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今話題の映画「祈り〜サムシンググレートとの対話」を見てきました。
最近、いいタイミングで出会うものが多く、「ああ、サムシンググレートってことばもあるなあ」と思い出しました。

小説「怪談」で有名な小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、「サムシンググレイト Something Great 」に感銘を受けたようです。
出雲で育った子どものころの私の愛読書の一つは「怪談」でした^^

 明治時代に来日したラフカディオ・ハーンは、西洋人として初めて島根県の出雲大社に昇殿参拝した時の紀行文「杵築」の中で、「この大気そのものの中に何かがある」ということを繊細にかつ深く感ずるところに「神道の感覚」があると述べている。自然万物の中に霊魂の宿りと働きを感得するアニミズムや、霊的存在との交信を通して霊的・精神的な次元からの問題の解決をはかろうとしたシャーマニズムの流れが日本神道の根幹にある。
 ラフカディオ・ハーンが指摘したように、この「大気そのもの」の中に「何か」偉大なる存在と働きと力があると感じ、そこに Something Great (大いなる何ものか)を見いだす心の中に「神道の感覚」があるといえるだろう。この「大気そのもの」を,「太陽そのもの、月そのもの、風そのもの、水そのもの、土そのもの、火そのもの etc... 」と変換しても同じである。実際に、日本各地には、日の神、月の神、風の神、水の神、火の神を祀る神社があちこちに建立されている。
 このように、日本神道は、”自然の中に神を見、感得する精神”を根本に形成されてきたといえよう。その上に、先祖崇拝や氏神信仰が重なってきた。古くは、自然そのものを神と見、親とも感得したが、やがて各家々の先祖をも神と見、祖先神、氏神として敬うようになっていった。先祖もまた神として崇まわれたのである。
 そのような先祖崇拝がある徳的の家柄に集約され、古代以降の日本国の統一・統治を結びついて天皇崇拝が形成されてくるようになった。天皇崇拝は、その意味では、日本人の先祖崇拝の一分肢であり、象徴ともいえる。 (下線は悦月による)
 「ウズメとサルタヒコの神話学」 鎌田東二


現実的な話でいうと、「この大気そのものの中に何かがある」というのは、実は湿気だったりします。

私は海外に長くいたこともあるのでよくわかりますが、日本の大気の中にある湿気、これが何か生きたモノや意志を持っているモノを連想させます。

例えば、海外にいたときは、物にいのちや意識があるとか、持ち主の念が憑くというような感覚はまったくせず、物体としての物しか見なかったんですが、日本に戻るととたんに、物に人の念が付着しているような、あるいは、物にイキモノの気配を感じたり、物の怪の気配を感じるんですね。
だから妖怪とか百鬼夜行とか、物や動物の精とか、八百万の神となるんだと思います。

水は一番情報を伝えやすい媒体らしいですが、この湿気の中にたくさんの情報がつまっているんでしょうね。

江本勝先生の、言葉によって水の結晶の形が変わるという実験。
川や海や池,水道水ももちろんのこと、体内の水もだし、大気の湿気、これも水です。

水分すべてが今までの記憶や私たちが発する波動を記録保存し、影響を受けていると思います。


「祈り〜サムシンググレートとの対話」では、祈りの大切さや効果について話されていました。

祈りにより、方向性を与えることができます。「意乗り」です。
が、祈り以前に私たちが発している情報(波動)はすでに影響を与えています。

佐藤初女さんが、言葉は忘れましたが、「生きることそのものが祈りである」というようなことを言われたと思いますが、本来そうなんですね。

病気の時、願いを叶えたい時だけに祈るのではなく、常に祈っている状態。
昔の日本の文化にはそれがあったと思います。

言葉だけでなく,行動やふるまい、究極は、自分そのものが祈りと化す。

ハーンは、日本人の生活にそれを見たのだと思います。
『知られざる日本の面影』の項を読むとそれが伝わってきます)


『この「大気そのもの」の中に「何か」偉大なる存在と働きと力があると感じ、そこに Something Great (大いなる何ものか)を見いだす心の中に「神道の感覚」があるといえるだろう。』とあるように、ハーンはこの「サムシンググレート」のなかに偉大なる神聖なる何かを感じとったのでしょう。

しかしそれは、「大気そのもの」の中に大いなる何かがあったのか、ハーンの心の中にそれに感応する何かがあったのか?

それに感応する力がなければ、その人にとってそれは存在しないも同じ。


日本人はずっとこの「サムシンググレート」と共に生きてきた人種だと思います。
先住民やケルト民族の人たち、その他にもいるでしょうが、一つの国の国民性としてこれをもっている国はあまりないと思います。

これから必要なこの感覚、日本人には本来馴染み深いもの。

生きることが森羅万象への祈りになるような、敬虔かつ謙虚な生き方。

まずは自分から見本になっていきましょうや。
(まずは私から〜〜であります、はい。人のこと言えん。すんません)


映画の話と離れてしまいましたが、「祈り〜サムシンググレートとの対話」は上映期間が延びましたので、まだ見ていない方はぜひ。
東京と大阪でやっています。名古屋でも11/3に上映されるそうです。 

このブログ読んでいる人にはもう周知の話かもしれませんけど、それでも触発されること多々です。
あとは知識より行動ですね。自分で実践しないと意味がない。

できれば,こういうことをあまり知らない人にもっと見ていただきたいですが。

地球のことを考えて、、でなくても、自分や家族の健康や幸せのために祈る〜〜でいいと思います。
できるだけたくさんの人が,その効果は迷信ではなく、本当にあるのだと知ることが大事だと思います。

そうなると自分の心の持ち方の大事さがわかってくると思います。


本当は「祈りそのもの」ではなく、その背後にあるものの力なんだと思います。

状況を変えたいから願いを叶えたいから祈るのではなく、自然と心の底から「ありがたい」「祈りたい」という気持ちが出てくる時を感じてみてください。

また、「もうだめだ!」と絶望の縁に立った時、私たちは「どうか、お願い!」と必死に祈ります。その時私たちは何もかも捨て全託で祈ります。
あまりこちらの祈りにはなりたくないですが、我がなくなった時、「意」が「大いなるサムシンググレート」に乗り始めるのでしょう。

そのときに私たちは、自分自身と大いなるサムシンググレートが共にあることを感じ、感謝と至福と平和に満たされます。

その力が癒しとなります。


映画「祈り」白鳥哲監督との対談記録、ぜひお聞きください。



追記:

この「サムシンググレート」は、私が言おうとしてきているものの一つの側面、あるいは違う角度から見ているものかもしれません。

何が違うんだろう?と考えてみましたが、「人知を越えた大いなるもの」という意味での「サムシンググレート」なんだなということ。

ここにはまだ、人間としての存在、自分があって、より偉大ななにかを崇める感じがあります。
呼び方は神でも愛でも大いなるものでもいいのですが、まだ自分とその対象との間に境界があるように感じます。

けれどもこれからやってくるものは、個や時間、空間の境界すらあいまいにしてしまうものなので、やっぱり夢の世界に近いのかもしれません。

それもまた自分の感じ方如何かもしれませんが。


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