認められているのであれば、精神障害の人たちが見る幻想、幻聴なども「その人にとっては現実である」と受け入れられていたのか、あるいは教祖様になっていたのかも〜〜〜。

現代では、頭がおかしいとか気が狂っているとか言われかねませんが。


どこに判断基準をおくかで全然違ってきます。

そういう基準は危ないと言えば危ないですが、そういうことが中世は社会的に受け入れられて、まかりとおっていたということが新鮮な驚きでした。


ところで、その本を読んで疑問に思ったことは、正史といわれている?「記紀」が当時の権力者の藤原家によって一方的に書かれているそうですが、だれもそのことには言及していなかったところ。

古史古伝が偽書かどうかと話す以前に、記紀自体が偽書ともいえるのではないか?と思ったんですが。
私は「記紀」がどんな話か知らないんで勝手な憶測で書いていますけど、正論とされているものに基準をおけば、それとずれるものは偽書なわけで。

誰もそれを書かないのもまた歴史を物語っているのかなーと思いました。


昔、西洋人が布教で未開国に行ったとき、現地の人たちを野蛮人とみなしたのも同じようなことですね。
自分らの基準でまわりを判断していたのですから。

でも実際は、西洋人よりはるかに高度の精神世界を形成していた民族も少なくなかったわけです。


刷り込みや洗脳の話を前に書いたかもしれないけど(メルマガだったかな?)、こういう自動思考は気をつけたいです。
私たちも日常的にたくさんしているはずですから。


まあ、それはともかく、、、

史実に基づくことが正しいと言われる時代はそれに合致しないものは偽書とされますが、みんなが異界とつながれることが事実だと思われた時代は、どんなストーリーも受け入れられたというのがおもしろいと思います。

前提となる価値観なり世界観の違いで、接し方や受けとり方が全然違ってきますね。


今まさに時代的にもそういうところにいると思います。

今まで正しいと思われてきたことが実は、、、そうじゃなかったかも〜〜?

ある考え、概念、思想を礎として築かれてきた学問、とくにアカデミックなフィールドでは、何十年も研究してきたことの基盤となるところがもしかして違ってたかも〜?なんてことがあったら、権威ある研究者の方々はたいへんですね。

正直に自分の説はある仮定からまちがっていたと言える人は立派ですが、なかなか勇気いることでしょう。たいていの方は必死で自分の説を正当化しようとして事実をゆがめてしまうかも?です。

311以降、そういうこと、見え隠れしてますね。


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