
話は少し遡りますが、阿波に行った翌週、美濃方面に行きました。
「寝覚の床」という川に神殿のごとく巨石群があるところに連れて行ってもらいました。
ここに浦島太郎伝説があるのですが、妙に現実的で気に入ってしまいました。
寝覚之床 臨川寺のパンフに載っていた物語です。
浦島太郎の伝説
こんな山の中に、浦島太郎の伝説があるなんて、ちょっとおかしいことであるが、浦島太郎が龍宮へ行ったという話は、やはり海岸のことで、今の京都の天橋立である。この海岸で亀を助けてやり、その亀につれられて,龍宮へ行ったのであるが、龍宮での話や、龍宮から帰ってくるまでは、おとぎ話にある通りである。ところが帰ってみると、親兄弟はもちろんのこと、親族隣人誰一人として知っている人はなく、我が家もないので、そこに住むことができず、昔のことで何処をどう通ったともなく、この山の中にさまよいこんできた。この木曽路の風景に淋しい独りをなぐさめられながら、好きな釣りをしたり、或は村人に珍しい龍宮の話をしたりして暮らして居ったところ、或る日のこと、フッと思いついたように、土産にもらってきた玉手箱をあけて見たならば、一ぺんに三百歳のおじいさんになってしまい、ビックリして眼がさめた。眼をさましたというのでここを寝覚という。ところで、ただでさえ変わったこわい人だと思っていた村人は、この有様に驚いて近寄らないようになってしまったので、ここに住むこともできなくなり、その行方を消してしまったのである。その跡を見ると龍宮から授かってきた弁財天の尊像や遺品があったので、これを小祠に納め寺を建ててその菩提をとむらったといういう。約千二百年前のことである。今の寝覚山臨川寺がその始まりである。
おとぎ話の浦島伝説はご存知の通りです。
浦島伝説や龍宮にまつわるいろんな話はとりあえず今は横においておきます。
この話で面白かったなーと思うのはこちらの日常世界の観点から見て書かれているというところです。龍宮へ行ったからと英雄になるわけでもなく、戻ってきたら三百年も経っていて知る人がいないし、家もない。
実際の話、異国にひとり放り出されたようなものですから、普通に考えると大変なことです。
その時の太郎さんの心中やいかに?
それは想像するしかありません。
どうにか居場所を見つけ、そこで落ち着くことができたある日、フッと思いついたように玉手箱を開けました。『フッと思いついたように』というのがまた面白いです。
そうしたら一気に三百歳になってしまった!
そして『ビックリして眼がさめた。』そうです。
『ビックリして眼がさめた。』としか書いてないので、これもあとは想像するしかないのですが、『眼がさめた』とはどういうことか?
今までのことが夢だったということか? 覚醒したということか?はたまた、、、?
しかしながらその後の記述で、『ただでさえ変わったこわい人だと思っていた村人は、この有様に驚いて近寄らないようになってしまったので、ここに住むこともできなくなり、その行方を消してしまったのである。』と書かれています。
踏んだり蹴ったりの太郎さんです。
龍宮へ行ったというのは、今で言えば、宇宙船に乗ったとか、金星へ行ったと言うようなものなので、確かに一般人からしたらヘンな人でしょう。
そんな人が突然三百歳のおじいさんになったら、そりゃ、こわがっても当然かもしれないですね。
太郎さん、そのおかげでそこにもいれなくなってどこかに行ってしまった。
その後はどこでどう暮らしたか、、、?
亀を助けたばかりに波瀾万丈な人生です。
・・という見方はこちらの現世的な視点からみた見方ですが。
この物語を読むといったい何が現実なのだろうか?と思います。
太郎さんは龍宮ではきっと「これは現実だろうか?夢を見ているのだろうか?」と何度も疑ったと思います。
なぜ疑うのか?というと、現実ではあり得ないと思っていたことを実際に体験しているからです。
こちらの世界に戻ってきてからは、龍宮に本当に行っていたのだろうか?それとも今目の前にある世界が幻想だろうか?それとも両方、現実?幻想?現実っていったいなに?と思いあぐねることも少なくなかったと思います。
そしてそんなこんなで玉手箱を開けてみたら、突如三百歳になってしまいます。
そして、『ビックリして眼がさめた。』
いったいなにから眼がさめたのでしょう?
一気に年を取った太郎さんを見て、村人は非現実的なものを感じとり、近寄らなくなりました。
これは起こるべきことではないことが起こっていると理性がうけつけなかったのだと思います。
私たちは徐々に年をとっていくものだという信念をもっています。人によっては信念ではなく、知識、あるいはは現実だという人もいるでしょう。
確かに私たちは年をとっていきますが、私たちは年をとるものだという知識と経験があるから年をとっているとも言えます。
同年でも老けて見える人もいれば若く見える人もいます。
どこかのある部族では、年数で年齢を決めず、見えたままの年齢が実年齢だというところがあるそうです。
そういわれると、なんで何年生きたかが年齢となるんだろう?という素朴な疑問が起こります。
気も若く健康な人がいれば、それに見合う年齢が実際の年齢だといってもいいのではないか?と思います。
なぜならその人が経験している時間は必ずしも時計で刻まれる時間だとは限らないからです。
なんてことを考えながら、この物語を読むと、いったいどこまでが現実でどこまでがそうでないのか?と考えて、楽しくなりました。
これ全部作り話ということもできますし、全部、本当にあったことと言うこともできます。
それが事実かどうかはあまり重要ではないのですが、私たちが生きていると思っているこの世の中、はたしてどこまでが現実でどこまでが幻想かを吟味してみてもいいと思います。
自分が現実だと思ったことを私たちは現実だと思うんですけどね。
実際はどうか?と疑ってみるといいと思います。
太郎さんはいったいなにから眼をさましたのでしょうね?

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