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今日の「究極のお茶会」は満席となりました。
お申し込みをありがとうございました。
最近、映画「きいろいゾウ」と「ルーパー」を見ました。
どちらも映画の予告編で見た以外の情報なく見たのですが、またもや時期を得た映画でした。
「きいろいゾウ」は原作を読んでないですが、調べてみると原作は発売が2006年ですから、最近ではないんですね。原作もそうなのか、監督の意図なのか、今の時代にマッチしているなーと思いました。
私はこの映画はメタファーがすごく入っていると思いました。というか、メタファーだらけの映画に思いました。
そういう映画は今までもたくさんあるんですけど。
そのままのストーリーを受けとって楽しむこともできますが、そのうしろに隠されたもう一つの意図、それが潜在的に意識の中に入っていき、目覚めを促される人たちがいるだろうなーと感じました。
映画でありながら、観ることで「一つの儀式」を体験しているかもしれません。
まあ、人それぞれでしょうが。
そして、「ルーパー」。
あんまり話題になってない映画なのかしら、、、?
未来の自分と現在の自分が会う話なのですが、思ったより深かった。
普通のハリウッド娯楽映画的な内容かと思ったら、もっと掘り下げていました。
「ミッション:8ミニッツ」もパラレルワールドの時間を扱った映画でしたが、「ルーパー」は過去と未来というところでのパラレルワールド的なところと、それよりもそれを通して人間の心理とカルマと、そこから脱出する方法をうまく表現していたと思います。
人間の意識はずいぶんと進化したなーと思いました。
先日,多次元意識/多角的視野について書きましたが、私たちの意識は私たちが思っている以上に開いているんだと思います。
ただ、エゴ、私たちの顕在意識がそれについていっていないだけ。
「エゴの死」を味わうことで、新しい世界が開ける(すでに開いている、いや、もともと開いている)ことに気づくことができます。
このふたつの映画はそれを示唆しているなーと思いました。
本当に、そういう時期になったんだと思います。
過去と未来。
エゴは必ず過去にとらわれています。(今までの世界では)
最近感じていましたが、世界はすでに二重構造になっていると確信しました。
正確にいうと、私の知覚がそう感じているという話で、世界がそうであるという話ではないんですけど。
目に見える世界(物質界)は本当に終わりに近づいていて、物質や文脈の背後に潜むもの、いわゆるメタファーが本当のところを語っている、そちらが主体となっていく世界が始まっています。
今月、古いエネルギーと新しいエネルギーの狭間で行ったり来たりすると前の記事で書きましたが、物質界に生きるのか、そのうしろの世界に生きるのか?の選択の月でもあるようです。
今月だけって話ではなく、これからもこれがもっと顕著になっていくので、早めにメタファーに気がつけるようになると世界が一段と深まっていくと思います。
物質から離れられない人は、今まで通り物質界で唯物主義的な人生を送っていくことと思います。
物質の背後にあるもの(コンテクスト)に気がついた人は、これからは目に見えるものを見ても、そのものを見ず、その背後にある文脈を読み取っていくことになるので、同じものを見ているようで体験している世界が全く違ってきます。
このコンテクストは、その背景や関係するものや状況などを照らし合わせて意味をなすものなので、流動的であり、関連性が重要になってきます。
言い換えれば、目に見えるものよりコンテクストが大事になってくるということは、共感やつながりが大事になってくるということですね。
また俯瞰的多角的視野があってこそになるので、エゴ支配から解放されてもっと全体意識になる必要があります。
また見えないものが見えてくる(感じられる)ようになるとうそがつけなくなりますし、自分が曇ったフィルターを通してみていたら物事もそのように見えますから、そのような世界を体験してしまいます。
その点は気をつけるべきところでしょうね。
今すでに同じ世界に住んでいるようで、すっかり二重構造になっています。
私自身がその感覚の域にやっと達することができたということでしょう。
私がそうだということは他にもそれを感じている人がたくさんいるということです。といっても絶対数はまだまだ少数でしょうが。
見えている物や出来事自体はあまり重要でなくなり、その関係性、メタファーや象徴的意味、行間を読む、などで受けとっていくでしょう。
それが進んでいくと、物質のほうが実体のないものに感じて、見えている物が示唆する隠された意味の方に実体を感じていくことになると思います。
今までの世界では、そういうのはシンボルを読み解くとか、ニュアンスを読み取る、みたいなことだったと思えばいいでしょう。
だんだんと見える物や出来事の背後にあるもの(コンテクスト)に実体を感じるようになるので、そうなると物質の方が実感が薄れていきます。
いわゆる半物質化現象ですね。
これはそう遠くないんだなーと思います。
意識ってすごいなーと思います。
まったく同じ世界にありながら、巧妙に二重世界にしてしまうところ。
これが実体験で感じられる時期に肉体をもって生きていられるということは宝くじに当たるよりすごいことだと思います。
生きている私たちはそれだけでも超ラッキーなんでしょうね、実は。
物質界に留まるか、この背後の世界に入っていくのか、それは個人の自由ですし、どちらでもいいと思います。
もしかすると本人が決めることではないのかもしれないですね。
そういうことに興味を持たない人は興味持ちませんし、持たなくてもそう感じていく人は自然とそう感じていくし。
それを察知してそうなろうと働きかける人はそうするでしょうし、またそのうち百匹目のサル現象で一気にそのような世界が開けるかもしれないし。
どちらにしろ自分が作り出している世界が展開されていきますから。
立春過ぎてからすごい展開がひそかにひそかに進んでいます。
桜や梅がこの寒いなか、静かにつぼみを育んでいるように、私たちの意識も新しい目覚めを確実に起こしていますね。
↑ポチッと応援を!いつもありがとうございます m(_ _ )m
今日の「究極のお茶会」は満席となりました。
お申し込みをありがとうございました。
最近、映画「きいろいゾウ」と「ルーパー」を見ました。
どちらも映画の予告編で見た以外の情報なく見たのですが、またもや時期を得た映画でした。
「きいろいゾウ」は原作を読んでないですが、調べてみると原作は発売が2006年ですから、最近ではないんですね。原作もそうなのか、監督の意図なのか、今の時代にマッチしているなーと思いました。
私はこの映画はメタファーがすごく入っていると思いました。というか、メタファーだらけの映画に思いました。
そういう映画は今までもたくさんあるんですけど。
そのままのストーリーを受けとって楽しむこともできますが、そのうしろに隠されたもう一つの意図、それが潜在的に意識の中に入っていき、目覚めを促される人たちがいるだろうなーと感じました。
映画でありながら、観ることで「一つの儀式」を体験しているかもしれません。
まあ、人それぞれでしょうが。
そして、「ルーパー」。
あんまり話題になってない映画なのかしら、、、?
未来の自分と現在の自分が会う話なのですが、思ったより深かった。
普通のハリウッド娯楽映画的な内容かと思ったら、もっと掘り下げていました。
「ミッション:8ミニッツ」もパラレルワールドの時間を扱った映画でしたが、「ルーパー」は過去と未来というところでのパラレルワールド的なところと、それよりもそれを通して人間の心理とカルマと、そこから脱出する方法をうまく表現していたと思います。
人間の意識はずいぶんと進化したなーと思いました。
先日,多次元意識/多角的視野について書きましたが、私たちの意識は私たちが思っている以上に開いているんだと思います。
ただ、エゴ、私たちの顕在意識がそれについていっていないだけ。
「エゴの死」を味わうことで、新しい世界が開ける(すでに開いている、いや、もともと開いている)ことに気づくことができます。
このふたつの映画はそれを示唆しているなーと思いました。
本当に、そういう時期になったんだと思います。
過去と未来。
エゴは必ず過去にとらわれています。(今までの世界では)
最近感じていましたが、世界はすでに二重構造になっていると確信しました。
正確にいうと、私の知覚がそう感じているという話で、世界がそうであるという話ではないんですけど。
目に見える世界(物質界)は本当に終わりに近づいていて、物質や文脈の背後に潜むもの、いわゆるメタファーが本当のところを語っている、そちらが主体となっていく世界が始まっています。
今月、古いエネルギーと新しいエネルギーの狭間で行ったり来たりすると前の記事で書きましたが、物質界に生きるのか、そのうしろの世界に生きるのか?の選択の月でもあるようです。
今月だけって話ではなく、これからもこれがもっと顕著になっていくので、早めにメタファーに気がつけるようになると世界が一段と深まっていくと思います。
物質から離れられない人は、今まで通り物質界で唯物主義的な人生を送っていくことと思います。
物質の背後にあるもの(コンテクスト)に気がついた人は、これからは目に見えるものを見ても、そのものを見ず、その背後にある文脈を読み取っていくことになるので、同じものを見ているようで体験している世界が全く違ってきます。
このコンテクストは、その背景や関係するものや状況などを照らし合わせて意味をなすものなので、流動的であり、関連性が重要になってきます。
コンテクスト(Context)あるいはコンテキストとは、文脈や背景となる分野によってさまざまな用例がある言葉であるが、一般的に「文脈」と訳されることが多い。文脈により「脈絡」、「状況」、「前後関係」、「背景」などとも訳される。
言語学におけるコンテクストとは、メッセージ(例えば1つの文)の意味、メッセージとメッセージの関係、言語が発せられた場所や時代の社会環境、言語伝達に関連するあらゆる知覚を意味し、コミュニケーションの場で使用される言葉や表現を定義付ける背景や状況そのものを指す。例えば日本語で会話をする2者が「ママ」について話をしている時に、その2者の立場、関係性、前後の会話によって「ママ」の意味は異なる。2人が兄弟なのであれば自分達の母親についての話であろうし、クラブホステス同士の会話であれば店の女主人のことを指すであろう。このように相対的に定義が異なる言葉の場合は、コミュニケーションをとる2者の間でその関係性、背景や状況に対する認識が共有・同意されていなければ会話が成立しない。このような、コミュニケーションを成立させる共有情報をコンテクストという。ウィキペディア
言い換えれば、目に見えるものよりコンテクストが大事になってくるということは、共感やつながりが大事になってくるということですね。
また俯瞰的多角的視野があってこそになるので、エゴ支配から解放されてもっと全体意識になる必要があります。
また見えないものが見えてくる(感じられる)ようになるとうそがつけなくなりますし、自分が曇ったフィルターを通してみていたら物事もそのように見えますから、そのような世界を体験してしまいます。
その点は気をつけるべきところでしょうね。
今すでに同じ世界に住んでいるようで、すっかり二重構造になっています。
私自身がその感覚の域にやっと達することができたということでしょう。
私がそうだということは他にもそれを感じている人がたくさんいるということです。といっても絶対数はまだまだ少数でしょうが。
見えている物や出来事自体はあまり重要でなくなり、その関係性、メタファーや象徴的意味、行間を読む、などで受けとっていくでしょう。
それが進んでいくと、物質のほうが実体のないものに感じて、見えている物が示唆する隠された意味の方に実体を感じていくことになると思います。
今までの世界では、そういうのはシンボルを読み解くとか、ニュアンスを読み取る、みたいなことだったと思えばいいでしょう。
だんだんと見える物や出来事の背後にあるもの(コンテクスト)に実体を感じるようになるので、そうなると物質の方が実感が薄れていきます。
いわゆる半物質化現象ですね。
これはそう遠くないんだなーと思います。
意識ってすごいなーと思います。
まったく同じ世界にありながら、巧妙に二重世界にしてしまうところ。
これが実体験で感じられる時期に肉体をもって生きていられるということは宝くじに当たるよりすごいことだと思います。
生きている私たちはそれだけでも超ラッキーなんでしょうね、実は。
物質界に留まるか、この背後の世界に入っていくのか、それは個人の自由ですし、どちらでもいいと思います。
もしかすると本人が決めることではないのかもしれないですね。
そういうことに興味を持たない人は興味持ちませんし、持たなくてもそう感じていく人は自然とそう感じていくし。
それを察知してそうなろうと働きかける人はそうするでしょうし、またそのうち百匹目のサル現象で一気にそのような世界が開けるかもしれないし。
どちらにしろ自分が作り出している世界が展開されていきますから。
立春過ぎてからすごい展開がひそかにひそかに進んでいます。
桜や梅がこの寒いなか、静かにつぼみを育んでいるように、私たちの意識も新しい目覚めを確実に起こしていますね。
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