


立春以降、体調不調や心の古傷が浮上している人も少なくないようです。
当日の様子次第ですが、グループセッションみたいなのもありかも?という気がしてきました。
時間は十分ありますから、お話もそのようなこともできるかなと思います。
さて、前回の記事の続きです。
少し前、競泳プールのように並列でタイムラインが同時進行のイメージについて書きました(実際はそのように並列ではないんですが)。
過去現在未来をひっくるめて、点と点を結ぶように変化していけると。
今はそれに加え、縦ラインで、ハイヤーセルフからエゴまですべての段階にある自分や人が見えてきて、その時その時に応じて、いろんな段階からの視点で対応しているんだなーと感じています。
そのうえ、自分やら人やら集合意識やらいろんな角度からの視点や体験がごっちゃになって交差して、それがすごく絶妙に構成されていて、まさに多次元というか、多角的というか、、、。
時々はどれが自分かわからなくなるような変な感覚です。
全部、自分なんだなーと改めて思いますが、今までの「すべて自分」というのとまた違う感覚です。
今まではどちらかというと、自分が見たいように世界を見ているから、自分の心が現れているからという感じだったと思います。
今はそうではなくて、いや、そうなんだけど、、、個々別々の存在の意識が人知を超えたかたちで関係し合って、それぞれが必要な役割を行なっている、、というところの関係性が俯瞰的に見え隠れして、、、、。
自分がそう見るからそう見えるというより、自分でない視点もいろいろと見え出して、でもそれもまた自分の一角で、、、それが全部自分なんだなーという感じ。
だから「自分が見ている、作り出している世界だから」というより、「多角的,多次元的な自分を認識することで、世界を構成しているのが全部自分なんだと気づく」ってな感じでしょうか。
それをふまえてもう一回、自分が作り出しているというところに戻るのかな、、、。
一つの視点からではなく、たくさんの違う視点がすべて自分なのだというふうに変わってきているのではないでしょうか?
これは同時に、支配構造から共存構造に変わるための変化でもあるんでしょうね。
などと思っている時はいいんですが、長い間自分そのものと思っていたエゴにふっと戻った時は、今まで抱えてきたエゴの痛みがまた沸々とわき出して、心も身体も重くなり、一気に三次元の重力を感じます。
私も行きつ戻りつしながら、エゴに戻れば重くなり、多次元意識になれば、その新しい感覚を楽しみながら過ごしています。
今、社会に起こっている様々なことと個人に起こっていることと根っこは同じことと思います。
一人一人が雛形であり、それぞれがそれぞれの役割を持って物事に対応していて、そこには善し悪しもなく、一人一人の選択と意識がすべてつながっていて世界を織りなしてます。
だからこそ、一人一人の選択が大事になってきます。
今まではそのような多角的視野は持ち合わせていなかったので(俯瞰的視野はそれなりに持ちましたが)、自分は多次元的な存在だったんだとちょっとわかり始めた感じです。
これはずっと前に書いていた「集合体の自分」というのともまた違います。
ここにいる自分はそのひとかけらなんでしょうねえ。
そしてどの自分になるのもOKという自由意志がうれしくもあり、つらくもありってところですね。

↑ポチッと応援を!いつもありがとうございます m(_ _ )m