いのちおり - 本来の自分に還るために

人生をよりクリエイティブに生きたいあなたに贈る
   悦月(えつき)のブログ(旧ブログタイトル:たまむすひ)
                                    

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令和についての記事はこちらを → 「令和の時代

人間関係の変化が面白そうに思えたので、もうちょっと探索してみましたら、
人間関係の話というより人の成長の話となりました。



「令和」「れいわ」という音は、
女性の名前のように柔らかで優雅な響きがあります。

また同時に、冷めた、冷たい印象もあります。
「れい」は「霊、冷、零」を連想させます。

「れい」という音はつかみどころがないです。

「い」だけなら強い音ですけど、「れい」となると、
「れぃー」と流される感じで、霊のように本体が掴めない感じ。
口の中も踏ん張れないです。

「令」の漢字だと固いですが、この意は
もともとは神の意に従うことなので霊的です。(参照:「令和の時代」)

「わ」は柔らかい音で、「和」や「輪」のように◯、丸い印象です。
口は丸く開いて、下はどこにもつきません。

「零」は、ゼロ、0ですから、◯です。

「れい」にも「わ」にも、◯、円が含まれます。

円は縁。
めぐりめぐって、すべてはつながっています。


これらから推測すると、音から観ての話ですが、
「れい」→「わ」→「れい・わ」→「れいわ」の推移と見て。

最初は「れい」。

冷たい、クール、人は関係ない(どうでもいい、投げやり)、
感情不感(ロボット的)、熱しない、分離感、孤独感、という部分が強調されます。

実体がないような状態です。
自分を見失って、自分の世界に閉じこもっている状態か、
自分がなくなってしまっている状態。

シャボン玉が宙に浮いているような感じで、その境界は強くありません。

ここはまだ自我の葛藤の時期。
どこかでゼロになる臨界点がくるのでしょう(個人差あり)。

最初はマンションの個室に一人いるような感じだったのが、
だんだんと薄い(心の)壁に変わっていきます。

霊的なこと、見えない世界への関心が増します。
趣味の合う人、ビジョンやライフスタイルが一致する人など、
同じような価値観や世界観を持つ人がつながるようになります。


そして、「わ」。

分かる。解る。
実体を失った自分が違う世界、次元に気づく段階。

いろんなコミュニティ、グループ、集団に分かれます。
複数にまたがる人もいますし、流動的に動きます。


「れい・わ」は、
豊かな人間性を失っている自分に気づいて、その状態に耐え難くなり、
「どうにかしなくては」「このままではいけない」と思う人が増えていく段階。

だからこそスピリチュアルなものがますます求められるでしょうし、
生き方やあり方を教えてくれるものを求め、
魂に沿った生き方をしたいと思う人が増えるでしょう。


また、外側の人間関係もそうですが、バラバラになった自分の統合の時期。
「霊・和」。

自分の内面を再統合して、霊的に成長しようとし始めます。
この時期にいったん今までの自分を捨てて、リセットする人もいるでしょう。


「れいわ」は「霊和」。
自分が統合された状態。

冷めた感は、一人一人の自立心につながります。
人に依存しなくなります。

人は人、自分は自分、とその部分はクール。
必要以上に人目を気にしないし、振り回されない。

自分の意志をしっかり持っているクールさがあります。
和することもできるので、孤独ではありません。

別々な違う存在だからこそ、創発が起きることも知っています。
相手も自分も尊重しながら、必要以上に関わらない自立心と距離感があります。

ニュートラルで淡々としています。
常に俯瞰的視野を持ち、この物理世界は幻想だという認識があります。

霊的に和合されるので、魂レベルで動きます。
今世で自分がどう生きればいいかをわかっています。
飄々としながらも強い信念を持って進みます。


書いてみれば、「令和」に限らず、普通に言えることですね(苦笑)
でもこういう流れになるでしょう。

ポイントは、西洋の個人主義と日本の集団主義、これがうまく融合されること。

つまり、個人の自由をかなり尊重するけど、和することを忘れない。
和することを忘れないけど、個人を大事にする。
集団主義に溺れない。

理性的にはクールだけど、心は温かい。
そういう人が増えていくのでしょう。


元号が「令和」になったのだから、
日本全体がその流れからは逃れられません。

結婚や家族というシステムが大きく変わる可能性があります。

上記に書いたことがベースとなりますから、
人間関係全般が、ゆくゆくはもっと穏やかに、
つながりも淡白になっていくと考えられます。

淡白といっても、愛情はそのままありますが、
無償の愛に近くなっていて、個人を尊重する方向に向かいます。

今までは愛と依存がごっちゃになって、愛憎が生じていました。

個人個人の強いつながりに”依存”する傾向は減っていくでしょう。
結婚にしろ家族関係にしろ。
恋愛はいつの時代も同じかなという気がしますが。

結婚しなければならない理由がなくなっていくだろうし、
血縁関係のつながりもさほど重要視されなくなるでしょう。

結婚制度も家族制度も、良くも悪くも強制的なつながりが作られます。
大体は自発的な愛情を持ってのことですが、
理想の結婚、理想の家族像が掲げられることで、
様々な問題を生じさせています。

自立心が芽生えることで、そこにあまり癒着しなくなるでしょう。

これから見ると、令和の時代には、自我がエゴの域を脱して、
新たな段階に成長していくのでしょうね。

けっこう「インシャー・アッラー」な感じです。
神の意のままに、というか、エゴ意識よりも全体意識が主だってくるので、
長年続いてきた個体の「生き残らなければ、勝たねば」という本能的な働きが減ります。

霊的な時代になっていくと、生へのこだわり(死へのこだわり)への執着が減ります。

物理世界が主体ではないとわかっているし、
すべてはひとつの意識であると知っているし、
霊、零である自分を知っているというか。

この幻想世界をいかに生きるか?というところと淡々と進む感じ。

エゴ主体の世界ではなく、ゲームをしていることがわかっている感覚。
そういう空気感が広がっていくと、皆「この世は幻想だよね」となんか納得してしまう。

だからと言って、肉体を持って生きているのはこの物理世界なので、
好き勝手すれば、因果応報、自分に返ってきます。

そんな中で、淡々と達観して生きる人が増えていくでしょう。

もちろんそうなるまでにまだまだかかります。
令和時代はその橋渡しの時代で、本格的にそうなるのは次の元号からかもしれません。

令和時代に生まれる子供たちは、AIの発達も伴って、
バーチャルとリアルの融合がかなり進むでしょう。

時代は確実に変化していってますね。




本日ラスト!
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一度自分のスタイルを捨ててみましょう。

自分らしくあろうとすることが
自分を縛っていることもあります。

自分はこんな風に生きたい、こんな風でありたい
そんな自分はステキ、と感じていても、
それは井の中の蛙。

失敗をしたくないとか、恥をかきたくないとか、
今の自分を守るための飾りつけ。

それをいっぺん壊してみることで、
もっと素晴らしい自分が現れてきます。

しかしその自分を見出すには、
一度、ドブに足を突っ込む必要があります。

自分の嫌いなところ、弱み、みたくないところ、
それらも自分であることを認め、
受け入れ、愛でることで
あなたは一層、輝かしい存在となっていきます。

変化を恐れずに進んでいきましょう。

自分が後生大事に守っているものを壊すことで
もっとかっこいい自分が現れてきます。

 (A.K様へのメッセージ 181006)

 

これは以前、ある方に送ったメッセージ。
今、全体的にもこんなところなんだろうなーと感じています。


古い自分を一度ぶっ壊す。
そうすることで、まったく違う自分を発見できるでしょう。

今までの自分に磨きをかけて、もっとよくなろう、悪いところを直そう
と思っているうちは、井の中の蛙。

小さなところしか変えることができません。

今までの自分を洗いざらい手放せたら、ゼロからのスタート。
今の自分が壊れてしまうようで怖く感じますが、大事なプロセスです。

令和の時代に突入したら、そういうこともあるでしょう。

平成もあと少しですね。




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令和について書き下ろしてみました。


令和。
新しい元号は新しい流れの始まりです。

すべてのことは連動して起きています。
元号が変わる、天皇が代わられることは、時代の流れ的にリンクしています。

令和という響きは「れいわ」、柔らかい響きですが、
同時に「令」は「冷」を想起させ、「冷たい」「冷静」というイメージもあります。

また「令」は「礼」「零」「霊」も思い出させます。

「和」は「輪」「8」でしょうか。
「和」は「輪」ですから、円 → 0、ゼロ、零に繋がります。

ゼロと和。
「和」は和合、大和、和む、輪、ひとつになる、ハーモニー。
そのような意味合いがあります。

「令」は「礼」「令」となると、律令、礼儀、法令など、
人が作った決め事、ルール、という見方。

そして、零、霊につながるような、人智を超えたルール、
つまりは宇宙や自然の法則的なところ、とみることができます。

理性と感性、政治と人としてのあり方、
これらのバランスが問われる時代となるでしょう。

良い方向に進めば、政と人の暮らしが良い感じに和合していき、
悪い方向に進めば、政が和を仕切るかたちとなります。

令和の時代は、その融合の始まり、つまりは過渡期。

零、ゼロとなって、その後、和が訪れる。

臨界点に達して一越えする。
脱皮して新生するようなものですね。
国全体のそれと、一人一人のそれと。

表面上は「冷」でクールな感じかもしれません。

和はあったかい。令はクール。
変化は淡々と進んでいくでしょう。

今はまだ令と和の間の亀裂が埋まってませんが、
人々が二元性の枠にとらわれず、その向こうを見るようになった時、
次の時代がやってくるでしょう。


霊性の時代となり、人々が自分の魂に沿った生き方を求めるようになります。
「律」に関係している人たちが、その流れに一番出遅れるでしょう。

その頃には、和の精神が強くなっていて、自分の利益のためだけの行動はすぐにバレて、
人はその人を支持しなくなります。

「霊和」、霊性同士での和合、同じ価値観、世界観、ビジョンを持った人たちが、
自分たちの世界を創造し始めます。

各コミュニティ、グループがそれで成り立ち、自分らしい生き方を求めます。


今の価値観とずいぶんと変わっていきます。
自由を求める人には生きやすくなります。

令和は別な言い方をすれば、「ゼロになって和する」。
「和する」は「忘る」にも通じます。

自分が本来の状態、自分に立ち返って(ゼロになる)、自分を再統合する。

その過渡期の時代になると言えます。

外の話のようで、実は自分の内側の世界の話です。

自分の中のルールをいったん見直すというか、白紙に戻して新たなゲシュタルトを構築する、
新しい自分というか、本来のあり方に戻る、

その流れに合わせて、外の事象も起こっていきます。

意識レベルの話で言えば、個々であった自我がいったん解体に近い状態となり、
集合意識として再統合されます。

個という存在が、集合知の中のひとつのネットワークの中の点という認識に変わっていきます。

点が自分というより、そのネットワーク自体も自分であり、ミクロとマクロの視点を兼ね備えつつ、全体を創造していく共同創造の世界が待っています。

そのためには今までの古い意識体はいったん解体され、再構築されることになります。

しかしそれは淡々と進んでいくでしょう。

冷静に、感情的にならず、達観して対応していれば、何の問題もありません。

「和音」2019.4.17


ということでした。

「令」をコントロールのためのルールを敷く側、「和」を心のつながりとすると、
国と国民、理性と感性、エゴと無意識、男性と女性のせめぎ合いになるのかなと。

国側は「令を持って和する」にしたいのだろうと思いますが、
令和時代の後半には「霊を持って和する」になるだろうと思われます。

その前に「零となって忘る」過程があるでしょう。

いったんリセットして、新しく始める、ということですね。

震災による破壊も考えられますし、そうでなくても、
個人個人のレベルで、価値観や生き方がガラリと変わる人も多いでしょう。


白川静氏の「字統」によると、
「令」は、「礼冠を着けて、跪いて神意を聞く神職のものの形」だそうです。

政事(まつりごと)と祭り事(まつりごと)は同じ語源だと言われます。

本来、神意に従って政が進められるべきところが、
権力者の我欲によるところが大きくなってしまってますから、
そこもまた正されるべきところなのでしょう。

「令和」と聞いて私が最初に思ったのは、
令によって和したいんだろうな、ということでした。
法令に従うことが和すること、みたいな。

実際はどうかはわかりません。
私の偏見ということも考えられます。


どちらにしろ、すでに神意は働いているようです。

本来の意味が「礼冠を着けて、跪いて神意を聞く神職のものの形」であると、
本来の形に戻っていく方向に向かうと思われます。

それこそ万葉集から取ったという話につながります。

出典:「万葉集」巻五、梅花歌三十二首并せて序

[引用部分]
初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香

[書き下し文]
初春の令月にして、気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫らす。

[全体の文の現代文]
天平二年正月十三日に、長官の旅人宅に集まって宴会を開いた。
時あたかも新春の好き月、空気は美しく風はやわらかに、梅は美女の鏡の前に装う白粉の如きかおりをただよわせている。
のみならず明け方の山頂には雲が動き、松は薄絹のような雲をかずいてきぬがさを傾ける風情を示し、山のくぼみには霧がわだかまって、鳥は薄霧にこめられては林に迷い鳴いている。
庭には新たに蝶の姿を見かけ、空には年をこした雁が飛び去ろうとしている。
ここに天をきぬがさとし地を座として、人々は膝を近づけて酒杯をくみかわしている。
すでに一座はことばをかけ合う必要もなく睦(むつ)み、大自然に向かって胸襟を開きあっている。
淡々とそれぞれが心のおもむくままに振舞い、快くおのおのがみち足りている。
この心中を、筆にするのでなければ、どうしていい現しえよう。
中国でも多く落梅の詩篇がある。
古今異るはずとてなく、よろしく庭の梅をよんで、いささかの歌を作ろうではないか。

    万葉集とは?歴史と意味解説、有名な和歌一覧!|新元号「令和」の由来も


この情景は、これから私たちが目指すべきところというか、
向かっているところのように思えます。

とくにこの部分。
ここに天をきぬがさとし地を座として、人々は膝を近づけて酒杯をくみかわしている。
すでに一座はことばをかけ合う必要もなく睦(むつ)み、大自然に向かって胸襟を開きあっている。
淡々とそれぞれが心のおもむくままに振舞い、快くおのおのがみち足りている。


これからは、もっと好きなように生きる人が増え、
自由にやりたいことをする人が増えていくでしょうし、

男性原理の、頂点に向かうために争ったり競争し合う傾向が、
女性原理の、みんな一緒に仲良く円満に、という方向に変わっていきます。

多様性が当たり前になっていくので、
人は人、自分は自分と分けることができるようになります。

とくに日本は、人の顔色を見て振る舞いがちですが、そこも変わっていくでしょう。

自分の好きなことができていて、精神も安定していたら、
人のことにいちいち文句言いません。

「快くおのおのがみち足りている」です。

まだまだ変化の最中です。
過渡期にはいろんなことが起きやすいです。


「令和」は、音は柔らかいけど、冷めた響きもあります。

切り離され、冷めてしまった人々の心が、
和して心の豊かさを取り戻すまでのプロセスも
この言葉には含まれているでしょう。

一人一人がもっと自立して和するようになっていきます。

人は人、自分は自分、とその部分はクール。

別々な存在だから、ともにあることで創発が起きることも知っている。
相手も自分も尊重しながら、必要以上に関わらない距離感。

結婚や家族というシステムが大きく変わる可能性もあります。



「和」を「字統」で見ると、
「軍門で盟誓し、和議を行う意である。ゆえに和平の意となる。」

と意外にも、最初っから「和」なわけではないです。

考えてみると当たり前なのですが、
「和」を考えれば、同時に「不和」も出てきます。
「わ」であれば、「把、別、分、我、割」などもあります。

つまり、別々なものがあるから、和することができるわけです。

また、ひとつになることだけが和することではなく、
分かつことによって和することもあります。

コミュニティの時代と言われてますから、和という言葉が合うのでしょうね。

しかし「大和(大きな和)」として統合されるのではなく、
小さな和がたくさん、つまりネットワーク状につながって影響し合うかたちの和。

だから「霊和」。
響き合う時代ともいえるでしょう。


「令和」という漢字の形を見ると、バランスが「和」寄りで、少々落ち着きません。
縦書きなら悪くないですが。

「和」は安定した形です。
「令」は一本足で立っていて、左右アンバランスで右側に比重がかかります。
つまり、和に若干寄りかかる形となります。

「令」が先にあるので、令が先導するような印象を受けますが、
令は和に腕を差し出している。和と手をつなごうとしている図に見えます。

ここにも「跪いて神意を聞く神職」の姿が見て取れます。
男性原理が女性原理に耳を傾ける、助けを求めるかたちとも言えるでしょう。


一人一人が、自分自身で神意を聞いて行動する時代。

自分が自分の令であり、自分を律する人であり、
自分自身を忘る(エゴの自分を忘れる)ことで、自分自身を統合する(和する)。

多くの人々の精神性、霊性が高まる時代となるでしょう。

見えないもの、スピリチュアルなことへの関心も増すでしょう。
スピリチュアルというと世俗的な印象を受けますが、
全体的に霊性が高まっていく、魂レベルで行動する人が増えていきます。

つまりは、自分の本質的なところで生きる人が増えていくということ。

これまた、そこに至るまでは、自分がわからないとか、今の生活が、、、とか、
いろんな試行錯誤は行われるでしょう。


結論、なるべくしてなった元号なのかなと。
この元号になったこと自体が、霊和(神意が動いている)であると言えます。

時代の移行期には、まだしばらくはいろんなことが起きるでしょうが、
向かうは、先ほどの万葉集の文章に現れているところ。

「れいわ」という響きは、私にはつるっとしたゆで卵や、
何も置いてない白い皿みたいな印象です。

一皮むけるんでしょうね。脱皮というか、パラダイムシフト。

新時代の始まりはまもなくです。




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今更ですが、4月のメッセージを出した時に、追記も書き出していたので載せます。
と言っても、4月の話というより、それ以降の話です。




新しい旅の準備を整えましょう。
5月から新元号のもと、新天皇のもとに新しい時代が始まります。

「令和」という元号が決まりました。

礼に始まり、礼に終わる。
零に始まり、零に終わる。
霊に始まり、霊に終わる。

魂の時代の始まりです。

今までは、身、実(み)の時代でした。
これからは霊(ひ)の時代です。

元号が変わるということは、
いろんな組み替えが起きるということです。

と言っても心配はいりません。
それは成されるべくしてなされます。
自然な現象です。

霊の時代(霊性の時代と言っていいでしょう)になると、
稼いでなんぼ、というような現実的な豊かさは色あせていきます。

生き方、あり方に焦点が当たり、
生きることの喜びを見いだせる人が豊かな人となっていきます。

人とのつながりや、森羅万象とのつながり、「間」が重視されます。

今までは「個」が重視されて来た時代でした。

が、全体意識に移行する人が増えるに連れ、
「共同創造」つまり「共に世界を創り上げている」
という意識が高まっていきます。

「個」よりも「世界」の方が重要視されるようになっていきます。

今は、個々の人が世界と自分を切り離して、
世界は自分の外にあるように感じています。

が、それがだんだん「自分=世界」、自我という自分が薄れていき、
「創り出す世界(観)」が自分となっていきます。

自分の内側の世界が外側に反映しますから、
自分が自分の世界を想像している感は強まります。

そして自分が変われば、世界も変わっていくことをもっと理解します。

今までは自分は映画の中にいて、それが現実だと思っていたのが、
映画の外に出て、ストーリーを見ながら、その中にいる自分を感じながら、
その映画を制作していきます。

二つの視点を育んでいきます。

自分が作っていることをわかっている。
その映画自体が、自分を表現していることをわかってきます。

それは自己表現でありながら共同創造です。

なぜならそれをする自分はすでに、
エゴの自分の欲求からはだいぶん離れていくからです。

全体がどこに向かおうとしているのか?
どこをどう調整していけばいいのか?

そこは個々の意識が体験し、表現していきます。

が、もはや個を表現したいというより、
”創り出す世界” に興味が移っています。


「自分に何ができるか?」
「自分のやりたいことは何か?」

というよりは、
そういうことを考えなくてすむ状態にまで
自分を昇華していくことが大事です。

言葉にしなくてもわかっている状態。

そして目の前に来ることを淡々とこなしていく。

じわじわと沸き起こる充実感、歓喜。
それは生きている喜びです。

生きている、というより、存在している喜び、
自分の魂とつながっている喜び。

言葉にはしにくいですが、
「自分が自分である実感」とでも言いましょうか。

しかしこの自分はエゴの自分ではなく、
反対にエゴの自分が消えている状態です。

世界に存在することがあたりまえであるような、不思議な感覚。
存在する意義を問わない。

なぜならあなたが世界そのものだから。

目が目を見れないように、
世界となってしまった者に世界は認識できません。

それはまた、「新たな自我」として認識されます。

それは意識の進化です。

宇宙を含めた自己として存在を認識できた人は、
次なるステップに進みます。

共同創造の世界に入っていくと、
今までとは全く違った価値観になります。

そこにたどり着くまではまだ時間がかかりますが、
早い人はすでにその領域に達しています。

「和音」2019.4.2

霊性の時代(4月のメッセージ追記2)」に続く...


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話は春分の日にさかのぼります。

先日、三上山、石山寺と行った流れで、
春分の日にはどうしても佐久奈度神社に行きたくなり、行ってきました。

佐久奈度神社には3回ぐらい行っています。
ありがたいことに毎回、人に車で連れて行ってもらってました。
なので土地勘なく、辺鄙なところにあるとずっと思ってました。
スクリーンショット 2019-04-13 21.54.43
地図を見て、こんなところにあるのかと思いました。
ちょうど瀬田川が曲がっているあたりです。

勝手に交通の便が悪いと思ってて、ペーパードライバーの私はどうやって行こうか?と思いあぐねてましたが、なんと、1時間に4本ぐらいバスが走ってました
それも石山駅発、終点下車でわかりやすい。
ラクラク行けちゃいました ♪

バスは川沿いに進んでいきましたので、琵琶湖から佐久奈度神社までの川の様子が見てとれました。

IMG_4394

IMG_4417
琵琶湖から唯一の水の出口である瀬田川は、始まりは大きな川のゆるやかな流れです。

それがだんだんと細くなっていきます。

そして、山の川というか、岩がゴロゴロあって、そこを勢い良く流れる川に変化しています。


ちょっと不思議な感覚でした。
IMG_4415
通常、山から湧き出た水が集まってきて谷川となります。
それがどんどん大きくなり、ゆるやかな流れの大きな川になって、海に注いでいきます。

なのに、瀬田川は逆でした。

琵琶湖という湖から始まり、ゆるやかな流れの大きな川が、だんだんと細く、流れの激しい山の川になっていくのです。

山から琵琶湖に注ぐ川と勘違いしそうです。

琵琶湖から流れ出て川になって、山沿いをぬって淀川に合流して、海に向かいます。

今回は佐久奈度神社までしか流れを見ていないので、そのうち淀川に合流するところまで行きたいです。
IMG_4407
そんなところに、祓戸四神が祀られている佐久奈度神社があるんですね。


三上山山頂からは、琵琶湖からの流れと山々による龍脈が見えました。
そして瀬田唐橋からは、琵琶湖が瀬田川に変容していく風景が見えました。

そこから石山寺という龍の気配のあるところがあり、川沿いに進んで、佐久奈度神社となります。

佐久奈度神社ではしばらく河原にいました。
IMG_4416

この小旅を通して感じたのは、川を生き物のように感じたこと。

川沿いに行かなければ、そう感じなかったでしょうが、琵琶湖が川になり、谷川になっていく様をずっと横で感じていたら、「この川は生きている」と感じるようになりました。

「川」という生き物。

その感覚は今も抜けなくて、今では琵琶湖も瀬田川も、生き物のように感じています。
川というより、水の集合体にそう感じているのかもしれませんが。

『蟲師』というアニメで、移動する「生き沼」の話がありました。
そんな風に、形を変えながら移動しながら、海に至るまでの旅をしているような。

人間に血液が流れているように、大地には水が流れている。
水や自然を生きていないもののように感じる人間の感覚がおかしいんでしょうね。

自然界の精霊は、こういうエネルギーがもっと凝縮したものか、
それを敏感に感じ取る人間がそう受け取るのか?

それはわかりませんが、川の流れのうしろで息づく”何か” を感じ続けた一日でした。
この感覚を得たのは大きな収穫でした。

佐久奈度神社のあとは、立木観音にお参りして、立木山〜袴越山をまわって温泉に寄って帰りました。
IMG_4421

立木山からの風景(写真上)では、左に石山寺のある石光山が見え、その向こうに琵琶湖が広がっています。
瀬田川は中央にチラリと見えますが、すでにだいぶん小さな川になっています。
IMG_4426

温泉は「南郷温泉 二葉屋」。
川沿いにあり、貸切状態で気持ちよかったです。

今度は岩間山に行くことになりそうです。








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4月は引き続き、変革の月です。

多くの人が感じていますが、春分前後を
機に大きくエネルギーが変わりました。

それは劇的な変化ではなく、
いつのまにか変わっていたという感じでしょう。

昔のことがだんだんと思い出になっていく
その記憶さえも薄れていっている

そんな感じがしていませんか?


私たちはひとつの意識体です。
その中で共同創造をしています。

個の意識から全体意識へ。
そのリンクづけ、橋渡しがだいぶん進んでいます。

いつのまにか気持ちが軽くなっている、
昔、気にしていたことがどうでもよくなってきている、

「がんばらなきゃ」と思っていたけど、
今では「どうにかなるさ」と肩の力が抜けている、

そんな風に感じている人は、
ほぼ橋を渡り終えているでしょう。

季節は今、春らしくなってきていますが、
暦では立春は2月初めです。

冬の寒い時期に木々は新芽を育んでいます。

つまり表面に事象として現れる頃は
発端からかなり時間が経っているということです。

今、あなたの生活に現れていることは昨日、今日ではなく、
もっと以前にあなたの内面に生じたことです。

今、楽になってきている人は、昨年、一昨年あたりに
心の断捨離を済ませた人でしょう。

願いについても同じです。

すぐに具現化するものもあれば、
時差が生じるものもあります。

表にあられなくても焦らないことです。
時期が来たら芽吹きます。

ただし水面下での準備は必要です。
人で言えば、心のあり方だったり、健康管理だったりします。

今月は、より軽くなるでしょう。

古いしきたりや観念にとらわれている人は葛藤が続きます。
「こんな自分」という自分は捨ててしまいましょう。

あなたは自由自在な存在です。

そのとらわれから自由となり、
なんでもあり、と思える人は飛躍します。

頭ではなく、心が望むままに動いてみるといいでしょう。

「和音」2019.4.2



どんどんと、

楽しいことをする
自分の好きに生きる

という空気感になってきています。


自分がわからないという人、
今までの価値観に縛られている人、
過去のしがらみやを手放せない人、
自信がない人、
罪悪感や被害者意識がある人、

にとっては苦しい時代となります。


SNSの影響もあり、
まわりがリア充っぷりを見せてたり、
楽しそうにしていると、

自分には価値がないとか、
どうせ自分は、、

と思いがちです。

が、そんな思考こそ過去の影響です。

人と比べる必要はありません。


自分が人生を楽しむことと、人がどう過ごしているかとは
何の関係もありません。

自分の楽しみを見つけるのに遅いということはありません。

ただ突っ立っているだけでも楽しい。

そういう風になれるといいですね。

ただ突っ立っているだけでも、今の季節なら、
天気のいい日は気持ちいいです。

ポカポカ日光があたり、心温まり、
そよ風が心地よく、鳥がさえずり、
地面からのエネルギーも感じられます。

立っている体の感覚を楽しむこともできます。

あるがままを楽しんでいる時。

そんな時は心が平安です。
焦りも自信のなさも不安もありません。



今月の4月のメッセージ、実は追記があるのですが、
こちらより長くなりました。
今月がどうこうという話ではないですので、今日はここまでで。

時代は移り変わっていきますね。


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三上山奥宮から見た風景からいろいろと思うところあり、
気になった石山寺に行ってきました。

石山は何度となく電車の乗り換えで通り過ぎてました。
石山寺があることも知ってましたが、お寺にあまり興味のない私は素通りしてました。

が、今回行ってみて、ビンゴ!
すごく良かったです。ここはお勧めです。

石山寺というだけあって、まさに石の山にお寺があるって感じでした。
行ってみて、紫式部や松尾芭蕉が滞在して物書きをした理由がわかりました。

禅寺などとまた違った趣。
自然と人工物がうまくマッチした静かで心地よい空間です。

物書きをする人にはすごくいい場所に思えました。
しばらく滞在していると、インスピレーション湧きそうです。
宿泊所があれば、私もしばらく滞在してみたいですね。
IMG_4384
一番良かったのは八大龍王社。
この寺の他の場所とはまた違ったおごそかな空気感でした。

ここには龍がいるな...という感じ。
社の上の木の枝も龍っぽく。
昔、儀式が行われていた雰囲気ありました。

以前、同じく琵琶湖西岸の八大龍王が降臨したと言われる場所の探索に行きました。
その奥の山と雰囲気が似てました。
(参考:琵琶湖の龍を追って

この琵琶湖の南の地域は八大龍王との関わりが濃いようです。

三上山奥宮から見た時、生駒山あたりに流れが集結しているように見えました。
調べて見たら、生駒山に龍光寺という八大龍王総本山を見つけました。
やはりちゃんとあるんですね。そういうところには。

龍光寺は、御開祖 弘法大師 (空海)となっています。
空海は3ケ月間、石山寺に籠もって修行したと言われています。
近くにある立木観音にも弘法大師の逸話があります。
平安時代前期、山に光を放つ霊木を見つけられた弘法大師が瀬田川の急流で渡れずにいる所、白い雄鹿が現れて、大師を背中に乗せて川を跳び越えられ、霊木の前まで導き、雄鹿は観世音菩薩のお姿になられました。以来、この地は「鹿跳(ししとび)」と呼ばれています。
大師は自身が42才の大厄の年にあたっていたため、観音さまに導いていただいたのだと歓喜され、自身のみならず、未来永劫の人々の厄難・厄病を祓おうと発願し、霊木を立木のままに聖観世音菩薩を刻まれ、一宇の堂を建てて安置したと伝えられています。
大師はその後、高野山を開基されたので、立木観音は「元高野山」とも呼ばれています。
立木観音

昔、三上山頂上にも八大龍王の祠があったようです。
御上神社

三上山からのあの風景を見た私としては筋が通っているように思います。

石山寺のある石光山の隣に伽藍山があるので、そこにも登ってきました。
石山寺では龍のエネルギーが感じられましたが、
伽藍山はすぐ近くなのに、ごく普通の山って感じでした。

その後、俵藤太のムカデ退治の話に出てくる瀬田唐橋に行きました。
IMG_4392

IMG_4395
ここから三上山は見えなかったように記憶してます。

なぜ瀬田唐橋と三上山なのか?

昔はこの橋は大事な拠点でした。
向こう岸に行こうと思えば、この橋を渡るか、琵琶湖か瀬田川沿いをぐるりと回るか、船で渡るかだったようです。

IMG_4394

琵琶湖の水はこの瀬田川だけが出口です。

琵琶湖は見慣れてましたが、いつも見ている大きな湖が
川になっていくところに出会うのは感慨深いものがありました。


石山寺と反対岸にある、唐橋近くの建部大社にもお参りしました。
近江國一之宮と言われ、古くからある神社です。

日本武尊が主祭神。
のちに大己貴命が権殿に祀られています。
ヤマトタケルの家臣や親族がたくさん祀られているのはなんか違和感を感じました。

八大龍王、日本武尊、大己貴命、ムカデ退治...

以前白山に登った時に、大蛇と大百足の出迎えに会うということがありました。
白山の蛇たち(後半部分)』

石山寺の八大龍王社で、3つの言葉(忘れてしまった)をいただき、
「岩の間」と閃いて、岩間寺にも行かねばな、と思いました。

調べてみたら、岩間寺は、加賀白山を開いた泰澄大師が
722年(養老6年)建立したことに始まるそうです。
だから岩間寺か、と思いました。

八柱神社からは熱いエネルギーが感じられました。
祭神:藤時平、融大臣、事代主命、市杵嶋姫命、素盞男命、豊玉彦命、櫛名多姫命

瀬田橋龍宮・秀郷社は、この時に気づかず、行きそびれてしまいました。
近くだったのに。

石山寺はまた行きたいので、その時、この社にも行こうと思います。

(自分の備忘録兼ねて書いてます)


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こちらのブログは個人的ブログとして、時々、
日々の気づきやマイワールドの話などを載せていく予定です。

滋賀県にある「近江富士」と呼ばれる三上山は432mで決して高くない山です。
いくつかルートがあります。
私は一番健脚向きと言われるルートを登りました。

京都の愛宕山は、924m。
琵琶湖対岸の日吉神社の奥宮がある八王子山は381m。
奈良の三輪山は467m。

三上山は、八王子山や三輪山と似た高さですが、
私が登ったルートの険しさはこれらの倍はあります。
勾配が急な山道で、岩場も多いです。
低い山とはいえ、体力に自信のない方は楽なルートをオススメします。
こんなところ ↓ けっこうありました。
IMG_4320

やっぱり現地に行ってみるが一番ですね。
行って初めてわかることがあります。

この時は山自体には特に何も感じませんでした。
奥宮や奥津磐座にも。

一番印象深かったのは、奥宮付近から見える景色。

左手奥にある山と右手奥にある山と琵琶湖。
これらが前に広がる景色の中心に向かってラインが流れています。
IMG_4326

写真ではわかりにくいですが、右側には琵琶湖が瀬田川に流れていくあたり。
光が降りてきているあたりに左右の流れがまとまっていきます。

昔の人はこういうのを龍に例えたのかと思いました。
右の山脈と左の山脈、琵琶湖の流れという3つの龍脈が一点に集約していく印象です。

光が差すあたりに、三上山のようにポツンとある小さな山が気になりました。
IMG_4330

あとで調べてみて、最初は、立木観音のある立木山かと思いました。
が、あとでそれは石山寺のあるところかなと。

が、それも撤回。今は牟礼山かなと思っています。
地図を見る限りは、この山には特に何もないように思います。

以前、磐座がアンテナ的な役割をしていると感じたことがあります。
三上山にしろ他の山にしろ、ポツンとある山は何かそういう役割があるのかもしれません。

私が三上山奥宮からの風景を見て感じたのは、三上山がパワースポットどうこうというより、
三上山から見える風景がまさにパワーあふれる龍の姿でした。

三上山は、山脈と琵琶湖からなる自然の大きな流れが見えるポイントとして
神聖な場とされたのではないかと思いました。

昔の人はどうやって大きな流れを感知したのかわかりませんが、
この風景を見ていると、普段とはスケールの違う流れがあるのがわかります。

そこから龍のエネルギーを感じ取ったのでしょうか?
ここでは水龍(水流)と地龍(地流)です。
スクリーンショット 2019-03-20 16.49.27
三上山から生駒山へのラインは淀川とは平行になりますが、

この流れで、ポツンとある山を地図上で追って見つけたのは、東に太郎坊宮(阿賀神社)のある赤神山、多賀大社横の山。
そして三上山、石山寺のある山、岩清水八幡宮のある山。
等間隔に近い状態で並んでいます。

そして、岩清水八幡宮付近からは京都から合流した川もすべて一つとなって淀川となり、大阪湾に流れ、その先には淡路島、四国。

日本の山や磐座、神社仏閣は、線を引けばどこかとつながったり、図形になるのかもしれませんが、昔の人はすごいですね。

今回、これらを調べるために地図をよく見たのですが、
「ここは!」と思うようなところにはほぼ必ず神社やお寺があります。

要所はすでに押さえれられているって感じです。

ナスカの地上絵のように上から見たのか?と思えるようなつながりが見えてきます。

昔の人は、日本列島という”生き物”を、
地上にいながら、空から見たかのようにつかんでいます。

ちなみに、地図を見ていたら、山の中でけもの道を見つけるように、
地脈の流れが見えてきます。中央構造線はわかりやすいです。

とはいえ、今ではあちこち山が削られたり、川や海、湖が埋め立てられたり、
昔の自然なままではないですから微妙ですけどね。

今回の三上山は、人間サイズでない大きな流れを垣間見せてくれました。

それにより龍が想像しやすくなります。
見えない大きな流れがあることが感じ取れます。
そして、自分がまだ行ったことのない地まで伸びているのを感じられます。

水の流れ、風の流れ、山脈の流れ、雲の流れ。

昔の人は想像で、というより、体感で、見えないところも感じ取って、
全体図を構成していたのでしょうね。

部分を見て全体を知るというか。

今回の三上山からの風景は、
見える流れが見えない流れを想起させるのを感じました。

日常をはるかに超えたダイナミックな流れ。
それを感じることができたのは良かったです。


三上山には、俵籘太がムカデ退治をしたという伝説や、
ピラミッドではないか?という話があります。

麓にある御上神社は良い雰囲気のところでした。
御神体が三上山なのに、なぜか社殿はそちらを向いていません。
琵琶湖の方を向いているそうです。
それが気になりました。

奥宮の前にある奥津磐座と、対岸の日吉大社の奥宮、八王子山の金大巌は
呼応しあっているという話もあるそうです。

この流れから、石山寺、立木観音、佐久奈度神社、石清水八幡宮にも行きたいと思いました。

石山寺,立木観音、佐久奈度神社はすでに行きましたので、その話はまた後日。
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しばらく前に、滋賀県にある近江富士と呼ばれる三上山に登りました。
三上山は近江富士と言われるだけあってきれいな形です。

対岸からは、北斎の東海道五十三次の絵のように、
いつも三上山が対岸に見えるので気になっていました。
IMG_4218

三上山から見たら対岸にある志賀八幡宮、そこを通り過ぎて
山中にある樹下神社を通るラインは下鴨神社に到達します。
三上山、志賀八幡宮、樹下神社、下鴨神社は意図的に並んでいるようです。
(地図の星印右からの順)
スクリーンショット 2019-03-18 2.26.51IMG_4352志賀八幡宮の鳥居のちょうど正面には三上山が見えます。(写真の赤い矢印のところ)

志賀八幡宮の裏から山に向かう道があります。

その道は近江と京都を結ぶ昔ながらの道で、「山中越え(志賀越え)と言われたそうです。
崇福寺(今は跡だけ)、志賀峠を通って、山中町に入ると、樹下神社があります。
そこから京都の北白川の道に出て、その道に沿って行くと下鴨神社にでます。

一度このルートを歩いてみるのもいいかなと思います。
樹下神社までは無謀にもチャリで行ったことがありますが。


余談ですが、樹下神社を地図で検索したら、なんと琵琶湖沿いに8社もありました。
が、他地区にはないようです?スクリーンショット 2019-03-18 2.55.03

下鴨神社〜三上山のラインを東に行くとどうなるんだろうなと思ったら、なんと熱田神宮を通って富士山に至りました。
こちらはもっとズレがあると思うので、すごく大まかなラインになります。

なんかまた、いろんなヒントをいただいたなと思います。


話変わって、今回「オートマティック・ライティング講座」を京都市内で開催しました。
それが瀧尾神社の近くでした。

私が参拝した時、神社のもっと北のほうに何かあると感じました。
帰ってから地図を見たら、下鴨神社〜鞍馬、貴船がありました。

これを伸ばすと、鵜瀬(福井)〜串本(和歌山)ラインとなります。
この縦ライン、以前私が関わったラインだったので、そうきたか!と思いました。
(昔の関連記事:「自然と共に生きる」

3回目の講座は下鴨神社の少し北にある会場でしたので、下鴨神社に参拝しました。

そういう流れがあり、3回目の講座前には三上山に行っときたいと思ったので、
やっとこさ重い腰をあげたのでした。


「オートマティック・ライティング講座」は、いわゆる自動書記をできるようになろうという講座です。
これは、完全なトランス状態になって書くのではなく、しっかりと意識は持ちならが書きます。

自分が意識できている領域と、感じるけど言葉にならない領域、
そして気づいていない領域。

瀧尾神社から三上山に行くまでの流れができました。
その後、その流れを汲んで石山寺にもいきました。

またもや水関連ですが、琵琶湖周辺にも行くところがたくさんありそうです。

参加者の方もそれぞれメッセージが来ていたり、リンクする場所に赴いておられたりと、
何やら見えないところでつながりが起きているように感じます。

三上山に登った時の話を書きたいと思ったのに、前置きが長くなりました。
続きは次回に。

先日、京都の歌舞練場でしていた草間彌生「永遠の南瓜展」に行ってきました。
IMG_4310

入り口のところにあった大きなカボチャ彫刻を見て思いました。

「背景に馴染んでいる!」

彼女の作品は異質感満載なので、ものすごく目立ちます。
が、自己主張しているようで、まったくしていない。

自然のものがそこに在るように座しています。


野外に設置されてる彫刻作品の多くは作家の意図や主張が感じられ、
風景に溶け込まない違和感のあるものが多いと感じてました。

パブリックアートとなると、室内展覧会の作品とは違い、
街中の日常の中にある風景の一つとなります。

建物や自然物、人などに混ざって、ずっとそこに存在し続けます。

けれども、そこだけ切り取られた空間のように設置されていることがよくあります。
あたかも人が作った「彫刻」あるいは「立体造形」がそこにあるって感じです。

そういう意図のもとに作られているなら、それは成功しています。
が、見る側としてはそんなに心地よくない。


サティが『家具の音楽』と言ったもの。

音楽が音楽たらしくあるのではなく、
日常の中に溶け込んで、家具のようにさりげなくある音楽。

草間彌生の作品は、日本家屋にすごく溶け込んでいました。
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『黄樹』という作品の説明でこんな文章がありました。

草間は抑圧的な社会と同じように恐れたのが、幼少期から頻繁に目にして戦ってきた幻覚や強迫観念でした。「ある日、一面に、窓ガラスにも柱にも同じ赤い花の形が張りついている。部屋中、体中、全宇宙を埋め尽くされて、遂に私は自己消滅し、永遠の時と無限の空間の絶対の中に回帰し、還元されてしまう。これは幻ではなく現実だ。私は驚愕した。ここから逃げなくては赤い花の呪詛にかけられて生を奪われてしまう。」(わが魂の遍歴と戦い『芸術新潮』1961年)

こう語るように、草間は自分を絶対の中に還元し、消滅させようとする宇宙的な存在を、自らが絵画として再構成することで、自分の生命の永遠の居場所を作り上げてきました。その宇宙を構成する要素が水玉(ドット)でした。ドットにより、構成され、無限の空間が描かれた黄樹は、自らを解放する重要な芸術装置の一つだと考えられます。



彼女の見続けた幻覚は本当は幻覚ではなく、
この世界の本来の状態に近いと私は思います。

しかしあまりにもパワフルすぎて、
彼女の自我はその中に埋没してしまわないために、
その世界を自分にとって客観的な対象物にするために表現を続けたのでしょう。


この世界は、私たちの自我が自己消滅しないために、
作り上げられてきたんだなと思いました。

自我が必死で一線を保っている世界。

理性のタガが外れたら、ある一線を越えたら、
自我崩壊してしまう恐怖と、そうなることへの憧れと快感。

私たちは自我消滅しないために理性を保っています。


最近、人を次々に殺す、食べる、八つ裂きにするという残酷描写や、
精神崩壊の手前の極限状態の描写のある映画やアニメをよく目にします。

異世界系やゾンビ系にしても、

自我を超えたい、消滅させたい、全体に戻りたい、
でも自我を保ちたい、という葛藤と郷愁と憧れが入り混じってるように思います。

遂に私は自己消滅し、永遠の時と無限の空間の絶対の中に回帰し、還元されてしまう。』

この感覚ですね。

これはいつも起こっています。
けれどもものすごいスピードで循環しているので、私たちは気づきません。

自我はここに恐怖と快楽の両方を感じます。

それが歪んだ方向に向かうと殺戮の快楽になるし、
良い方向に向かうと悟りやアートになります。


ほとんどの人が全体意識を忘れ、分離された自我を自分だと信じ込んでいます。

自我放棄して全体に戻りたいと願いながら、
自我は自我から離れることを恐れ、自分はここにいると叫び続けます。


草間彌生さんの作品が独特で目立つわりには、
背景に溶け込んでしまえるのはそこに自己主張、自我がないから。

彼女は自分の内的世界を表現しているだけなので、
そこには彼女はいない。

その作品全体が彼女自身だから、
あえて意図や自己主張を込める必要がありません。

水の中にいる魚が水があることに気づかないように、
呼吸をしているのに空気の存在を忘れている私たちのように。

彼女が観ている世界は常にそこにありながら、
自我がその境界をクローズしている人たちには気づきにくい世界です。


goo国語辞書によると、

「正気(しょうき)」は、正常な心、確かな意識。

「正気(せいき)」は、

1. 天地間に存在するという、物事の根本をなす気。
2. 2 正しい気風・気性。


現代社会に適合している人が正気ではなく、

天地間に存在するという、物事の根本をなす気」を観て、
「正しい気風・気性」を保ち、「正常な心、確かな意識」を持つ人が
正気な人なのでしょう。

現代社会で正気を保って過ごせている人は一風変わった人に見えるかもしれませんね。
これに気づかず、生きている人が多いですから。

この基準が変われば、生き方も変わっていきます。


以前、東京で見た草間彌生さんの展覧会の時はこのようなことは感じませんでした。

設置の仕方により、印象が違うのでしょうか?
京都の歌舞練場には異様なほど馴染んでいた彼女の作品でした。

歌舞練場は、芸妓・舞妓さんたちが活躍したり、練習した場です。
そういう背景も、自我の繰り返される消滅と生成というテーマにあっていたのでしょう。


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