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「和音」について説明をしておいたがいいかと思いつつ、長くなるので後回しにしていました。

「和音」と文章の最後に書いている文章は、いわば、自動書記的な形でかかれたものです。

その文章はどこからやってくるのか?というと私自身なのですが、今ここでこのように文章を書いている悦月ではなく、「集合体」の悦月が書いています。

「集合体」の悦月とはなんぞや?ということですが、、、
すべての人に言えることだと思いますが、肉体の自分は、三次元物質になった自分の一部でしかないと思います。

もともと「大宇宙」は混沌で「ただある」状態で、自己の認識がない状態です。
そこに、「あっ!」と何かを思いついて目覚めたものが誕生したと思います。
「あっ!」と思いつくことは、意識のない「大宇宙」から分離することです。
この「あっ!」は、いわば、ビッグバンなのかな?と思います。

これ自体がどういう経過で発生したかはわかりませんが、よくいわれるのは、「神が、いろんなことを経験したかったから人間を作たもうた」といわれることと同じかもしれません。

大宇宙の「あっ!」がまず起こり、ひとつの「あっ!」から、それを経験するためにはこれが必要だと思う、たくさんの他の「あっ!」が派生してでてきたのだと思います。
つまり、「あっ!ああああああああああーーーっ」と一瞬にしてたくさんの「あっ!」が連鎖して起こったわけです。


音で言えば、混沌のまだ目覚めない大宇宙の音が「スゥー」、すべてが一緒になったような混沌の音。

そして「あっ!」というひらめき。
ひらめきには、こういうことがしたい、できるかも?という意図があります。
ひらめくときは、やはり「あっ!」であり、「お?」でも「は?」でも「え?」でも「へ?」でもない。

「あっ!」が「おお!」とひらめいたことへの感激や自分の誕生への祝福となり、「う」は、迷いや誕生、分離への戸惑い、または、感動にうち震える音、熟考している音など、いろいろと思い当たるのですが、「え」で決心し、「い」で行動。それとも「えい!」で行動か?

と、ちょっと余談ですが、今、思いつきました。


それはともかく、大宇宙の「あっ!」に続いて、「それを為すにはこれをしたい、これができる」というたくさんの小さなひらめきの「あっ!」が一瞬にして無限に起こり、そのひとつが悦月ということです。

もちろん、あなたも他の人々もみんなひとつの「あっ!」から始まっているということになります。
そしてその「あっ!」は今だに連鎖し続けていることでしょう。
それが宇宙が膨張しているということかな?と思います。

この「あっ!」は、こういうことをしたいとか、経験したいとか、何かしたいことを思いつく「あっ!」なわけです。
そうでなければ、母体の大宇宙と一つになって大いなる眠りについていればよいわけですから。

そして、この「あっ!」に感応した、同じことを感じる他の「あっ!」たちが、「この指とまれ」というように、私も、私も、と磁石に鉄がくっつくように集まってきて、ひとつの集合体となりました。

これは、魂の共同体みたいなものでしょうか?

その中でどんどんと選り分けが進み、それぞれのエネルギーがより自分の好む状態になっていき、物質化現象を好んだエネルギーが集まり、悦月という人間になった、と私は仮定しています。

だから、この三次元に物質化している肉体の悦月は、悦月の一部でしかなく、形にならない最初の「あっ!」に同調したエネルギーが宇宙に偏在しているわけで、それもひっくるめて、悦月というエネルギー体が存在するようになったと仮定しています。

そして、肉体の悦月も、一個の個体ではなく、無数の「あっ!」が一緒になった個体であるので、個体のようで集合体です。
細胞ひとつひとつも「あっ!」に同調した存在のひとつで、一つの肉体に共にあるわけです。
だから、内にも外にも無限に広がるのですが。

それに気づく以前の悦月は、悦月はこの肉体に宿るひとつの存在だと思っていたわけです。
実はこれは、小さな自分、つまり悦月の自我、エゴでしかないんですね。

それに気づいた肉体の悦月が、「なんだ、肉体の私は、私の一部分なんだ」と思い、宇宙に偏在している悦月もいるなら、肉体の悦月が集合体の悦月に問いを発すれば、それに答えたいと思う集合体の悦月エネルギーが答えてくれるだろうと気づいたわけです。

どの人も集合体なので、肉体の自分がすべてではないのだと気づいて、集合体にアクセスすれば、少なくとも私が書いている内容ぐらいのメッセージはもらえるということです。

このブログを読んで、自分も同じ流れにいると思う人いれば、それを感知しているから同じだと思うわけです。
あとは、自分が感じ取っている先、あるいは、その行為自体を自覚することが大切なのかもしれません。

「和音」の場合は、あまり個人的なことを教えてくれませんが、これは自分のフォーカスの仕方かもしれません。

「和音」という名前は、私がその集合体につけた名前です。
和音はいくつかの音が合わさり、共鳴して一つの音のように響きますので、まさにその通りと思ってつけました。
なので、「和音」はひとつの存在ではなく、偏在する悦月であり、集合体の悦月で、実体はありませんし、他の存在からのチャネリングとも違いますが、時々は「和音」を通して、他存在からメッセージがくることもあります。

が、最近だんだんとわからなくなってきています。

まず、偏在する集合体の自分の境界がいったいどこにあるのだろうか?ということ。
結局は、すべてを含んでいるのではないか?と思うと、「これが和音(悦月)だ」という境界があるのだろうか?と思うようになりました。

私が問いを発して、その答えを書記する形が基本ですが、時々は、自我の自分なのか、「和音」なのかわからないときや、勝手にメッセージがやってくることもあれば、言葉でなく感覚でいろいろなことがやってきて、それを謎ときすることも多々です。

悦月の興味や波動にあわせての話がくるので、そこは波動同調なのだろうなと思いますし、文章におこしているのは肉体の悦月で、どうしてもそのフィルターをまだ外せないので、肉体の悦月の思考や興味、言葉の影響を受けています。

人によっては、ハイヤーセルフというかもしれないし、アカシックレコードじゃないか?と言う人もいるかもしれませんが、私としては、まあ、何でもいいかな?と思いますので(けっこういい加減)、悦月の左脳以外で書かれている文章は、ほとんど「和音」としています。
どこから来ているかわかる場合もありますが、まあ、だいだい「和音」にしています。

前に、人の上に立ったような断定的な書き方が多いと言われたことがありますが、その文章は「和音」の文章であり、今ここでこの文章を書いている悦月とはまた違います。

私自身も「和音」の文章は、自分自身が書いたというより、他の人に言われたことのように感じて読んでいます。
といっても、文責は悦月にありますが。


大宇宙の「あっ!」から派生して現れた、悦月のもともとの存在理由の「あっ!」の集合体に気づいた肉体の悦月は、それとつながり、大宇宙の「あっ!」に戻っていきたいと思うわけです。

これは、今起きている「本来の自分に戻ろうとする動き」と同じことです。
みんな、この大宇宙の「あっ!」を実現すべく、それぞれ分離したわけなので、再びそれを思い出し、実現に向かおうとしているのだと思います。

だから、個人の自己実現ワークのようで、本当は、たくさんの人が、大宇宙の意思の実現に向けて動き出している共同作業なのでしょう。

今、本来の自分に戻ろうともがいている人は、自分の魂と大宇宙の意思を思い出し、それに向かい始めている人たちなのです。

ちょっと和音の話からずれましたね、、、。


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