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前回の話を書いてから、そういえば「降りていく生き方」という映画があったなあとサイトを見てみました。
私はまだこの映画を観てないですが、文章に共感しましたので、一部抜粋してここに載せておきます。

これまで日本人は、「物質的に豊かになれば幸福になる」「多くもつものが幸福である」という、カネやモノをより多く得ることを欲求の対象として生きてきた。
これは、「足していく」ことに価値を見出す、「足し算の生き方」といえよう。
しかし、物質的な豊かさの追求によって幸福を得るのが難しいのが明らかな現代社会においては、多く持ちすぎることによって、何が大切かわからなくなっているといえよう。
即ち、何を得るかではなく、「何を手放すか、捨てるか」ということこそが、いまは大事なのである。 つまり、いらないもの、無駄なものをどんどんと「引いていき」、本当に大事なものを見すえるという「引き算の生き方」こそが、何が大切か分からなくなっている現代の日本人にとって大事なのである。
豊かさを目指して国民一体となって「昇っていく」時代においては、たくさん得ることがしあわせのように思えた。 しかし、いま我々は、経済成長がピークを迎え、下り坂の時代を生きているのだ。

もう昇っていこうにも、昇るところはない。

私たちが夢見ていた世界は、本当に夢であり、幻想に過ぎなかったのだ。
私たち日本人にとっては、右肩上がりに駆け上っていく時代は終わった。もう経済成長は望むことはできないのだ。
この現実をしっかりととらえて、自然や環境に即応していくという新しい「生き方」「考え方」をもたねばらなないという事実をしっかり認識することが大切なのだ。

人間文明終焉の危機、すなわち人間圏が消滅の危機に瀕しているのは、石油や石炭といった地球システムに重大な影響を与える資源に依存する「ストック依存型」の生き方をするようになったからである。
従って、私たちが人間圏消滅の危機から脱するには、私たちの「生き方」を、地球システムが自然につくりだす物質やエネルギーの循環に依存する「フロー依存型」の生き方にしていく必要がある。
これは、「人間圏」をもういちど「生物圏」に近づける生き方ともいえる。すなわち、人間を「特別の存在」と考えるのではなく、「自然の一部」であり、他の生物と対等である「対称性」ある存在として、「天地自然の理」に則って生活する道を選ぶのである。

それをまさに実現していたのが、我々の祖先である「縄文人」なのである。


縄文人は、天地自然の理に基づいて、宇宙や自然や生物との一体感の中、自然の恵みに感謝し、祈り、腕力や能力の差異はあれど、相互に尊重しあい、助け合いの協力関係の中で生きていた。
その生活は、生命感にあふれたものだったであろう。 彼らのそのような生き方こそがまさに縄文土器に象徴されているのである。
縄文人は、地球システムがつくりだす物質やエネルギーの循環に依拠し、狩猟採集し、栽培や養殖をして、つつましく生きていたのである。

しかも、縄文人は、一万年の長きにわたり、戦争を行わなかった。一体となって平和に暮らしていたのである。 縄文人は家族団らんを始めた人たちでもあった。家族愛に満ちていたのである。幼く死んだわが子を足型として残し肌身離さずもちあるいた。
まさに愛に満ちた生き方である。

「縄文人など、しょせん文明的でない野蛮人だよ」
と思う人もいるかもしれない。

しかし、彼らを現代人より劣っているといえるか?
現代人のどこが縄文人に勝っているのか?

縄文人たちの生き方こそが、希望を喪失して苦しむ我々現代人に対して、立ち戻るべき人間圏の原点を示唆しているのである。

縄文人たちは、動物と人間を同列の存在と考えていた。
つまり、自分たちは、「生物圏」に属するものであるという認識が明確であったのである。
だから、熊も、サケも、山羊も、兄弟だったのである。

それは、「地球システム」という観点からすると、極めて正しい認識だったといってよい。
地球システムとの関係では、動物たちも人間も、その存在価値において差異はなかったのであるから。

縄文人とつながりがある、アイヌや沖縄の人々、先住民などの神話の世界からは、現代人は大いに学ぶところがある。
それらに、現代人が立ち戻るべき生き方があるからである。

また、縄文人たちは、生きることと死ぬことを一体のものとして捉えていた。
自分たちの生きているこの世界は、この宇宙は、一体どういうものなのか。自分はどこから来て、死んでどこに行くのか。 そういうことを自然と一体の生活の中から、神話として紡ぎだし、コスモロジー(世界観)として有していた。
自分が死んだ後の行く末も、世界観の中に織り込んで生きていた縄文時代の人々は、たとえ生きて行く上で生命の危険が多かったとしても、現代人ほどは不安でなかったのではないだろうか。
現代人も、生きることばかりでなく、死ぬということの意味も、縄文人に倣って考える必要性があるのではるまいか。

死ぬということ、死んだ後のことまでイメージしてこそ、生きるということの意味もわかってくるのではないだろうか?
縄文人は森の中で暮らしていた。森のもたらす豊かな恵の中で生きていたのである。
そして、豊かな森は、人間や生物が生きていく上で不可欠な水を涵養する力がある。
縄文人などかつての人間は、森には神の力が宿っていると畏敬の念を抱いていた。
それによって、森は開発から免れ、生命を育む力を持ち続けたのである。だから日本人は、長らく森を大切にしていたのである。
神社の「鎮守の森」も、そういう縄文人以来の知恵を具現化したものといえよう。

日本人は後に狩猟採集から農耕生活へと移行する。しかし、畑作牧畜ではなく、農耕漁撈へと移っていく。農耕漁撈は、畑作牧畜と比して、自然に負担をかけない、地球システムに影響が少ない生活である。
一方で、欧米的な、畑作牧畜は、森を破壊する文明である。
縄文以来の名残を残し、森を守り、自然との一体感のある農耕漁撈生活こそ、日本人が立ち戻るべき生き方なのである。


日本人の天地自然の理に則った自然と一体化した農耕の典型例が、「棚田」である。 棚田は、自然と人間の知恵が融合した美しい情景である。
棚田は、森の豊かで滋養あふれた水を使って、美味くていのちにあふれた米をつくりだす。
日本の豊かな自然と森と水は、稲の力を引き出し、肥料や農薬など使わずとも、美味しい米をつくりだしたのである。

ところが、戦後、コメを効率よく大量につくろうと考え、化学肥料と農薬が使われるようになった。
それは、人間の健康にはもちろん、土壌にも深刻な影響を与え、害虫が出やすい環境をつくってしまったのである。
本来、コメや野菜は、肥料など使わずとも十分に生育するものであり、天地自然の理に則った育て方こそが、もっともその力を引き出し、しかも美味しくなるのである。
そういう、本来の栽培方法に戻るべき時期にあるのではないだろうか。また、戦後、日本の森は、経済目的で植えられた杉やヒノキの人工林ばかりになってしまった。
しかも、安い輸入材が市場を席巻したため、日本の人工林の木材は商売にならず、杉やヒノキの人工林は荒れたまま放置されている。
その結果、森や荒れて、涵養力は落ち、このままでは水源が枯渇する危険性があるのである。 従って、人工林を間伐するとともに、落葉広葉樹を植林して森の涵養力をアップさせるよう、奥山を再生することが急務なのである。このように、奥山や、棚田をはじめとする里山を、再生していく必要が、私たち現代の日本人の急務なのである。

森をつくることは、人間と自然の一体性を体感させ、取り戻させてくれる。
学校教育においても、地域づくりにおいても、森をつくることは非常に役に立つ。 森
をつくることが、すべての問題の出発点であるといってもいいのである。

そして、「生きて行く喜び」を「生き物として」「肉体で」感じるような生き方をすることが大切である。
そのために、「自然」や「動物」や「人間」と一体化するための「祭り」というものの意義をもう一度縄文人や先住民たちに学び、そのスピリットを再現した現代の「祭り」を創り上げるべきである。
自他が一体となる「場」を創造することが大切なのである。

自他が一体となるにあたって大事なことは何か。
それは、「新しい出会い」と「対話」である。

自分が感じたことを素直に語ることが、他者の情動を引き起こし、新しいイメージを生み出す。
そのイメージが、さらに他者のイメージを引き出す。
そうやってつながり大きくなったイメージは、自然と、自他の境をなくし、一体感を醸し出す。

つまり、それぞれが、自分を語り、耳を傾け、他者の語りの中に自分とのつながりを自然と感じていく「場」をつくっていくことが大事なのである。そうすることで、人々はつながり、新しい「コミュニティ」が生まれる。

人々がいきいきとしている豊かな場は、まるで、たくさんの微生物たちがお互いにつながり関わりあって発酵し、エネルギーと新しい酒を生み出している酒蔵のようである。
そこは実に生命力にあふれ、楽しさと喜びに満ちている場なのだ。

発酵しているいきいきとした人々の場においては、第一の関心事はこれまでのように「お金」ではなく、「生命の躍動感」になっていくことだろう。
いのちがよろこび、心がわくわくするようなこと。そういうことで、つながりあうコミュニティ。
そんな新しいコミュニティをつくっていくことにこそ、私たちの未来への希望というものが見出せるように思うのである。

これまで日本では、東京に全てが一極集中し、地方・ローカルは、その分配や受け皿となってきたのが実情であった。
東京で行われ、流行したことが、全国の地方に広がっていくという構図だったのである。
それは、「欲望」と「お金」が流通する構図だったといってもよい。
しかし、この東京を中心とする全国一律主義は、人間を「マーケット」「数字」「お金」に置き換えてしまうものであり、人と人とのつながりというものは重視されず、むしろ断たれてきたといえよう。これからの出発点は、「お金」ではなく、「人間」「自然」そして「いのち」でなくてはならない。
それこそが、我々現代人が縄文人に学ぶべき最大のものであろう。

これからの時代、深刻な世界恐慌となり、景気の回復も見込めないであろう。
だからといって、落ち込む必要があるだろうか。
しかし、マネーという共同幻想から離脱し、人間として自立した生き方を歩み始めれば、怖いものなどない。
お金を「目的」ではなく、「手段」としてわが手に取り戻せばいいだけなのだ。

人間とその欲望がつくりだしてきた「マネー万能」の共同幻想と、マネーが極大化したグローバリズムの正体を見極めて、そこから脱し、私たちが生きてゆく上で本当に大事なものが何かに気付き、そして、昇ってゆく時代の終焉を迎えた現代日本人が、下っていく時代のための新しい生き方を発見してゆく。

そういう物語を描き出すために、私たちは映画「降りてゆく生き方」をつくりました。
この映画を見終わった後に、あなたの中で希望の灯がともったとしたら、私たちにとってそれ以上のしあわせはありません。

「降りてゆく生き方|映画&総合情報 公式サイト」


一昔前に私がたてた最大の目標は「森をつくる」でした。

そのためにはお金持ちになって土地を買って、、、と思っていたので、実現しないだろうけど実現できたらいいなあという程度のものでした。

が、今年になってパーマカルチャーを学び出して、その一回目の講習の時に「パーマカルチャーとは一言で言えば、『世界を森にする』ことです。」と聞き、あれ?そういえば、私が昔たてた夢は、、と思い出し、こんなところでつながるなんて潜在意識すごいなーと思ったのでした。

やっぱり私は森をつくりたいと思います。
まずは身近なところから、自分の庭で、自分の心の中で森をつくり始めようと思います。

でも本当のところは、私自身が森になりたいんだと思います。
森のような人でも、人間やめて森と化してしまうのもあこがれるなあ〜。

死んだら墓の中ではなく、森に屍を放置か土に埋めてほしいなあと山に登るようになってから思うようになりました。倒木が朽ちて苔むしていくさまは美しいです。

森さんという人と結婚したら森になれるけど〜〜ちょっと意味が違う〜〜


「あなたは何になりたいですか?」 
「はい、森になりたいです。」の一言にすべて集約される

これは私にとってわかりやすくていいな。

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