昨日はネコがスズメを捕まえる瞬間に遭遇し、そのあとの経過を最後まで見ることになりました。
それでいろいろと思うところがありました。

捕らわれた雀はかわいそうではありますが、自然の中で起こっていることなので、ここで私が「生き物は殺しちゃダメだよ」なんて人間的思考を持ち込んでとりあげるのもなんなので、そのままにしておきました。
このところは意見の分かれるところかもしれませんが。

ネコにくわえらえたスズメはまだ生きていましたので、ネコがじゃれて遊んで、だんだんと死んで行く様をみました。
すでに急所をやられたのか、ショックでか、あんまりバタバタはしませんでしたが、弱々しく息をしていたりぴくぴく動いたりするのを見ていると胸が痛みます。


なんだかんだときれいごとを言ったところでこれが現実というものなんだよなーと思いました。

ここにいろんな考えを持ち込むのは人間です。

これを残酷だ、野蛮だと思い、スズメを助けようとするのは、先住民の地を奪って自らの「洗練」された文明を押し付けた文明人の奢りのようにも感じました。

また、傷つく者を見殺しにする冷酷な人間のようにも感じたし、無差別殺人をする人のことを思ったり。


死んでいくスズメは「見殺しにするのか?助けてくれ」と思っていたかもしれないし、なにも感じていなかったかもしれないし、そうなることを受け入れてたかもしれません。それは知る由もありません。

ネコにしてみれば、獲物を捕ってご満悦でしょう。
かわいそうとは考えないと思います。

また、私もいつこのスズメのようになるかわからないよねとも思い、その時に何を想うかなあと考えたり。

現実ではこのようなことはいつでも起こっています。
理不尽,不条理なこともたくさんありますので、そのことにまた思いを馳せたり。


瀕死のスズメとじゃれているネコを写真にとろうとカメラを向けた時は、スズメから非難の声を聴いたように感じて自分が恥ずかしくなりました。

交通事故や事件があった時に相手の気持ちを考えずにカメラを向ける人たちと同じだーと思いました。
悪く言えば、殺人現場に居合わせて、助けず写真をとろうとしたのですから。


胸が痛くなりながらも、ネコがスズメと遊ぶのをしばらく見ながら、スズメさんが早く息絶えるように、血肉があんまり出ないようにと願いました。

そのうちスズメも息絶えたのでしょう。

動かなくなったスズメに飽きたのか、ネコがおもむろにバリバリとスズメを食べ始めました。

ネコはいたぶって食べずに放っておくと思っていたし、羽があってあまり食べれないだろうなと思っていたのですが、羽を避けて食べるだろうというのは私の先入観だったらしく、羽ごとバリバリと食べていきます。

うわー!と思っているうちに胴体も足も羽も食べて、最後は頭も全部食べちゃいました。
足もなく、残ったのは羽根数枚が散らばっている状態。血も落ちてません。

まさか全部丸ごと食べるとは!と驚いたんですが、ヘンな話、ネコが全部食べたことで私はちょっとほっとしたんですね。

なぜかスズメもこれで報われたなーと思ったのです。

それまでに感じていた獲物を捕る,殺して食べる、弱肉強食という感覚が失せて、自然の循環の中のサイクルの一コマになったような、食べられたというより同化したという感覚。

弱肉強食という言い方をしますが、実際はそうではなく、食べつ食べられの連鎖の中でいのちは受け継がれていくんだなーと思いました。


さっきまで形あったものが今はネコの腹の中か、、とけっこう衝撃的なシーンだったなーと思っていましたら、しばらくしてネコが突然ゲホゲホしたかと思うと、先ほど食べたスズメを一気にゲゲーッと吐き出しました。

ネコはあまり噛まずに呑み込むので消化能力が高いんだろうなと思っていましたが、出てきたものはもはやスズメの形はなく、それなりに内臓らしきものはありますが、固形物の残っている消化不良のゲロみたいになってました。

さっき丸ごと食べたスズメの頭もすでにかたちなく、、、。


自然の営みとはすごいなーと思いましたが、少し前までスズメであったものがもはやゲロと化して目の前に落ちています。

スズメの形が残っていれば、かわいそうにと感じたかもしれませんが、ゲロを前にしてはその気持ちもなく、これ、片付けるか、いやだな、、、という気持ち。

ネコが吐き出した「生もの」は庭で虫や微生物に食べてもらうことにしました。
その後、大雨が降ったのでもうなくなっているでしょう。


最後はちょっと不思議な感覚だったのですが、視覚的には、スズメとして形あったものがネコの体内に消えていったのち、不完全消化ゲロと化して庭の土に置かれたという現実です。

スズメのエネルギーはどこにいったんだろう?と思いました。
「スズメのエネルギーって?」と思うんですが、スズメという存在がネコの中に入り,出て、土に消えたわけですが、「スズメがいた」という事実は私の記憶の中に残っています。

物質としての形はそのように変化したわけですが、エネルギーとしてのスズメはなくなったわけでなく、変化しただけなんだなと思いました。
どこにどのように変化したかはわからないですが、多分、ネコに取り込まれたんじゃないかな?という気がします。

そういう意味では、ネコの中で生きているということになるかもしれません。

以前もそばの話のところで書きましたが、食するということの本質はそうなのかな?と思ったりもします。

が、そんなことを考えるのも人間の勝手であり、ネコもスズメもただ「その時を生きた」ということなんだろうなと思います。


ネコを見ているとすごく思うのですが、実に今を生きているなあと思います。
持ち物も着るものもなく、その日暮らしで食べ物を得て、あとは気ままに寝ている毎日。

明日食べ物がなかったらどうしよう?と考えているようにはみえません。
スズメも同じです。

今をそのまま生きています。

地球上では実は人間が一番悟ってないかもしれないなーと思います。


ネコがスズメを丸ごと食べる光景は初めてでしたので、しばらく印象に残っていましたが、これがスズメだったから私はそのままにしたんだろうなと思いました。

例えば、人間の赤ちゃんであれば、即、助けたでしょう。
子ネコであっても多分、引き離したと思います。

けれどもスズメはそのまま食べられるままにしました、、、。
以前、蝶、バッタ、セミと捕まえてきたことありましたが、その時も心傷みましたが、私は何もしませんでした。
ネズミでもそのまま放っていたでしょうね。イタチやらヘビもそうかなあ?

これは差別ではないかな?と考えました。
自分の中の基準値があり、これはOK、これはダメというのがあります。

いのちの価値としてみれば同じことなんだけど。

なんて思っていると、私の頭の中に支配者層と一般人の構図が現れてきます。

一部の支配者層の人たちが「人口が増え過ぎだから減らしましょう」といろいろと動いているというのは本当なんだなと最近実感していたのですが、スズメは食べられてよくて人の赤ちゃんはダメというのも基本、同じ構図だよねと思いました。

すべて自分の中にあるんだなーと思いました。
自分の中でその折り合いがついて解決策が出てくると、自分が見ている社会も変わっていくんだろうなと思います。


実際はネコがスズメを捕まえて食べたという行程を見ただけなんですが、その間、実にいろんなことをいろんな角度から見ている自分がいるなあと感じました。

リンクさせているんですよね、目の前の出来事と自分の経験知と。

そして、あ、自分の中のこの考えはこの視点から見てるぞ、あ、これはこちらだという風に、違う立場からの視点で見ている自分に何度も気づきました。

現実社会で自分が見ているものはすべて自分の中にその縮図があるんだなあと再認識。
でも普段気づいてない場合がほとんどだと思います。


また、子どもたちに見せたい光景だと思いました。

残酷といえば残酷かもしれないですが、これを見たそれぞれがいろんなことを考えるでしょうから、とてもいい勉強になると思います。
ここにこれが正しいという答えはないと思いますけど。


また、この行程を見ながら、人間が肉をお店で買って料理して食べたいのなら、一度は屠殺を経験すべきじゃないかなと思いました。これは以前から思っていることなんですが。

自分で捕まえて殺して食べるという経験。

それを体験してみると、いのちの大切さや生きるということがもっと深くわかってくるんだろうなと思います。



余談ですが、なんでこういう光景に出くわしたんだろうと思いましたが、その日のうちにつながる出来事がありました。

それは白山、穢多非人、瀬織津姫の話につながっていくのですが、今日3つの偶然が重なり、どれもが同じことをいっていました。

これがまたこれからの日本に大きく関わっていくことになるだろうなと。
タブーがくつがえされる日もそう遠くない気がします。
死と生と性と天皇と。


そして、これを書き上げておもむろに取り出した本。
この日、図書館から借りてきた本です。
それを読み始めると、浜辺で死んでいる鳥を見つけたが、突然、少年が現れ、その鳥を生き返らせて飛ばせたという出だしでした、、、。

きっと今日のスズメも肉体から自由になって飛んでいったのでしょう、、と思うことにします。