
前回の記事を書いていたらとても興味深い記事を見つけました。
白山信仰と穢多
そこからの引用ですが、興味ひかれた人は全文読んでいただきたい。
代々の弾左衞門は、己の職業に「精神的ないやしさ」を感じるどころか、「誇りと自負心」を持っていたのです。
弾左衞門は、白山神社の神に「己の職業に与えられた精神的いやしさからの解放」を祈り求めたりはしなかった・・・、それが、『部落学序説』を提唱する筆者の見解です。
それでは、弾左衞門や東日本一円にある穢多村の住人たちは、白山神社の神に何を祈ったのでしょう。
『部落解放史熱と光を上巻』によると、民俗学者の折口信夫は、加賀白山神社が「ククリヒメ」(黄泉国へ行って穢れを被ったイザナギを淨化させた女神)を祀っていることから、「ケガレ淨化との関わりを指摘した」といいます。同じく民俗学者の宮田登は「これは職能祖神というべきもので、その職能の安全を保護する神霊といってもよかった」といいます。宮田登著『ケガレの民俗誌差別の文化的要因』の中で、「ケガレた状態を元に戻す」・「穢れを除去する」神と説明しています。
前回の記事で、「千蛇ヶ池の蛇」の蛇は制圧された人たちのことであると書きましたが、その人たちの一部が穢多・非人となったであろうことは予想されます。
昨日の記事を書きながら、もともと白山にあった土着の信仰について思いを馳せていましたが、この記事が参考になりました。
これから書こうと思っていたことともつながり、これからの女性性の時代に向けての意識変換にも必要なこと。
また、私が言うところの「悪役の愛」や「うしろの世界の愛」にもつながることです。
それが腑に落ちると世の中の見方が180度がらりと変わりさえしますので、その人に大きなブレイクスルーをひきおこすでしょうけど、けっこうここが岐路になる人もいるかもしれません。
「ククリヒメ」について『「ケガレた状態を元に戻す」・「穢れを除去する」神』と書かれてますが、私は菊理姫は第三の力、つまり、二つの対極を結び合わせ、循環させる役割を持っていると思います。
陰と陽は別々にあってはいのちを生みだしません。
循環することでいのちを生みだします。
陰と陽を循環させる力、それがくくることでもあり、菊理姫の役割だと思っています。
ケガレとはなにか?
それは循環が止まっている状態、詰まり滞って気が枯れている状態だと思います。
だから、「ケガレた状態を元に戻す」・「穢れを除去する」は「滞りをなくして循環させる」ということなのだと思います。
「ケガレ(気枯れ)」は「ケガレ(穢れ)」ではなかったけど、いつのまにやら不浄であり、忌み嫌うべきものにされてしまったのだと思います。
しかしながら、もう一つの観点からみたケガレとはなにか?
それはハレの別の姿にほかならないともいえます。
ウィキペディアの「穢れ」
私たちの観念の根源的なところで見直すべきことがあると思います。
今回の白山行きはこういうところと関わっているようですが、美濃の最後に行った御嶽山、、、そして昨日読み終えたゲド戦記3巻、、、つながっていくなあ。
しかしながら私が少し以前に思いうかべてたのは3巻ではなく、4巻のことだったようです。

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