
前回の続きです。
このつかみどころのない「世界の王」が表に現れる時になってきました。
その世界を純粋なるものと経験するのか、荒神と感じるのかはひとえにその人の受け取り方にかかっています。
こういうことを学問上やいろんな情報を得て推察していくのと、私がそうだったようにいろんな体験を通して、それは実はこれだったのだとあとから気づくのとでは雲泥の差があると思います。
体験からたどり着く場合はわかりやすいです。
なぜならすでにそれがなにかということを体験しているけど,表現方法が見つからなかっただけだから。
でも思考からそこにたどり着こうとするとなかなか難しいと思います。
なぜなら思考からはいると、そこにあるものとして、そのモノについて考察しようとするからです。
「後戸」の存在は、「後戸の神」とした時点で、すでに本来の形を失ってしまいます。
その存在は、私たちが普通使う意味での「存在」ではなく、「偏在」というほうがあっていると思うので、概念がつかまえにくいです。
これから私たちはもっとこの存在と親しくなっていくと思います。
ここに理屈や論理は適応せず、いわば夢の世界に近いもの。
最近、私の中で、今までのいろいろが「へ?」と思うぐらい思わぬところでつながり、自分に還ってきます。
あちこちの山に登っていたことがこんな方向に導かれるとは思いませんでしたね。
今日「ツナグ」の映画を見ましたが、これまたいいタイミングで、ここ数日書いていた「後戸の神」の話と通じるものが。
「ツナグ」の場合は、生きている人と亡くなった人との関係の中での話ですが、「ツナグ」も、あちらとこちらの世界をつなぐ境界の役目。
見えなかった世界が見え始めているんだなーと思います。
さて、明日は再び天河奥社の弥山へ。
前回登った時、「朱雀の解放」と来ていましたが、今回がそれにあたるようです。
多分、私は今回、境界を越えるのだと思います。
その後は胞衣を通過して、胞衣の中の世界に生きるようになると思います。
籠の中の鳥が出る時期になりましたね。・・出るけど入るんだな。
後ろの正面かあ〜。
飯綱山でいただいた「烏天狗の本当の姿を知れ」は、「本当の自分の姿を知れ」というところで落ち着いていたけど、もっと深いところに入っていくようです。
そこで終わりではなかったらしい、、、。

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