
蓼科山からの帰りの夜行バスでの話です。
眠りにつこうと目をつむって、蓼科山での出来事を反芻していました。
すると現れたのが、ある巨木。
最初は蓼科山に関係あるかと思いましたが、どうもこの三次元世界に現存する木ではないようです。
その木が教えてくれました。
以前、白山ヒメ神社の大木が「空洞化」について教えてくれたことがありました。
今回のは、これのまた違うバージョンなのかもしれません。
大きな大きな木ですので、当然長い年月を生きてきた古い木です。
大きな木は大地と同化していって、木も山のようにいろんな生き物や植物が住み始めるという話は以前も出ましたが、今回はそれを私が体感していくことになりました。
木が長年生きていると、だんだんと他の生物(植物、昆虫、動物、微生物など)も自分の身体に住み着いてくるので、それを眺めるようになるようです。
私自身が巨木のように感じ始めると、いろんな存在が自分の身体に生きているのを感じ始めました。
自分の中に住まう生き物を端から眺めれば眺めるほど、「自分(の身体)」という意識が遠のいて、自分はそれらの生き物を観察しているものになりました。
巨木はそこに存在し、すべての生物に起こっていることを知って(感じて)います。
自分の意識は「観察する者」となり、自分の中に住まう者たちをすべて把握して、行なわれていることをただ見ている状態です。
たくさんの生物を把握すればするほど自分がなくなっていきます。
なぜなら自分の意図を動かすより、まわりに気づく(観察する)ことにエネルギーを使うようになるので、自分が薄れていって、最後には自分はただ観察するものになります。
すべての起こっていることを把握していて全体を感じています。
この木の意識の状態がもっと大きくなった状態が地球のそれであると考えられます。
地球もまた地球でいのちを営むものたちをただ眺め、全体を意識しているのでしょう。
もっと大きな意識となれば、宇宙の意識となります。
共同体の中に存在するすべて、ひとつひとつに一度に気を向けて感じようとする時、自分は物質的には無に近い状態、、、意識そのものになっています。
その状態がずっと続いて、自分はその中で呼吸しているような感じです。
このような意識はこれからの私たちに必要だと思います。
自分がなくなるまではいかなくてもいいですが、全体を感じながらの個であることが大切だと思います。
ところで、あとで気がついたことですが、、、
私にはある心象風景があるんですが、そこには草原と青空があり、左手に大木があります。
また、以前ものすごい巨木に出会う衝撃的な夢を見たことがあります。
今回の木の話のあと、老樹(翁)という呼び名が来て、今回の巨木がそのいつも見る木とつながりました。
これらの木はすべて老樹(翁)の変化像のようで、ずっとずっと昔から私を見守ってきてくれていた存在のようです。そしてこれからいろいろと教えてくれるみたいです。
それと同時に思い出した「しらたまさま」と私が名付けたもの。
これは数年前に出会った太古のエネルギー。
このエネルギーは太古過ぎて、言語変換やイメージ伝達が無理なので、直接のやり取りができません。
ただその存在を感じるだけです。以前関わったんだけど、いつの間にかすっかり忘れてました。
この存在が動き始めました。
とにもかくにも、蓼科山頂で満月にえひす舞を未完ながらも舞ったことにより、何かが変わり始めたようです。
そしてそれが1週間後の浅間山につながっていきましたし、前回の浅間山ともつながっていたんですね。
(マイワールドの話ですが、外の事象ともシンクロしていくので)

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