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「依り代」というのは、神道でいう、神が下りる場だ。
磐座や神木、岩穴、その他、自然のものが多いが、 その場所やものに神様が宿るという。
それを依り代という。

日本は八百万の神様なので、そこかしこにカミサマを見るので、
すべてのものが依り代となり得るのだが。

自分自身のからだは今世の借り物とはいえ、「自分」」だと感じていたが、
私のからだはただの依り代だった。

「集合体としての自分」は、「肉体」という依り代を借りて、
今現在、存在しているように見えるのだ。


神道の依り代の思想はすばらしいと思った。
カミサマはそこに宿るが、それがカミサマなわけではない。

神社の本殿に、石があろうと、蛇があろうと、鏡があろうと、
それがカミサマではなく、かみさまが宿る場所なのだ。

本体のカミサマは、自由自在でとらわれないのだ。
肉体を持つ者に対して、存在や意を伝えるには、
依り代があるほうがわかりやすい。


鏡は「かがみ」。
真ん中の「我」をぬくと、「神」になる。

神社に拝みにいくと、鏡があり、自分に対面することになる。

また、「火(カ)」「水(ミ)」で
「神」である。
そして、「噛み」。

火と水が混ざることで、陰陽の、宇宙の循環だ。
そして「風(フ)」が吹くことで、動きが生じる。

だから、ひふみ(火風水)。


以前書いたことば
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私など存在しない。
私が存在すると思っていただけなのだ。

「私」が開放されると、「自分」に凝り固まった固体はなくなり、
空っぽの器になる。

その中には、「可能性」がはいっている。

自分は常に空白で、私を構成している全てのものによって
あらゆる可能性が発動を待っているのだ。
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依り代は空っぽの器だ、可能性だ。
そこに何が下りるかで、ご神託が決まる。

肉体を依り代とした私たちは神なのだ。
昔の人はそれを知っていたに違いない。
だから、神道は依り代なのだ、と思った。

依り代であるからだに執着する必要はないのだ。
本体の自分は別にある、というか、ないというか(笑)

ならば、私はこのからだにとどまっている必要もない。


けど、まだ執着があるので、とどまるけど(爆)


依り代とは可能性の場だ。
そこに神が在することにより、発動する。


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