いのちおり - 本来の自分に還るために

さあ、未来の自分に還る旅に出よう!
人生をよりクリエイティブに生きたいあなたに贈る
   悦月(えつき)のブログ(旧ブログタイトル:たまむすひ)
                                    

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ま今公開の映画「メッセージ」を見ました。
着眼点がすごくいいなと思いました。

面白かったのが、宇宙人は何もしていないのに、人間が勝手に解釈して
反応していく様がすごくエゴのあり方に似ているなーと思ったこと。

その辺りはうまく表現されていたなと思います。

二つ、見てよかった点があります。
以下、ネタバレあります。


一つは、宇宙人の使っていた言語というか、文字。

これは私が「象徴言語」というものと同じだと思いました。仲間がいてうれしい

つまり、情報を読み取る力。

アルファベットやひらがななどのように形が決まっていない文字なのですが、
墨で書かれた丸の形のハネや向きなどの微妙な違いに意味が含まれ、読み取ります。

私が何かのメッセージを受け取る時もシンボルや何かの形である場合が多いです。

そこに含まれる情報はたくさんあり、直感的に瞬時に「あ、そう」と理解できますが、
左脳的言語解釈になると、たくさんの説明が必要となり、なかなか伝えづらい。
自分に言語障害があるのではないかと思うほど。

言葉は、どういう状況でどんな風にそれが発せられるかによって意味が違います。

「すき」と言っても、恋愛の好きなのか、お愛想の好きなのか、友達としての好きなのか、
油断して隙があるの隙なのか、ただ音として「す」と「き」をつなげて言っただけなのか、
いろんな意味に取れます。

また「好き」と言っても、なぜ好きなのか、その理由や、相手に対する思いや自分への思い、お互いの間で起こっている微妙な感情など、その「好き」という言葉の中にいろんな思いや記憶が含まれています。

もっと言えば、人類が始まってその言葉が生まれて今に至るまでに、その言葉の集合的な情報場があります。
その言葉からどこまでを読み取るのかによって、その含蓄は全然変わります。

通常私たちは、その時のその場のコンテクストによってその意味を読み取ります。


言葉は進歩なのか、退化なのか?

微妙なところです。

言葉があることによっていろんな伝達が具体的にできるようになりましたし、文字が生まれたことで記録ができるようになりました。

でも昔は、情報空間にある情報を読み取る力が長けていたと思うので、一つを聞いて十を知るようなことがよくあったと思います。

例えば、天候についてよく知っている人は、空を見たり、風や湿気を感じるだけで、いろんな情報を読み取り、天気予報を見なくても「明後日雨だね」とわかったりします。

天候の知識をよく知っているからという場合は、象徴言語ではなくて知識です。

象徴言語は「ニュアンスを読み取る」に近い。行間を読む感じ。
そこに含まれる情報を、目に見えているものや今までの知識による理解ではなく、
ざっくり違うゲシュタルトを構成してしまうような。


私がいう「象徴言語」はそういうもので、実は日常に溢れています。

夢も一つの象徴言語です。

夢辞典を引くよりも抽象度高くその夢を省みることができたら、
そこに込められたたくさんの情報を読み取ることができるでしょう。

日常で起こっている全ても象徴言語ですが、それを読み取る(繋げる)のは意識です。

数式もその一つですね。

数学者や物理学者が描く数式は私にはチンプンカンプンですが、
彼らにとっては数式一つが宇宙の法則をあらわしていたりします。

数えられるほどの文字数の数式ですが、そこに含まれる情報は膨大です。

そういうものを私は「象徴言語」と呼ぶのですが、「右脳言語」と呼んでもいいでしょう。


映画では、宇宙人がそういう類の言語を使っていたのですが、
もともと日本語はそういうものだったようですね。

「あ」の音には、宇宙の始まりから始まる「あ」の意味があり、
「お」には「お」の意味があり、全ての音にはそれぞれの宇宙があります。

私たちはその音を忘れてしまいましたが、人間がもっと進化すれば、
また森羅万象が話す声が聞こえてくるでしょう。

結局のところ、情報を読み取る力です。

六芒星のシンボルを見て、三角が二つ合わさっているとだけ見るのか、
この形にまつわるいろいろなエネルギーまで読み取るのか?

1本の鉛筆を見て、その鉛筆の元となった木やその木のあった場所まで情報収集できるのか?


「バタフライ効果」という言葉があります。

アマゾンの蝶の羽ばたきがハリケーンを生んでしまうというように、小さな些細なことが起こったことがいろんな要因と繋がり、大きな変化を生み出すことを言います。

今日、私が蹴った石ころが十年後に地震を起こしたなんて関連付けはしようがありません。

けど、そのような事象のつながりを一瞬にして理解して、物事を見ることができるのが象徴言語です。

そしてこれからはそのような理解をする人が少しずつ増えていくでしょう。

これに長けた人たちが集まると、理解するのにほとんど言葉が入らなくなります。
テレパシーと呼ぶ人もいるでしょう。

でも超能力ではなく、超言語です。

アーティストはけっこう使えるのではないでしょうか?
あと、共感覚者も。


ということで、もう一つの気づきは次回へ、、。


これを書きながら気づいたことが一つ。
昨夜、夏至における変化で気づいたことがあったのですが、それにつながっていきますねー。
象徴言語のあり方と新しい自我形態と。


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さて、蜘蛛ヤモリと続き、スズメの話。

これは蘇生やヒーリングの話ではありません。
自然界はどうなっとんじゃー?という話です。

うちの猫は時々、スズメを捕まえてきます。
最初のスズメ事件は、なかなかショッキングで、ブログにも書きました。
→ こちらの記事

今までに食べられたスズメの数はもう二桁になると思います。

野良お母さんに自立の術を教えてもらっている時に、スズメの捕り方を学んだのでしょう。
猫は子供の頃に食べたものを食べ物として認識するらしいです。
スズメ、食べてたんだろなー。

それはともかく、猫が獲物を捕まえてくる時、通常、私は放置します。
心痛いですが、いらぬ手出しをしないほうがいいかなと思います。

前回の記事で書いたように、捕まえられた獲物のほとんどは必死で逃げません。

猫が飽きてしまっても、まだ元気な時は外に逃がしますが、
なぜかまた猫に捕まって戻ってくることがよくあります。

一度捕まったら、あきらめに入るのか、身を捧ぐのか、蛇に睨まれた蛙のようなものなのか。
やられに戻ってきたとしか思えないような時もあり、不思議です。

今まで捕まえてきた獲物で、最後まで必死に逃げようとしたものは、ほんと数少ないです。


さて、今回のスズメ事件。

先日、家の本棚の奥に、小ネズミの寝床を発見し、時々小ネズミが姿を現してました。
その頃、猫が獲物を捕まえてきたので、ついに小ネズミ、ジェリーちゃんが捕まったか!?
と思ったのですが、それはスズメでした。

かわいそうに、と思いましたが、いつものようにタッチせず。
ただスズメに言ったんですね。

「うちの猫の相手せんでもいいから。もし逃げたかったら逃げてもいいよ。」と。

今まで言ったことはないですけど、なぜかこの時は言いました。

猫はやんわりとスズメにじゃれていましたが、
そのうち、スズメが飛んでカーテンの後ろに逃げ隠れました。
取ろうとするのですが、手が届かず、そのうち猫はあきらめて離れていきました。

こういうことはあまりないんですが、私は逃すチャンスだと思い、
スズメを捕まえて外に出すと、空に飛んで行きました。

そこで不思議に思ったんですね。
今日「逃げてもいい」とスズメに伝えたら、本当に逃げた、、、。

たまたまだったかもしれないけど、今までの猫と獲物の関わりを見ていると、
殺されに戻ってきているように見える獲物が多かったのに、
「逃げてもいい」と言ったらすんなり逃げた。

どういうこと?

理性が追いつかず、何かリンクすべきものがしていない気分でしたが、
スズメが元気なまま飛んでいってよかったなーと思いました。


そして、翌朝。
猫がバタバタしているので、小ネズミを見つけたか、、と思って寝てましたが、
そのうちバリバリと食べている様子。

ついに、、と思いましたが、そのまま寝入ってしまい、起きてから見てみたら、、、、。

羽が散らばってました。。。

そう、猫が捕まえたのは小ネズミではなく、スズメでした。
前の日に逃がしたスズメかどうかはわかりませんが、
スズメを逃がした日の翌日朝、猫はご馳走にありつけたわけです。

「だからなんなのよ?」と聞かれても、「だからなんなの?」といいたいのは私。

たまにしかスズメを捕まえてこないのに、逃がした翌日に捕まえているという偶然が
なにやら語っているような気がしてならないのです。

それが何かはわからないですけど、、、。

蜘蛛は生き返り、ヤモリは生き返ったのと、死んだのと、
スズメは生き返るもなにももう猫の胃の中。

逃がしたけど捕まった。違うスズメかもしれませんが。
やっぱり捕らわれることになっていたのか?


多分、私が考えているいのちだとか、全体性だとか、個であること、自然界、自然の摂理、集合体、ネットワーク、縁起、繋がり、などなどのヒントを見せてくれてるんだと思うけど、まだこの事象からは答えが見つかっていません。

夢と同じで、これらのことは「象徴言語」なので、
時間を含めた立体的象形文字みたいなもんだと思います。

それはどういうことかというと、、、続く。

(注:写真はうちのネコちゃんではありません)


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この記事は、昨年かもっと前に書いて、そのまま保存されていたもの。

なぜ地球では他のいのちをいただくことで生きていく構造になっているのか?
そうしないとありがたみがわからないからか?

また暖かい季節になって、ネコが生物を捕まえてくる。
昨年も思ったのだけど、ネコに捕まえられる生物は、そのために現れてくれたのではないか?と思うことがよくある。

その理由の一つに、いったん捕まると、本気で逃げないものが多い。
生理的現象や自然現象で、いったん捕まったら何かが麻痺して逃げなくなるのかもしれない。

本で、ある実験で、あきらめることを覚えた犬はもう挑戦しなくなったという話を読んだ。
それと同じ現象か。

でも、捕まえてきた獲物(とかげなど)をまだ元気な時に逃がしても、
いつもまたつかまって戻ってくるのは、その理論では解せない。

先日は、押し入れに逃げたトカゲが数日後、わざわざネコの前に現れて、また遊ばれてご臨終された。

そういう光景を何度も見ると、私が途中で猫を遮って逃がすことは
つかまったトカゲにとっては迷惑なことではないのだろうか?と思ってしまう。

トカゲはせっかくネコにつかまりにきているのに邪魔しないで、という感じ。

なので、人間的な判断は介入させず、獲物を捕まえてきたときは、
ネコが飽きてしまうまではそのままにしている。


今日は蝶を捕まえてきた。
食べてくれたらよかったが、羽がちぎられ、触覚がひとつになった状態で生かされてしまった。

見てて心が痛むのだが、どうしようもない。
逃がしてももう生きていけないことはわかっている。

いっそのこと殺したほうが楽なのか、そのままでも寿命が続く限り生かしておくべきか?

と思いながら、外の草の上にそのまま生かして置いた。

猫が獲物を捕まえてくるたびに思うことだけど、これがこの世界なのだなと思う。
ただ自然界は生死について、人間とは違う価値観で動いている。

畑仕事をしていても思う。

虫がいて、植物があって、微生物がいて。
その中で食いつ食われつ、共存している。


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さて、先日の「蜘蛛の生き返り」の続きの話です。

この蜘蛛の一件についてなんとなく思いを馳せながら過ごしていましたが、
その1週間後ぐらい、猫に遊ばれたヤモリを発見。

最初は死んでいると思ったのですが、ごくわずかに動きました。
先日の蜘蛛の件があったので、よし、ヒーリングをしようと始めました。
今回は最初から手当ヒーリングとともに。

最初はかなりエネルギーが乱れているのを感じましたが、そのうち乱れは取れました。
傷があったので、そこを調整。

すごく強いエネルギーがヤモリから出てきました。
死にかけてるのになんで?と思いましたが、もしかして復活のエネルギーかと思いましたが、
ヤモリを見てみたら死んだようでした。

先ほどの強いエネルギーは死ぬ瞬間のエネルギーだったのか、、、
すごい瞬間に立ち会えたなあとあきらめかけたところ、また微かに動いたように思いました。

それでまたヒーリングを続けました。
そうしたらだんだんと元気になっていきました。

蜘蛛の時よりはるかに時間をとりました。30分はしてたのかなあ?

自分の力も使ったようで、疲れたところあり、もっと力を抜くべきだなあと思いました。
ある種の意識状態になっているので、それをキープし慣れてないという意味での疲れもありますが、自分の力も使っていたんでしょうね。反省。

また猫に捕まらないように安全な場所に移しました。

前回の蜘蛛に引き続き、今回のヤモリ。
なんなんだろうな?と思いました。
蜘蛛からヤモリに移って、その分、時間も労力もかかってしまいました。

そして、同じ日の夜、また瀕死のヤモリに遭遇。
今回はもうちょっと元気で、それなりに動きます。怪我もしてて。
動くので大丈夫かなと思ったのと、朝のヤモリのヒーリングしてたので
「またやるの?」という気持ちもあり、多分大丈夫だろうとそこそこのヒーリングをしました。

で、このヤモリも前のヤモリと同じ場所に置きました。
朝のヤモリは生きているけど、まだ同じ場所にいて、動かないまま。

そして翌朝、見てみたら、最初のヤモリはだいぶん元気になったようで少しずつ動けるようでしたが、二匹目のヤモリは死んでました。

一匹目のヤモリより元気そうだったのに、、と思いましたが、
もっとちゃんとヒーリングをすればよかったと後悔しました。

その後は瀕死の生き物は現れてないのでありがたいことですけど、
続けて起きたこの出来事はなんだったんだろうな?と考えてしまいます。

ヤモリは生き返ったわけでなく、死にかけていたのが元気になったのですが、
「生きている」「命がある」ということも情報です。
生命情報が変わることにより、生きたり死んだりします。

見た目には「死んだ」「生きた」があり、
物質次元ではその結果として、生きた動く身体、死体という現象で現れます。

私たちは、生、死について強烈にインプットされているので、
この世、あの世、生きる、死ぬと分ける傾向にありますが、
物質を超えたエネルギーレベルでは「変化」でしかないです。

それに、私たちは個体として考えがちですが、微生物の集合体と思えば、一個の個体としての生命機能が停止したけれど、腐敗と分解が始まり、微生物が活動するわけです。
その個体の意識はその個体から離れるけど、違うものの生にとって代わるだけ。

蜘蛛とヤモリの些細な出来事ですが、いろいろと考えさせられます。

そして、今度はスズメの話へ(笑)


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5月の記事は、映画『ドクター・ストレンジ」をもとに、
価値観や正しいと思われることが揺らぎ出している現実について書いていました。

その流れを汲んで今日の記事になります。

しばらく前ですが、蜘蛛とヤモリがヒーリングで生き返る!?という珍事が起きました。

実際に生き返ったのか、仮死状態から目覚めただけかはわからず終いです。
こういうことがあるとまたもや現実の曖昧さについて考えてしまいます。


事の起こりは普通の日常。
私が洗濯をしていた時に起こりました。

脱水を終えて洗濯物を出した時、蜘蛛が洗濯ネットに引っかかってました。
ちょっと大きめの蜘蛛なのですが。

「ありゃ、一緒に脱水してしまったか?かわいそうなことをしてしまった、、、」と思いましたが、なぜかこの時、「ヒーリングしたら生き返るかも?」と思い、やってみることにしました。

足が太め長めの大きくなる種類の蜘蛛でしたが、床に降ろしても、ぐたっとして全く動かなかったです。

「こりゃ、死んでるかな?」と思いましたが、例えて言えば、まだ三途の川を越えてないぐらいの、死してすぐに思えたので、今ならどうにかなるかも?と思いました。

目の前に死んだっぽい蜘蛛が現れているけど、私の中の現実(蜘蛛が死んだという情報)が変われば生き返ることも可能だと思いました。

最初は、私が観る情報が変わればいいと思ったので、手を当てずにヒーリングしました。
しかし蜘蛛は一向に動く気配を見せず、うーん、やっぱ無理かなと思ったので、もう少し抽象度低く、体感レベルのエネルギーの情報も変わった方がいいかも?と手を当てながらのヒーリングとなりました。

しばらくたってもやはり動かず。
もうやめようかなと思いましたが、もう少し続けました。

またしばらくしてから、ちょんちょんとつつくと、ん?なんか動いたような?

そんな気がしたのでもう少し続けました。
そしてまたつつくと、今度は確実に動きました。

おー、生き返った!

じっとしてはいますが、つつくとかすかに動くし、しばしたって見ると
足の位置が微妙に変わっているので確かに復活したようです。

もうちょいヒーリングして、確実に生き返ったなと感じ、そのまま放置。
しばらくの間そのままそこにじっとしていました。
しばしたってから見たら、どこかに移動したらしく姿が見えなくなっていました。


死んでいた蜘蛛が生き返ったのか、仮死状態だった蜘蛛が目覚めただけか、
知る由もないですが、ヒーリングの効果があったことは確かだと感じました。

このはっきりしない状態というのが、いかにも〜という感じです。
もし本当に生き返ったことが明らかであれば、自分のヒーリングすごい!と私が天狗になってしまうかもしれませんので、ちゃんとわからないようになってるところがニクいですね。

ヒーリングで蜘蛛が生き返ったかどうかよりも、死んだように見えた蜘蛛をなぜ私がヒーリングしようと思ったのか?というところと、生き返ったのかどうかがはっきりしないところが今回の出来事のポイントのような気がします。

蜘蛛が実際に死んでいたか、仮死状態だったかはそう重要ではなく、
死んだ直後か仮死状態だったから息を吹き返したんだと思います。

ヒーリングしなかったら蜘蛛は死んでたんじゃないかな?と思います。

完全に死んでいたら、私はヒーリングしようとは思わなかったでしょう。

私は「生き返るかもしれない」と蜘蛛を見たときに直感的に思ったから
ヒーリングをしたので、何かしら感じていたわけです。

生き返るかもしれない予感を多少なりとも感じたわけです。
生き返らないと思っていたらそのまま放置したでしょう。

そう思うと、私の情報の中にすでに「生き返るかも?」という情報が芽生えていたわけです。
「生き返るかも?」という未来情報に基づいてヒーリングしていった結果、生き返った。

始めた時は半信半疑ではありますが、「生き返る」前提でヒーリングを始めています。

私たちが何かを行う時、無意識に自動的に行うことが大半です。
その時、無意識で「こうなるだろう」という予測をして動いています。

予測をしていることに気づかないまま、その通りに現実が訪れます。
そしてそれを当然のこととしてやり過ごしています。

ほとんど今までの過去のパターンに当てはめて「そうなる」と思っています。

その無意識の予測に反した出来事が起こるとき、人はそれを「奇跡」と呼びます。


現代において、ヒーリングはまだ気休めや癒し、リラクゼーションなどのように思われていると思います。

特に私が普段しているような遠隔ヒーリングは、「会わずして遠方から何ができるのか理解できない、、、」と信用してない人も多いでしょう。(蜘蛛は対面でのヒーリングでしたが)

でもそれは物質レベルで物事を捉えているからそう思います。
何度も遠隔ヒーリングをしていると、意識はつながっていて影響し合えることがわかります。


自分が料理の時に負った軽い火傷は今までも何回もヒーリングで治していたので、
そのやり方で今回やってみようと思いました。

火傷が治るなら蜘蛛も生き返るかも? というより、
「その時に私が体験している情報が変われば現実が変わる」という前提の元での試みでした。

思った以上に時間がかかったし、大きめとはいえ、小さな蜘蛛の話なので、
人間の蘇生となると命かけないといけないぐらいだろうなと思います。
そもそも今の私にはそんな力ないですが。

病気や腫瘍などはなくなる可能性あるだろうけど。

なんてことを思っていたら、次に現れたのはヤモリでした。。。

続く、、、。


蜘蛛の恩返し、、あるかなあ?(笑)


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6月は穏やかに流れる月です。

ここ数ヶ月、自分の中で新しい展開が始まり、
それに対して葛藤が起きていた人も少なくなかったと思います。

新しい流れに乗っていくために不必要なものを捨てていく段階ですが、
私たちはなかなかそれに気づけません。

今日と同じ明日がこの先も続いていくとなんとなく思っていて、
自分の考えや習慣を変えようとしません。

「変わりたい」「こうなりたい」という思いはありますが、
実際に動くかどうかは別問題です。思っているだけが心地よいです。

変化には痛みが伴うこともあります。
それは今まで慣れ親しんでいたことが変わるという悲しさ、寂しさ、苦しさです。

が、もし変化後の状態の方が楽しいとしたら、
あなたは変化するのにワクワクするのではないでしょうか?

6月はその移行への抵抗が少なくなります。

力があまり入らず、これでいいんかな?と長いものに巻かれる感があります。

今、集合意識の方の変化が大きいですので、その影響が個人レベルにも起きます。
集合意識は、個々の意識の変化により変化していきますが、逆輸入的に個人の意識に影響を及ぼしていきます。

守られている感、私ががむしゃらに頑張らなくてもお天道様がちゃんと見てくださっている感が起こります。大きな自然界の仕組みの中に取り込まれて動いていることに納得している自分を見つけることでしょう。

自然界の一部として、大きな流れの中で動いている自分、そこから異なったいびつな動きをするのではなく、その流れの中で自分がやるべきことをやっている感が出てきます。

自分が何か大いなるものによって動かされている感を得て、
これでいいのだという気になってきます。

今までがむしゃらに自分で頑張ってきてたのがなんだったのかな?
と思えるぐらい目が覚めた感が出てきます。

一つのとらわれていた意識から出て、新しい展開をすんなりと受け入れて
自然に動き出している感あります。

ある意味、サレンダー感(降参)ありますが、心地よいサレンダーとなるでしょう。

では楽しい6月をお過ごしください。


「和音」2017.6.2


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最近書いている話の続きです。

人とは何か?
なぜ私たちは生きるのか?
なぜこの世界はこうなのか?

などと問いかけていくと、

「人の生き方やあり方と、自然の摂理」がテーマになります。

意識の海から飛び出して、「個」の意識が始まり、
人類が発生してから、それが力を持ってきました。

しかしその「意識」も今のあり方に限界を感じ、さらなる進化を求めています。

私たちはその流れの中で、自己を見つめ、全体を見つめ、
どうバランスをとり、どうあるのか?というところを抽象度高く、
高い視点を持って見ることができると、自ずと「どのようにいきていくのか?」が見えてきます。

一回でもその視点からみることができると、また地上に戻って這うとしても、
全然違うものの見方になっていきます。


そういう人が少しずつ増えつつあります。

いつもと変わらないような毎日を過ごしながらも
そこに意識を向け、「自分に何ができるか?」を考えていれば、静かに世界は変わり始めます。

「あなたの世界」が変わりだします。


映画の「ドクター・ストレンジ」も「アサシンクリード」も
今までの価値観や固定概念を揺らがそうとしてました。

正義のために活動していると思っていたら、その活動によって悪が生み出されている。

光を当てれば当てるほど闇も深まる。

これまでは、闇を悪としてしまうことで、問題をすり替えていました。

が、もうそれができない時代になってきました。

本当の愛を感じるには、闇や悪への理解が必要なのだと。

私たち「意識」は今、そういう進化段階にきています。

そこを見ることは、最初は痛みがあるでしょう。
でもそれをすることで、もっと統合された人格となり、自我自身が成長、進化していけます。


今、意識の進化という意味で書いていますが、
これはもちろん個々人の自我意識に対しても言えます。

この宇宙を生み出している「意識」と私たち個々人の「意識」は連動しています。

影響しあいながら成長しています。

もはや私たちは一人ではあり得ない。

そんな段階に入ってきているように思います。



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どんどんと二元論的考えに疑問を持つ人が増えています。
善と悪は、その基準をどこに持っていくか?で違ってきます。

昔、善だと思われていたものが時代が変われば、悪になっていたり、またはその逆もあります。歴史では、支配する側、される側で常に置き換えが起きています。

でもその時代に住む人々は、その考え方の中で生まれ育っていくので、
疑問に思わない限りは、それを信じて生きていきます。


最近の日本でわかりやすいのは、
「原発は安全」「ワクチンや予防接種は必要」「牛乳は成長に欠かせない」
などありますね。

いい、悪い、善、悪、幸、不幸はいくらでも置き換え可能。

戦争で人を殺すのは許され、個人が誰かを殺すのは犯罪、というのも、
誰がそんなこと決めるんですか?って話です。

またこれも長年、問いかけられていることですが、
「全知全能の神が存在するならば、なぜ不幸なことが起こるのか?不幸な人たちがいるのか?」という疑問。

[全知全能の神は存在しない、真実はない]というところに立てば、
「いないんだよ」で済みます。

神という概念は人が作り出したもので、人なしでは存在しない。


人は何かと「完全なる存在」や「真実」を信じたいようです。

これは「ひとつであるところ」から自我としての自分が現れ、
「個人」として存在するようになったことに起因しています。

心のどこかで「完全なるもの」に憧れ、そうなりたいと感じるところがあります。


俯瞰的な視野を持つと、「うん。わかるよ」というケースが増えてきて、「どれが正しい」とは言えなくなってきます。
どんなに世界や人々のことを考えて自分の人生をそのために捧げたとしても、その行為は同時に悪となるものを生み出します。

素晴らしい人格者でも、その人が存在することで、反対勢力の悪が生まれていて、
それを取りぞこうとしても次から次へとキリなく出てきます。

その人の善なる心はそれを取り除こうと戦い続けますが、それがまた悪を生み出します。

Dr.ストレンジで、この部分、扱っていましたね。
これはカルマの問題と見てとれます。
キリスト教の原罪についても疑問を投げかけているのでしょう。

この考えでは、前提として「正義はよく、悪は悪い」がありますから、
正義は悪を取り除こうとしてイタチごっことなります。

その人がその人の中で解決法を見出したら世界は救われるでしょう。

救われるのは「その人の世界」ですが、それが全体のバランスにも影響していくので、
いろんな繋がりが変わり、情報の組み換えが起こり、現実が変わっていきます。


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A woman umbrella

春分前と後では、自我の定義そのものが変わるようなことが
静かに起きていたのを私は感じていました。

今まではエゴとしての「個」が重要視されてきた時代でした。

「自己実現」という言葉が表すように、「自分」という存在をどう「実現」させるか?
というところに焦点が当たっていました。

それは個人の向上心や成長を促し、そのおかげでいろんな発明があり、生活も向上しました。

が、同時に、争い、競争社会を生み出しました。
人より多くを得て、より賢くあることが「成功者」であるかのように思われてきました。
資産をたくさん持っている人、稼いでいる人、会社のトップなどが成功者と思われています。

エゴは、”自他の区別のない一切がひとつであるところ”から、
飛び出してきたチャレンジャーです。

飛び出してきた手前、おいそれと”ふるさと”に戻れないし、
一旗あげないと自分の価値がないように感じます。
常に「ワンネス」への郷愁と罪悪感と恐れ多い気持ちがあります。

エゴが一番恐れていることは「自分が消滅してしまうこと」です。

自他の区別のないところ(ここでは仮に「ワンネス」と書きます)から
飛び出してきていますので、「ここにいるよ!認めて!」と叫び続けています。

その自分が消えてしまうことは、その努力が全く報われなかったということ、、、

そういう挫折感、敗北感、自己嫌悪でいっぱいになるのが怖く、
必死で自分を主張しようとします。

これはエゴが勝手に思っていることですので、実際はそんなことなく、反対に、エゴのその恐れと頑張りがストレスや問題を生み、物事をややこしくして滞らせる原因になっています。

このコアの部分、これが手放せたらすごく楽になります。

が、多くの人はこれを手放したら、自分の根幹となる柱が崩れてしまうのではないか?
という恐怖を抱いているので、ひたすら頑張って認めてもらおうと努力し続けます。

自分が信じていたものがガラガラと崩れてしまうのは怖いし、大変です。

けれどもこの流れを知り、意図的にそこに飛び込むのであれば、
ハラハラドキドキワクワクと新しい自分を発見していきます。


最近、しばらく観ていなかった映画をまた観に行くようになって、
「Dr.ストレンジ」も「アサシンクリード」「ゴーストインザシェル」と見ました。

最近の記事はそこから発端して書いていますが、これらの映画は
「今までの固定概念を揺さぶろうとしている」という点では同じでした。

ハリウッド映画は裏で誰かが操っているのか?と思うほど、
今、「自我」に揺さぶりをかけていますね。

私がたまたまそんな映画ばかり見ているのかもしれませんが、今、全体の意識の流れがその方向に向かっているので、それを先取りしている人たちがそのような発信をしているのもしれませんし、意図的に人類をそういう流れに向けようと働きかけている組織や存在がいるのかもしれません。

私はテレビを見ないので、テレビドラマについては知らないですが、
もしかすると日本のテレビドラマでもそういう類の内容があるのかしら?

アニメや漫画は率先して、新しい認識をもたらしてますね。

「自我」の境界がゆるみ始めているのを感じています。
だんだんとエゴが、今までは自分の殻に閉じこもっていたんだと気づきだしています。

言い換えれば、「自分のために生きる」より「他のために生きる」感覚が増し始めています。

エゴの価値観であった「自分が生き延びる」「自分が成功する」「自分が認められる」が
ゆるんできて、「他者のために自分を生かす」という価値観に変わりだしています。

自我の領域が広がりだしてるのは、自分が消えてなくなる恐怖から解放されつつあるということです。
自分の境界がゆるんで、自他の区別が曖昧になります。

つまり、自分のコンフォートゾーンが広がっていることになります。



今週土曜日の東京セミナー、残1名様のみです。
 
なんとなく過ごしていればなんとなく人生が終わってしまいます。

あなたはどのような人生を歩みたいですか?望む生き方をしていますか?

あなたが自分の持てる力を発揮し、自分軸を取り戻し、まわりに惑わされず、
本来の輝きとパワーを取り戻し、やりたいことに進んでいけたら、
どれほど充実した人生が待っているでしょうか?

長いようで短い人生。
モタモタしていたらあっという間に終わってしまいます。

もしあなたが、あなたの中に眠るダイヤモンドを輝かせたいのなら、
「いつか」ではなく、「今」動きましょう。

5月27日(土)14:00~17:00
場所:丸ノ内線・四谷三丁目から徒歩3分のところ
料金:5000円
定員:6名(残1名)

今回は東京での個人コーチングの募集もしますので、その説明会も含めて行います。

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自然の摂理には従うべきか、人間の進化はそれを超えるのか?

また映画「ドクター・ストレンジ」の話から発展させて、、、

ドクター・ストレンジは、自然の摂理に反して、時間の閉じた輪を作って地球を救ったことに対して、「時間の逆行という自然の摂理に反した代償はいずれお前に返ってくる」とある人物(モルド)に警告されます。

理由が正義でも、自然の摂理に反することをすれば、いずれカルマとなり、
その穴埋めをせざるを得なくなるとモルドは考えます。

魔法を使う=自然の摂理に反する。

モルドは、半身不随から自力で力をつけ、復帰した男の力を、
それは「お前の力ではない」と奪い、元の半身不随状態に戻します。


彼は、「自然の摂理に反することは悪である」という考えに変わります。

善側にいた彼は、彼の中の善悪の判断で正しいと思ったことをしたわけですが、
この行為は他者から見れば、悪の行為に見えるでしょう。

善悪に分けようとする行為は人間が行うことです。
そこに立っている限り、これは「正しい」「これは正しくない」と
境界線を引くことになります。

それはエゴが起こしている行動です。


善悪の判断を持つ人間が自然の摂理とどのように関わっていくのか?
という問いかけがなされています。

人が人である限り、エゴから抜け出ることはできません。

善の行為も悪の行為もエゴから発生しています。
この映画では善と悪の境界線を揺るがせています。

違う側からの視点を繰り返し見せて、
「人間とは何か? どう生きるべきか?」を問いかけてきます。


医学的なところからの問いかけもあります。

ドクター・ストレンジが最初は、西洋医学の物理的な次元での名医だったのが、
事故により身体がうまく使えなくなり、魔術と言えるエネルギーの使い方を学ぶことで復活します。

それはすごい力と思われていましたが、自然の摂理に反することはやってはいけない
という視点もこの映画では交えています。

悪とみなさないにしろ、自然の摂理に反した行為であれば、いずれそのつけが回ってきます。

運命に手を加えるべきか、受け入れるべきか?
魔法を使って幸せになってもいいのか?いけないのか?
自然とは何か? 人間とは何か? 善とは何か? 悪とは何か? 医療とは?

いろんな問いかけががいろんな角度からなされていて、答えが出てないんですね。

続きがあるような終わり方でしたから続編が出るのでしょうが、
善とも悪とも決めず、両サイドの視点を見せながら結論を言わないところなどは
もののけ姫を彷彿させます。


映画に出てきた言葉なのか、自分で書いたのか、もう覚えていませんが、
この映画を見た日に書いたメモの最後に、

「魔術の真髄は問いかけから始まる」と書いてました。


運命に手を加えるべきか、受け入れるべきか?

ダイナミックな縁起の中でどうあるか?

自然になる、委ねるとは?

などクエスチョンが出てくるけど、答えが私たちに与えられてないがゆえに、
見る側が考えざるを得なくなります。

自分はこれが言いたいという自己主張型ではなく、
答えは見ている人に委ねられるという表現は東洋的だなと思いました。


これからテクノロジーがもっと発達していくとますます、
この「魔法を使ってもいいのか?」というところが論議の的になりそうです。
今までも、遺伝子組み換えや人工授精や人工知能、臓器移植など論議されてきていますが。

最近、「魔法」がまたブームになってきていますが、テクノロジーは現代の魔法です。

昔の人間や自然の潜在能力を使った魔法と、テクノロジーが見せる魔法とどう違うのか?
どこで境界線を張るのか? どこまで人間が手をつけていのか?
道徳、モラルはどう関わるのか?

もう一度見直してみるといい時期なのでしょう。


  


5/27(土)東京でセミナーを行います。

なんとなく過ごしていれば、なんとなく人生が終わってしまいます。

あなたはどのような人生を歩みたいですか?
望む生き方をしていますか?

あなたが自分の持てる力を発揮し、自分軸を取り戻し、まわりに惑わされず、
本来の輝きとパワーを取り戻し、やりたいことに進んでいけたら、
どれほど充実した人生が待っているでしょうか?

あなたの中に眠るダイヤモンドを輝かせるために一歩踏み出しませんか?
あなたの中に眠るチカラを目覚めさましょう。

5月27日(土)14:00~17:00
場所:丸ノ内線・四谷三丁目から徒歩3分のところ
料金:5000円
定員:6名(残3名)

今回は東京での個人コーチングの募集もしますので、その説明会も含めて行います。

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