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最近、なかなかパソコンにゆっくり向かう時間がなく、そのうえ眠さに勝てず、また明日にでもと思って後回しにしてまた書けず、、、と思っている間に、書きたいことはどんどんと過去の産物になってしまいますね。


阿波の話ももうずいぶん前のような気がしてしまいます。

淡路島の地震後、「淡路島に行かなくては」と急に思い立ちました。
「丸に点」のシンボルが私のところに来ていて、淡路島南部か、鳴門の方にこのシンボルに関係するところがあるはずと地図で探していくつかの候補を見つけて出かけました。

このブログを以前から読んでいる人は、私のヒルコの流れを読んでおられると思います。
今回は、ヒルコと淡島の謎解きと生まれ直しが関係してのことと思いました。


いくつかの場所を巡りましたが、ほとんど阿波地方となりました。

今回行ったところは、もう忘れ去れて放置状態だったり、鉄塔や工場が神社のすぐ近くにあるような荒んだ状況だったりと、神様不在と化した建物だけのほとんど放置されたような神社が多かったです。

ヒルコと淡島は流されてしまった神様だからそういうところばかりなのかなー?と思ったり。
女性性も関係していたので、その扱いがまるで男性社会の女性蔑視や環境破壊が象徴的に現れているようにみえたり。


舞は2カ所でしましたが、そのひとつは伊射奈美(いざなみ)神社の元地でした。
洪水で流されて今は別地に立てられていますが、もともとあったのは川の中州。運良く、ちょうどギリギリ飛び石で渡れる水位でその中州まで行くことができました。

ここはまさに私が今回探していたところでした。

お天気もよく、広々としたところでとても静かです。
まるで時が止まったかのよう。


数年前の夏に、大地から重い暗いエネルギーが浮上して、これがイザナミのエネルギーか〜と思った時がありましたが、あれは一側面だったんだなと思いました。

本当のイザナミのエネルギーは、あるがまま。
一寸も違わず、そのままを受容するエネルギー。

塵一つ分の違いもなく、ただある状態がただあるがままにあるというエネルギーなので、本当は「受容」ではないですが。

「受容する」というからには、受容していない状態があったから受容することになってしまいますが、それ以前のところの話です。

すべてがそのまま存在することが「在る」エネルギーなので「受容する」という言い方になってしまいますが、動的な意味ではないです。

あそこでは時が止まっちゃってました。

あまりにそのままでOKの状態なので、宙ぶらりんになったエゴが「何かしないと〜」と落ち着かなく動き出したくなるような案配で。
(この感じ、これから体験する人多いかも?)


舞が終わって歩いていてふっと降りてきたことは、今回の舞は、ヒルコと淡島をイザナミに返す舞だったのだということでした。

舞うまではまったくそんなこと思いついてなかったんですが、「むすひの舞」はヒルコと淡島が合体したような舞です(説明は省きますが)。

日本に伊射奈美神社は阿波に二カ所しかないらしいですが、どちらも移転後の神社なので、もともとはこの元地だったと思います。

そしてこの地は阿波で「丸に点」の中心と私が感じたところ。

舞ったあと、イザナミのパズルがぴたっとはまって元に戻った感がありました。
この時の丸はイザナミで、点はヒルコと淡島(この2人の関係では、淡島が丸で、ヒルコが点ですが)。

ここでこの舞を舞うことが丸の中に点を修めることになり、イザナミにヒルコと淡島を戻したことになるんだなと感じました。


神話では、イザナギとイザナミの最初の子、ヒルコと淡島は生まれてすぐに流されてしまいました。

神話ではさらっと書かれていますが、普通に考えて、最初に生んだ子がどこぞに捨てられたか里子に出されたかだとしたら、母親はものすごくつらいでしょう。
そのうえ、そのような子が生まれたのは自分のせいだと言われる始末です。

人間的に考えてみれば、相当なショックです。
でも今までそんな風に思ったことなかったです。


その後たくさん子を産んで、最後に火の神カグツチを生んで死んでしまいます。
夫は黄泉の国に迎えにきたはいいけれど、見ないでくれという約束を破り、妻の無惨な姿に恐れおののいて逃げて、妻を黄泉の国に閉じ込めてしまい、2人はけんか別れします。

これもまた普通に人間の生活に置き換えて考えてみれば、ひどい話です。
なんだかこの時に行ったいくつかの神社の有様と同じような感じ、、、。


それはともかく舞のあと、「丸に点」の点が見えなくなってしまいました。
そう、丸だけになったんです。


イザナミを代表格としていますが、これは同時に、女性の集合無意識のエネルギー変換だったんだろうなと偉そうなことを書いてしまいますが、いつものごとくマイストーリーの中の話なんで聞き流しておいてください。

でも私が何を言っているのか、共感できる人も多いはず。

女性性の集合無意識の中にずっとあった苦しみの一つが消えたんだと思います。(女性ではなく、女性性,つまり男性の中の女性性も含みます)

また象徴(抽象?)言語で書いているので、数歩さがったあたりからぼやっと全体を眺めて受けとってくださいね。


ヒルコと淡島がすっと表舞台から消えたのは、現象界より潜象界にいるためにそうなる必要があったのだろうと私はいつからか思うようになりました。


イザナミの丸を「可能性のエネルギーの海」としたら、イザナミが最初に声かけをしても同種のものなので、確かに混沌の中にまた戻ってしまうだろうと思います。

だからヒルコと淡島が生まれるのだし、そうなってやり直すのは男尊女卑ではなく、エネルギー的にそうならざるを得ないのでしょう。

しかし最初からちゃんと生まれるようにするのではなく、わざわざそうなるように生んで流している、、、実はここに深い意味があると思います。


もしヒルコと淡島が混沌に戻ったのならずっとイザナミと一緒だったのでは?という話になってきますが、それは分離してたと思っていたけど、実はもとからひとつだったという意識の話と同じことなんだと思います。

なんてことを書いていたらどんどんと話が広がっていきますが、神話はいろんな読み取り方ができると思うので、今回はこのような関連づけということにしておきます。
また違う時には違うこと言ってるかもしれませんので、あしからず。


で、イザナミにヒルコと淡島が戻ったという認識が私に来たということは何を意味するかというと、原点に戻ったということなんだと思います。

元に戻って生み直し。やり直し。あるいは脱皮。孵化。再生。

日本神話の最初のカップルの女性神が長い間失っていたものがもとに戻ってきたと考えてください。
彼女の最大の悲しみと気がかりだったかもしれないもの(象徴的な意味で、ですが)。

それが何を意味するか?

『長い間失ったと思っていたもの(忘れていたもの)が自分の元に蘇ってきた感覚』

つまり、

『我にかえる』

なんだろうなと思います。


そのまんまでいい。何一つ変える必要はないし、何もする必要もない。

それがあの日のあの時のあの場のエネルギーでした。



わけのわからんことをいろいろ書いていますが、簡単にいえば、そういうことなんでしょう。
それをこのようなあり方で私は体験したというだけで。


舞のあと、タイムラインがまた切り替わったように感じましたが、同行した人もそれを感じてました。これは5/7の話ですが、振り返ってみるとそのあたりから変わってきたと感じる人は少なくないのでは?

その後、「イザナミの丸」がどんどんと大きくなっていくのを感じていました。
それが後日、私がツイートした「穴」になっています。
その話は次回に。


追記:
舞い終えて戻る途中で、穴の空いた石を見つけました。
吹いてみるとちゃんと石笛になります。
いろんな音階で音が出るので練習次第ではいいものになりそう。
とてもいいものをいただきました。感謝。

それからこの元地、富士山につながっているなーとそこにいた時に思いました。


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