いのちおり - 本来の自分に還るために

さあ、未来の自分に還る旅に出よう!
人生をよりクリエイティブに生きたいあなたに贈る
   悦月(えつき)のブログ(旧ブログタイトル:たまむすひ)
                                    

DSC_8751-39

どんどんと二元論的考えに疑問を持つ人が増えています。
善と悪は、その基準をどこに持っていくか?で違ってきます。

昔、善だと思われていたものが時代が変われば、悪になっていたり、またはその逆もあります。歴史では、支配する側、される側で常に置き換えが起きています。

でもその時代に住む人々は、その考え方の中で生まれ育っていくので、
疑問に思わない限りは、それを信じて生きていきます。


最近の日本でわかりやすいのは、
「原発は安全」「ワクチンや予防接種は必要」「牛乳は成長に欠かせない」
などありますね。

いい、悪い、善、悪、幸、不幸はいくらでも置き換え可能。

戦争で人を殺すのは許され、個人が誰かを殺すのは犯罪、というのも、
誰がそんなこと決めるんですか?って話です。

またこれも長年、問いかけられていることですが、
「全知全能の神が存在するならば、なぜ不幸なことが起こるのか?不幸な人たちがいるのか?」という疑問。

[全知全能の神は存在しない、真実はない]というところに立てば、
「いないんだよ」で済みます。

神という概念は人が作り出したもので、人なしでは存在しない。


人は何かと「完全なる存在」や「真実」を信じたいようです。

これは「ひとつであるところ」から自我としての自分が現れ、
「個人」として存在するようになったことに起因しています。

心のどこかで「完全なるもの」に憧れ、そうなりたいと感じるところがあります。


俯瞰的な視野を持つと、「うん。わかるよ」というケースが増えてきて、「どれが正しい」とは言えなくなってきます。
どんなに世界や人々のことを考えて自分の人生をそのために捧げたとしても、その行為は同時に悪となるものを生み出します。

素晴らしい人格者でも、その人が存在することで、反対勢力の悪が生まれていて、
それを取りぞこうとしても次から次へとキリなく出てきます。

その人の善なる心はそれを取り除こうと戦い続けますが、それがまた悪を生み出します。

Dr.ストレンジで、この部分、扱っていましたね。
これはカルマの問題と見てとれます。
キリスト教の原罪についても疑問を投げかけているのでしょう。

この考えでは、前提として「正義はよく、悪は悪い」がありますから、
正義は悪を取り除こうとしてイタチごっことなります。

その人がその人の中で解決法を見出したら世界は救われるでしょう。

救われるのは「その人の世界」ですが、それが全体のバランスにも影響していくので、
いろんな繋がりが変わり、情報の組み換えが起こり、現実が変わっていきます。


メルマガ登録をぜひどうぞ! → メルマガ登録

セッションメニューはこちら!



人気ブログランキングへ ←ポチッと応援を!いつもありがとうございます m(_ _ )m

A woman umbrella

春分前と後では、自我の定義そのものが変わるようなことが
静かに起きていたのを私は感じていました。

今まではエゴとしての「個」が重要視されてきた時代でした。

「自己実現」という言葉が表すように、「自分」という存在をどう「実現」させるか?
というところに焦点が当たっていました。

それは個人の向上心や成長を促し、そのおかげでいろんな発明があり、生活も向上しました。

が、同時に、争い、競争社会を生み出しました。
人より多くを得て、より賢くあることが「成功者」であるかのように思われてきました。
資産をたくさん持っている人、稼いでいる人、会社のトップなどが成功者と思われています。

エゴは、”自他の区別のない一切がひとつであるところ”から、
飛び出してきたチャレンジャーです。

飛び出してきた手前、おいそれと”ふるさと”に戻れないし、
一旗あげないと自分の価値がないように感じます。
常に「ワンネス」への郷愁と罪悪感と恐れ多い気持ちがあります。

エゴが一番恐れていることは「自分が消滅してしまうこと」です。

自他の区別のないところ(ここでは仮に「ワンネス」と書きます)から
飛び出してきていますので、「ここにいるよ!認めて!」と叫び続けています。

その自分が消えてしまうことは、その努力が全く報われなかったということ、、、

そういう挫折感、敗北感、自己嫌悪でいっぱいになるのが怖く、
必死で自分を主張しようとします。

これはエゴが勝手に思っていることですので、実際はそんなことなく、反対に、エゴのその恐れと頑張りがストレスや問題を生み、物事をややこしくして滞らせる原因になっています。

このコアの部分、これが手放せたらすごく楽になります。

が、多くの人はこれを手放したら、自分の根幹となる柱が崩れてしまうのではないか?
という恐怖を抱いているので、ひたすら頑張って認めてもらおうと努力し続けます。

自分が信じていたものがガラガラと崩れてしまうのは怖いし、大変です。

けれどもこの流れを知り、意図的にそこに飛び込むのであれば、
ハラハラドキドキワクワクと新しい自分を発見していきます。


最近、しばらく観ていなかった映画をまた観に行くようになって、
「Dr.ストレンジ」も「アサシンクリード」「ゴーストインザシェル」と見ました。

最近の記事はそこから発端して書いていますが、これらの映画は
「今までの固定概念を揺さぶろうとしている」という点では同じでした。

ハリウッド映画は裏で誰かが操っているのか?と思うほど、
今、「自我」に揺さぶりをかけていますね。

私がたまたまそんな映画ばかり見ているのかもしれませんが、今、全体の意識の流れがその方向に向かっているので、それを先取りしている人たちがそのような発信をしているのもしれませんし、意図的に人類をそういう流れに向けようと働きかけている組織や存在がいるのかもしれません。

私はテレビを見ないので、テレビドラマについては知らないですが、
もしかすると日本のテレビドラマでもそういう類の内容があるのかしら?

アニメや漫画は率先して、新しい認識をもたらしてますね。

「自我」の境界がゆるみ始めているのを感じています。
だんだんとエゴが、今までは自分の殻に閉じこもっていたんだと気づきだしています。

言い換えれば、「自分のために生きる」より「他のために生きる」感覚が増し始めています。

エゴの価値観であった「自分が生き延びる」「自分が成功する」「自分が認められる」が
ゆるんできて、「他者のために自分を生かす」という価値観に変わりだしています。

自我の領域が広がりだしてるのは、自分が消えてなくなる恐怖から解放されつつあるということです。
自分の境界がゆるんで、自他の区別が曖昧になります。

つまり、自分のコンフォートゾーンが広がっていることになります。



今週土曜日の東京セミナー、残1名様のみです。
 
なんとなく過ごしていればなんとなく人生が終わってしまいます。

あなたはどのような人生を歩みたいですか?望む生き方をしていますか?

あなたが自分の持てる力を発揮し、自分軸を取り戻し、まわりに惑わされず、
本来の輝きとパワーを取り戻し、やりたいことに進んでいけたら、
どれほど充実した人生が待っているでしょうか?

長いようで短い人生。
モタモタしていたらあっという間に終わってしまいます。

もしあなたが、あなたの中に眠るダイヤモンドを輝かせたいのなら、
「いつか」ではなく、「今」動きましょう。

5月27日(土)14:00~17:00
場所:丸ノ内線・四谷三丁目から徒歩3分のところ
料金:5000円
定員:6名(残1名)

今回は東京での個人コーチングの募集もしますので、その説明会も含めて行います。

お申し込みフォーム
(「5/27セミナー参加」とメッセージ欄にお書きください)


メルマガ登録はこちら! → メルマガ登録


人気ブログランキングへ ←ポチッと応援を!いつもありがとうございます m(_ _ )m

自然の摂理には従うべきか、人間の進化はそれを超えるのか?

また映画「ドクター・ストレンジ」の話から発展させて、、、

ドクター・ストレンジは、自然の摂理に反して、時間の閉じた輪を作って地球を救ったことに対して、「時間の逆行という自然の摂理に反した代償はいずれお前に返ってくる」とある人物(モルド)に警告されます。

理由が正義でも、自然の摂理に反することをすれば、いずれカルマとなり、
その穴埋めをせざるを得なくなるとモルドは考えます。

魔法を使う=自然の摂理に反する。

モルドは、半身不随から自力で力をつけ、復帰した男の力を、
それは「お前の力ではない」と奪い、元の半身不随状態に戻します。


彼は、「自然の摂理に反することは悪である」という考えに変わります。

善側にいた彼は、彼の中の善悪の判断で正しいと思ったことをしたわけですが、
この行為は他者から見れば、悪の行為に見えるでしょう。

善悪に分けようとする行為は人間が行うことです。
そこに立っている限り、これは「正しい」「これは正しくない」と
境界線を引くことになります。

それはエゴが起こしている行動です。


善悪の判断を持つ人間が自然の摂理とどのように関わっていくのか?
という問いかけがなされています。

人が人である限り、エゴから抜け出ることはできません。

善の行為も悪の行為もエゴから発生しています。
この映画では善と悪の境界線を揺るがせています。

違う側からの視点を繰り返し見せて、
「人間とは何か? どう生きるべきか?」を問いかけてきます。


医学的なところからの問いかけもあります。

ドクター・ストレンジが最初は、西洋医学の物理的な次元での名医だったのが、
事故により身体がうまく使えなくなり、魔術と言えるエネルギーの使い方を学ぶことで復活します。

それはすごい力と思われていましたが、自然の摂理に反することはやってはいけない
という視点もこの映画では交えています。

悪とみなさないにしろ、自然の摂理に反した行為であれば、いずれそのつけが回ってきます。

運命に手を加えるべきか、受け入れるべきか?
魔法を使って幸せになってもいいのか?いけないのか?
自然とは何か? 人間とは何か? 善とは何か? 悪とは何か? 医療とは?

いろんな問いかけががいろんな角度からなされていて、答えが出てないんですね。

続きがあるような終わり方でしたから続編が出るのでしょうが、
善とも悪とも決めず、両サイドの視点を見せながら結論を言わないところなどは
もののけ姫を彷彿させます。


映画に出てきた言葉なのか、自分で書いたのか、もう覚えていませんが、
この映画を見た日に書いたメモの最後に、

「魔術の真髄は問いかけから始まる」と書いてました。


運命に手を加えるべきか、受け入れるべきか?

ダイナミックな縁起の中でどうあるか?

自然になる、委ねるとは?

などクエスチョンが出てくるけど、答えが私たちに与えられてないがゆえに、
見る側が考えざるを得なくなります。

自分はこれが言いたいという自己主張型ではなく、
答えは見ている人に委ねられるという表現は東洋的だなと思いました。


これからテクノロジーがもっと発達していくとますます、
この「魔法を使ってもいいのか?」というところが論議の的になりそうです。
今までも、遺伝子組み換えや人工授精や人工知能、臓器移植など論議されてきていますが。

最近、「魔法」がまたブームになってきていますが、テクノロジーは現代の魔法です。

昔の人間や自然の潜在能力を使った魔法と、テクノロジーが見せる魔法とどう違うのか?
どこで境界線を張るのか? どこまで人間が手をつけていのか?
道徳、モラルはどう関わるのか?

もう一度見直してみるといい時期なのでしょう。


  


5/27(土)東京でセミナーを行います。

なんとなく過ごしていれば、なんとなく人生が終わってしまいます。

あなたはどのような人生を歩みたいですか?
望む生き方をしていますか?

あなたが自分の持てる力を発揮し、自分軸を取り戻し、まわりに惑わされず、
本来の輝きとパワーを取り戻し、やりたいことに進んでいけたら、
どれほど充実した人生が待っているでしょうか?

あなたの中に眠るダイヤモンドを輝かせるために一歩踏み出しませんか?
あなたの中に眠るチカラを目覚めさましょう。

5月27日(土)14:00~17:00
場所:丸ノ内線・四谷三丁目から徒歩3分のところ
料金:5000円
定員:6名(残3名)

今回は東京での個人コーチングの募集もしますので、その説明会も含めて行います。

お申し込みフォーム
(「5/27セミナー参加」とメッセージ欄にお書きください)


メルマガ登録をぜひどうぞ! → メルマガ登録

セッションメニューはこちら!



人気ブログランキングへ ←ポチッと応援を!いつもありがとうございます m(_ _ )m


映画「ドクターストレンジ」から始まってのつらつら書きの続きです。

この映画では、「時間」もまた一つの大事なテーマになっていました。

時間、、、人間にとっては寿命。

「時間こそが私たちの敵」とする考え。
つまり、命に限界があるということです。

古代から不老不死に対する憧れがありました。

今では「ゴースト・イン・ザ・シェル」の映画で描かれていたような義体の時代は
もうすぐそこにきていますから、不老不死も夢ではなくなってきています。


ネタバレになりますが、ドクター・ストレンジは、世界を救うために、
なんども殺されるという時間の無限ループに入ります。

自らが望んで何度も殺される生死の繰り返しの無限ループの中では、
死(痛み)は怖くなくなります。

映画「オール・ユー・ニード・イズ・キル」でも繰り返し殺される主人公が出ていました。

あれを見た後で思ったのは「エゴの死」でした。
「永遠に生きたい」と思う裏返しは、「エゴの死」を望んでいるんだろうなと。

エゴが死ぬことで、自分は囚われの世界から解放され、自由になれる、
永遠に生きることができるという思いがあるように思います。

映画などで簡単に殺すシーンが多いのは、
私たちの中にあるその潜在的な願望を表しているのかもしれないです。


エゴの死といっても、エゴがないと私たちは個の意識を持てないので、エゴは必要です。
エゴが一旦死ぬような体験をすることで、エゴに囚われた世界から解放されます。

”自他の区別のないところ”から、「個」として出てきた私たちです。
エゴ(自我)は、自分は何かが欠けていると思いがちです。
完全なるものに戻りたい、なりたい思いがどこかにあります。


ドクター・ストレンジは、閉じた時間の中で何度も殺されに行きますが、
その時、自分のために生きることは捨てて、人のために死に続けることを選んでいます。

ここでは時間のループで表されていますが、これは象徴だなと思いました。

私たちの日常は、習慣、カルマ、無意識のループに陥っています。
そのたくさんのループの中で、繰り返し繰り返し同じことを繰り返します。

そこでは無意識に行動をするので、自分がないに近いです。
自分のために生きていない、死んでいるのと何ら変わらない状態です。

それに気づき、そのループから抜け出し(解脱)、また新しいループに入り、
またそのうち気づいて抜け出して、、、を繰り返して生きていきます。

でも一つのループから抜け出るごとに、抽象度が高くなって多角的な視点を得ます。

書き出したらなかなか終わりません、、ので、次回に続きます。


  

5/27(土)東京でセミナーを行います。

エゴを殺さずに、エゴから自由になるには?

まわりに惑わされず、本来の輝きとパワーを取り戻し、
最高の人生を歩むためのきっかけ作りをします。

5月27日(土)14:00~17:00
場所:丸ノ内線・四谷三丁目から徒歩3分のところ
料金:5000円
定員:6名

今回は東京での個人コーチングの募集もしますので、その説明会も含めて行います。

お申し込みフォーム

(「5/27セミナー参加」とメッセージ欄にお書きください)


メルマガ登録をぜひどうぞ! → メルマガ登録


人気ブログランキングへ ←ポチッと応援を!いつもありがとうございます m(_ _ )m

映画「ドクターストレンジ」から始まってのつらつら書きの続きです。

「ドクターストレンジ」では、ダークサイドこそが善とする意見が出てきます。
命が限られることが恐れを生み出し、限界を生み出します。
時間を超越して永遠に生きることで、人間は解放され、自由になれるとします。

そもそも時間もこの世界も幻想であり、私たちはその幻想の中に生きています。
実際に個体としての物や身体があるわけではなく、脳がそのような像を見ているから、
実際にあるかのように感じています。

私たちは生の肉体を感じますし、食べたり排泄し、痛みを感じ、身体は老いていきます。
触ったら触れるし、ちゃんとあるでしょ?と言われたとしても当然だと思います。

私たちは物質主体の世界に生きてきたので、肉体を持つ私たち自身が幻想だと信じられなくても、当然と言えば当然です。

上腕をつねって「痛い」と思っても、上腕自体が痛みを感じているのではなく、
実際は、脳が「上腕が痛い」と信号を送っています。

理屈でそういうことがわかったとしても、やはり上腕をつねれば「上腕が痛い」と感じます。
「『それ、幻想だよ』と言われてもなー。今ここでリアルに感じるんだよ」と思って当然でしょう。

私たちは、自分が持っている記憶も、なぜか「正しい」と思い込んでいます。
そのようなことが起こったのだと。


映画「ゴースト・イン・ザ・シェル」では、自分が誰かわからなくて、過去の記憶もなく、
どこにもつながっている感がない状態を主人公は感じます。肉体も脳以外が義体。
身体さえも自分でない。

そうなった時、何があなたを「あなた」として認識させるのか?

なんのために生きているのか? 存在しているのか?

自分が誰かわからずに生きているのは、宙に浮いた感覚に近いと思います。


”自分のことを「自分」と自覚しているその根拠は何?”

と聞かれたら、あなたはどう答えますか?


あなたをあなたたらしめているもの。

名前、外見、過去、人格、これらがあなたなのか?


「ゴースト・イン・ザ・シェル」では、記憶が塗り替えられて、
新しく植えつけられた記憶の人格や経験をそのまま信じている人物が登場します。

つい先日見たアメリカドラマの「ニキータ」でも、巧妙な心理作戦と脳への介入で、
新しい記憶を植え付けて、それがそれまでの自分の強い情動と重なり、
新たな人格と現実を作り出していくという話がありました。

自分にとっては確実に存在したと思える人物や経験が、実際は想像上の人物や経験で、
実際にはそれは起きていなかったとしても、あなたの意識の中で経験していたら、
それはあなたにとっての現実、本当にあった話です。

そして実際に、私たちが今持っている記憶はそのようなものです。
一緒に経験したはずの他の人は全く違う経験をしている可能性は大ですし、歴史はいい例です。起こっていなかったことが起こったとされ、起こったことが起こっていなかったとされていたり。

でも教育で「こうです」と教えられるので、それをそのまま事実として認識してしまいます。


もしあなたが違う記憶を植え付けられているとしたら、名前、外見、過去、人格などは、
あなたがあなたであると断言できるものではありません。

あなたが今記憶しているあなた自身、それは本当のあなたなのか?
それとも他の記憶の中で生きているのか? 自分が誰かわからずに生きているのか?

今、あなたをあなたと限定できるものは、
名前、性別、家族、出身地、生い立ち、経歴、仕事などなのではないでしょうか?

「ゴースト・イン・ザ・シェル」では主人公はその答えを見つけますが、
あなたはどうでしょう?


自分が誰かわからなくて悩む人、そこから逃げて何も考えなくなる人はこれからも増えるでしょうが、これからは「アイデンティティを持ちましょう」というより、その反対です。

記憶すら曖昧であり、私たちはホログラムの映像みたいなものですから、
アイデンティティからも自由になってしまっていいと考えましょう。

記憶も過去も自分もいらない。
というより、それらからも自由になっていい。
その方がなんでもできるし、何者にもなれます。

「アイデンティティを持つ」ことで、あなたは小さな枠に止まってしまいますから。

あなたが何者であるかは関係なく、あなたが何者であろうとするか、が大事です。

話が「ドクターストレンジ」から「ゴースト・イン・ザ・シェル」になっちゃいましたね。


次回もこの流れの話が続きます。


メルマガ登録をぜひどうぞ! → メルマガ登録

セッションメニューはこちら!



人気ブログランキングへ ←ポチッと応援を!いつもありがとうございます m(_ _ )m

YJldy1Eoqx
「ドクター・ストレンジ」の映画から始まって、つらつらと書いています。

この映画では、「自然の摂理」と人間の関係についても問いかけがなされていました。

自然の摂理に反することはよくないか? と。

人間がどこまでそれに介入できるのか?

人間が手出しをすると、カルマを生み出し、悪を生み出すのではないか?

悪が生まれると、それを正す善や正義も生まれます。
それらは対なので、いい悪いの区別はつけられないのではないか?

その区別をつけるのは人間側の都合でしかない。

悪も善になれるし、善も悪になる。

それは見る側がどう受け取るかでしかない。

事象は事象。

何かを決めたり、選んだりすることは、エゴによる作用であるから、
どんなに善良と思われることであっても、エゴの作用である。

自然の摂理は、人間の善悪の範疇にはない。

人が行動する限り、自分のエゴによって動いているので、
いつまでたっても反抗勢力(ダークサイド)は現れる。

善側より、悪側の方がこのエゴの作用についてはわかっているので、
ある意味、自分に素直である。

善側は大義名分を掲げ、自分のエゴではないと思いたがる傾向にある。
エゴだと思った途端、悪と大差ないことを知るので、それを避けたがる。

エゴで行うことは、自然の摂理に沿っていることが大事。
自然の摂理に反したことをすると、それは必ず自分に返ってくる。

そのループ(カルマ)からは逃れられない。


人間が人間である限り、エゴを持っています。
そのエゴをどのように使うのか、自分のために使っても、人のために使っても、
善に使っても、悪に使っても、それによって生じるものは、いわば善悪の両方。

そのループからいかに抜け出すのか?
あるいは、抜けださずに解決法を見出すのか?


ここに書いたことは、あくまで問いかけであり、正しい答えなどありません。

その問いかけに、自らがどう答えを見つけていくか?
がこれからの世界に影響を与えていく、というスタンス。

今までの時代はどこかに正しい答えがあるように思われてきましたが、
各自が自分の答えを見つけていくことがそれぞれの未来を形成していきます。

答えを「探す」のではなく、答えは「作り出す」ことが大事になってきています。

クリエイティビティの時代ですね。


メルマガ登録をぜひどうぞ! → メルマガ登録

セッションメニューはこちら!



人気ブログランキングへ ←ポチッと応援を!いつもありがとうございます m(_ _ )m

扉絵
http://renote.jp/articles/9188


しばらく前の話ですが、「ドクター・ストレンジ」を見ました。
その時の観客は私一人!
一人貸切状態で、真ん中の席に座り、VIPな気分で3Dで堪能しました〜。
これは気分良かった^^

「ドクター・ストレンジ」を見て、一番いいと思ったのは「抽象度の高さ」でした。

抽象度高く俯瞰して物事を見ることは、これからますます重要になります。

この映画もいろんな視点から捉えているところがいいです。
いろんな角度から、登場人物の今までの価値観や信念を壊しています。

人としての生き方と、自然の摂理にどう関わっていくか?
というところがテーマとなっているように思いました。

善と悪をそのまま善悪とせず、善を行う者にはその信念が、
悪を行う者にもその信念があることを見せています。

両サイドの考え方、見方を見せているので、
どちらが正しい、悪いと言えなくなります。

善を行なっているはずの者が、実は悪からエネルギーを得ているとか、
悪と思われた者にはそちら側なりの信念があって、その人たちにとっては、
善側の方が悪であり、自分たちが善であり、正義であると信じっているとか。

勧善懲悪的なストーリー好みだったアメリカに、このような視点が加わってきたのは面白いです。
この映画、けっこう日本のアニメの影響を受けているように感じました。

以下、ネタバレになります。

善側から見ると、悪は悪です。
それを阻止するために戦います。

地球を守っているとされるエイシェント・ワンが「人のためであれ」と印象的に言います。
それを見ると「そうだよねー」と納得するのですが、映画では、あとでそれを覆しています。

彼女が長生きするためにダークサイドの力を使っているという事実が判明します。

彼女にしてみれば、ダークサイドの力が地球を侵食するのを止めるために、
自分が生きて阻止するしかないということになるのですが、

彼女がダークサイドからその力を得ているがために、
そういう事象が起きているという事実も現れます。
つまりそうなったきっかけが彼女だったと。

自分が作り出したカルマをなくすために、
ダークサイドと戦い続けるというカルマを生み出しています。

そしてその無限ループにはまり、生き続けます。

自分でも答えを見つけられなかったので、
それをドクターストレンジに託して、自分は死を選びます。


生きている間にカルマを作り出して、それを解消するために次の世に生まれる。
その生で、またカルマ解消をしながら、また新たなカルマを生み出している、
という無限ループに陥っている、私たちの意識の在り方。

「これが善」と「これが悪」という自分の中の定義に囚われてしまっているから
「悪を解消しなくては」と思ってしまいます。

どんなにいい人になろうとも、どこかで真逆の作用が起きて、
自分がいい人になればなるほど、悪い人や悪い行為も生まれてきていることに気づいた時、
あなたは何を思うでしょうか?

この映画は、いろんな角度からいろんな問いかけをしているところがいいなと思います。
かなり抽象度の高い映画です。

話は次回に続きます。


メルマガ登録をぜひどうぞ! → メルマガ登録

セッションメニューはこちら!



人気ブログランキングへ ←ポチッと応援を!いつもありがとうございます m(_ _ )m

a-man-stands-on-a-hill-and-looks-out-over-the-world_BX6zfkMlA

5月はオープンシークレットです。

すでにたくさんの人が知っていること(でもいちいち認識していないこと)が
何(者)かによって、意識化されることにより、みんながそれに気付き出します。

言われてみれば、「すでに知ってるよ」ということなのですが、
言われてみて初めて「すでに知っていた」ことを思い出した、あるいは再認識した、
となるでしょう。

本当にオープンになっているのに、それに関心を払う人がほとんどいませんでした。

空気みたいなもので、いつも目の前にあるのに気づかずに過ごしています。
誰かに「空気があるでしょ」と言われたら、「そんなの知ってるよ」となりますが、
改めて「ああ、空気があるから息ができてるんだなあ」と思います。

隠し物のプロは、一番目立つところにそれを隠すと言います。
それはすっかり姿を見せているのに、人々の目にはその存在が映らないか、映っても
認識されないのです。

明るみに出るものが何なのか?

個人レベルでのそれもあるでしょう。周知のレベルでもあるでしょう。

また、気づく人もいれば、気づかない人もいます。

長い間、オープンに隠されてきた秘密が明らかになります。

言い換えれば、隠していたわけではなかったけど、今までの私たちには気づけなかった、
それそのものはずっとそこにあったけど、私たちに見る目がなかった、ということです。

正確に言えば、隠されていたというより、私たちに気づく力がなかったということになります。

それに関心がなかったんでしょうね。

それに気づき出す人には、近いうちに新しい扉が現れるでしょう。(比喩ですけど)

意識の進化は着々と進んでいて、いろんなもののサポートもあり、遠くない将来、
100匹目の猿現象のような劇的な変化(でも静かに密かに)が起こるでしょう。

それは今月でも来月でもありませんが、
その予兆として自然界から興味深いギフトがあるようです。

関心のある人にとっては、ものすごく興奮するようなことです。

でもあまりにも公然としているので、気づく人がそういないかもしれません。

なぞなぞのようですが、「目の前にあるのに見えないものはなあに?」

探すと見つからず、探さないとそこにある。
5月自体がそのような月となるでしょう。

では、楽しい5月をお過ごしください。

「和音」2017.5.2


メルマガ登録をぜひどうぞ! → メルマガ登録

vvv-0216-img_0155-2656

前回の記事、「あなたは人を幸せにできる人」の話の続きとなります。

春分あたりから「自我」の枠組みが変わる気配がありました。
それがどうなったかというと、

『他のために生きることが、自分を生きることになる』

という時代への突入です。

ただし自己犠牲や被害者意識はありません。
喜びと慈悲はあります。

前回の記事で、
他の人やものになくて、自分にあるもの、自分にできることをしましょう
という話を書きました。

そこにあなたの役割がある可能性が大。

今日はまた少し違う角度から書きます。


今までは、エゴが、「自分を認めて欲しい、愛して欲しい」と叫んでいる時代でした。
それが差別や競争を生みました。

これが「自分は他を幸せにするためにいる」という自己充足感に変わっていきます。

自分向きの矢印だったのが、他者向きの矢印に変わります。

今まだそうなれてなくても心配しないでください。
大半の人がまだです。

これを読んでいるあなたは、ぜひその先駆者になってください。

そのためには、エゴが手放したくない思い
「私を愛して、私を認めて」のこだわりが外せるといいです。

そうなるには、自分の存在価値を人に求めないことです。

自分で自分を認め、許すというプロセスが必要です。


「私を愛して、私を認めて」を手放した時に、孤独で惨めになるのではなく、
「求めなくてもすでにあるのだ」と気づけると素晴らしいですね。

あなた自身が愛であり、愛に包まれているのだから、
愛される必要も、認められる必要もありません。

愛の中にもともといるのだから、「愛されたい」という概念自体が変なのです。

「愛の中にもともといる」というより、そこに区別はないですから、
あなた自身が愛の結晶です。


そして、そこに気づいた暁には、すごくポジティブで、
誰からも好かれる魅力的ないい人になる・・・かというとそうでもありません。

やんちゃをするのもオッケーですし、すごく嫌な奴になるのもありです。

でもそれは、愛の中にいるからできる行為なのです。


・・・あれ?と思った人もいたかもしれません。

愛の中にいるからできる行為?

じゃあ、ネガティブになるのも、悪いことをするのも、愛の中にいるからできるの?

大きな意味ではそうです。
かなり抽象度の高い視点から見るとそういうことです。

・・・じゃあ、自分が愛だと気付いた時、世界は今の世界と変わらないの?


まあ、そんなところです。

でもこれに気づいた人は、全く違うレイヤーにいますから、
悪いことも嫌われることもできます。が、必要でなければしないでしょうけど。

今までの愛の概念がいかに一方向からだったか。
解釈の仕方の話ですけど。

それに苦しんだり、傷ついた人も多かったと思います。

報われない思いにこだわるよりも、もうそれを手放して、
次の段階に進むことにするなら、自然と大きな癒しが起こるでしょう。

それは「視点を変える」という作業により、可能になります。
価値観や信念を変えるということです。

もう一段階上のレベルの愛の表れです。


メルマガ登録をぜひどうぞ! → メルマガ登録

セッションメニューはこちら!



人気ブログランキングへ ←ポチッと応援を!いつもありがとうございます m(_ _ )m

a-man-stands-on-a-hill-and-looks-out-over-the-world_BX6zfkMlA
人間には人間にしかできないことがある。

植物は動けないが、人は動ける。
ならば、動けない植物のためにできることがある。

植物は動けないが、二酸化炭素を酸素に変えることができる。
私たちはその恩恵を受けている。

鳥は飛べるから、植物の種をあちこちに運べる。
人間は農耕して、植物を育てることができる。

猫は毎日寝てばかりだけど、私たちの知らぬところで
あちらの世界で何かしてくれてるのかもしれない。

赤ちゃんと猫は見ているだけで癒しになるが、大人の人間はそうはいかない。

人間様は、自然界のすべてどころか、地球自体も自分たちのものと勘違いしている人も少なくないが、人間も地球の仕組みの中の一つであり、地球そのもの。

「私がやりたいことはなんだろう?」と思う時、
我(が)で考えると、自分が幸せになる、お金持ちになる、たくさん所有する
などが基準になりがち。

でも本来、「存在」は、自分を生かすためではなく、
全体の成長進化のための役割があるのではなかろうか?


動物にはできなくて、人間にできることはなんだろうか?と考えてみる。

思考する、笑う、未来について考える、道具を使う、などいろいろ出てくる。

ではその能力を使って、他のためになることはなんだろうか?と考えてみる。


もっと具体的にいうならば、「自分が何をやりたいか?」と探すのではなく、
「自分が他のためにできることはなんだろうか?」と問うてみる。

他の人やものになくて、自分にあるもの、自分にできること。

それはあなたが他のために活かせることなので、それを発揮しないという手はない。

対象は、人でも、自然でも、動物でも、物でも、会社でも、家族でも、
数式でも、アイデアでも、なんでもいい。

あなただからこそできること。

それはある。

何かは知らない。


「やりたいこと」を探す時、そんな風に探してはどうだろうか?

あなたが他のためにできること。
あなたならではのやり方で。


寝たきりの人は動けない、でも自分は動ける。
ならば、代わりにできることをしようか。

そんな発想でもいいだろう。


「自分」というリソースをどのように使うかは、あなた次第。


自分を満たそう、自分を幸せにしよう、と自分のことを考える段階も必要。
まずは自分を受け入れていなければ、他のために動くのは偽善になる。

でも、自分を幸福にしようと思うより、
「自分は他を幸福にする存在だ」と受け入れることができると、
根拠なく、自分っていいやつだと思えてしまう。

その場で自分のことが好きになれる。

ここで「他」と言っているのは、「自分以外」のこと。

人も物も動物も石も植物も空気も、自分以外のもの全てを含んでいるので、
「他人」のことではないです。

この世界が多種多様に満ちているのは、お互いがお互いの特質を生かして共存できるから。

弱肉強食ではなく、分かち合い、与え合い、譲り合い、共に生きる。
「共に生きる」には、「食いつ食われつ」も含まれる。


「ライオンがシマウマを捕まえて食べるのは自分のためじゃないですか?」
という人もいるだろう。

確かにそれもあるけれど、大きな流れで見たら、
ライオンは自分の中の微生物や細胞に食べ物を与えていて、
また自分の家族が生きられるように狩をしている、
ライオンという種の保存のために食べている、と考えると、
自分だけが生きながらえるために獲物を捕らえているわけではないのがわかる。

人間は、動物より自我が強いから「自分だけのために」と行動することもできるけど、
共存社会に生きているので、それで生きていくのは辛いものがある。

あなたという存在をあなたから切り離してみて、
「この人物(あなた)にどう活躍してもらおうか?」と考えてみよう。

人は、人から喜ばれたり、感謝されたり、尊敬されたり、
認められたりするとうれしい生き物。


あなたは人を幸せにできる人です。
それを自覚し始めると、あなた自身が幸せになれます。



メルマガ登録をぜひどうぞ! → メルマガ登録

セッションメニューはこちら!



人気ブログランキングへ ←ポチッと応援を!いつもありがとうございます m(_ _ )m

↑このページのトップヘ